事実と真実
これは436回目。
事実と真実は違う。
事実というのはほんとうにあったことだ。だから一つしかない。
しかし真実は、いくつもありうる。同じ事実でも、真実は複数ありうるのだ。
たとえば、セクハラなどいい例だ。男が女の手を握ったとする。その事実は一つである。しかし、男は愛情の表現のつもりで、そこに何の嘘偽りもなかったとする。しかし、女は不快に思えば、それは卑猥な行為を強制されたということになる。どちらも真実だったとしても、その意味するところはまったく異なる。
正義も似たようなものだ。
真実とは、正義と同じで、とても主観的なものだといっていい。
「事実はこうだが、真実を話そう」というのは、こういうことだ。真実の中には、ときに憶測が含まれることも許される。が、事実には憶測が介在する余地はなく、客観的な事実一つだけが存在する。
ときに人間関係がうまくいかない場合というのは、往々にしてこの「事実」と「真実」の区分けがきちんとできていないときだ。
事実を否定する人、そうはたくさんいない。否定のしようがないからだ。しかし、真実を否定する人たちはおびただしく存在するのだ。
人間関係がうまくいかないというのは、ここにほとんどの原因が集中している。
夫婦や恋人同士の喧嘩、親子の喧嘩、会社での争い。なんでもそうだ。
うまくいかない場合というのは、たいていこのとき、相手の考え方(真実、正義)を全面否定するときである。他人の自由を簒奪しているのだ。
それを予定調和させるものは、倫理(社会的良識)と、もう一つは相手の「立場」を認めるということに尽きるだろう。
これが、自由と民主主義の本質だといっていい。
相手の「立場」を認めて、お互いの着地点や、割り切りの線引きをするに当たり、必要になってくるものは、愛しかない。突き詰めれば、それはより信仰に近い情念といってもよいだろう。
絶対的なものは、この世に存在しない。すべて相対的なものにすぎない。事実だけで世の中は動かないし、芸術も喜びも幸福も生むことはない。
しかし、多様な真実がぶつかり合いながら、予定調和を試みる志があれば、それらの実現は可能だ。
ときにこの真実というものは、個々の人によって違うわけだから、嘘であることもある。真実だと言っていながら、実は嘘なのだ。
俗に「嘘も方便」などという。
しかし、方便とは、嘘なのだ。嘘も方便などということはない。口は禍のもとともよく言うではないか。
それを言わずに済むことが大事だし、それは知恵だ。
方便がもし「有意」であるとするなら、あくまでそれが自分以外の人、他の人の為だという場合に限られる。
自分の為にする方便は、しょせん嘘にすぎない。たいていそういう人は、自己弁護、自己正当化しかしない。自分の過ちだったとか、反省とか無縁であることが多い。口をついてでるのは、他人への攻撃ばかりだからすぐわかる。
真実といっても、この危うい罪が、底には潜んでいることを忘れないようにしよう。
なんだか、説教臭い話になってしまった。
ご容赦。
いい歳をして、嘘という真実しか言わない人たちがいるので、ついこんな話を書いてしまった次第。