朝、何を食べますか?

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これは443回目。

専業主婦のおられる家庭はまだしも、共働きや、一人暮らしだと、ついつい朝食というのはなおざりになる。

が、健康的に朝、飯を食わないというのは最悪だ。
某歌舞伎役者などは(かれらは実際、重度の肉体労働者といってもいい)朝からステーキや焼き肉だそうだ。

朝はそれほどエネルギーをたっぷり溜め込んでも構わないのだ。
昼など、正直抜いても構わないが、朝はそうはいかない。

昼を抜くくらいになると、夜は自然、早めにとることになる。
すると、就寝時にはちょうどこなれて、これまた体には宜しい。

だいたい、昔から日本では一日二食だった。
公家の世界では、朝食はお昼くらいにとり、夕食は夕方4時頃にとっていたことが確認できている。
一般庶民も、朝早く起きて一仕事終えたあとに朝食をとり、仕事の合間に遅い昼食を取っていた。これが事実上の夕食だった。
若干公家とは、時間差があるが、ほぼ上下の関係無く、日本人は一日二食だった。

一説には、1657年、江戸時代の明暦の大火の後、どうも食を取り巻く事情が変化したと言われている。
このとき、江戸を復興させるために、各地から大工、左官屋など職人が集まって来た。
彼等は肉体労働者なので、一日二食では体が持たなかった。とはいえ、いちいち食事のために家に帰るわけにもいかず、そこであちこちに屋台や飯屋ができるようになった。
いわゆる、今で言う外食産業が勃興したのだ。
従来の飯屋でも、こうした復興のために働いていた職人たちのために、昼過ぎにも食事を出すようになっていったらしい。

もちろん異説はある。
すでに戦国時代、戦いに明け暮れる武士たちが、体力をつけるため一日三回食事を取っていた生活習慣がたしかにあり、庶民にもそれが浸透していったのが、だいたい江戸時代中期だという説だ。
ただ、浸透するのに100年かかるというのも、なんだか納得し難いものがある。

いずれにしろ、江戸中期以降、日本人の間では一日三食が当たり前になっていったことは間違いない。

そのほかにも、加速させた要因は指摘されている。
なにしろ物流がぐっと効率化されたのである。
街道や廻船の流通が整備されたことや、照明用の菜種油も広く出回ったことで、人間が起きている時間帯がそれまでより数段長くなったということもそうだ。

もともと行灯(あんどん)に魚油を使っていたのだ。
よく怪談などで、化け猫が行灯の油を舐めるというシーンがあったりするが、それは魚の油だからだ。
ところが、これが臭い。
部屋も煤けること甚だしい。

それにくらべて菜種油はずっと匂いもなく、煤けることも少ないのだが、なにしろ食用にするくらい上質であり、菜種油一升で、米が二升買えるといわれたほど高価だった。
なので、富裕層はともかく、一般庶民は日暮れとともに寝てしまうのが、賢明だったわけだ。

ところがこの江戸中期以降、菜種油の生産量が増したことから、価格帯が低下し、庶民も容易に入手が可能となった。
夜なべ仕事や、夜遊びもできるようになり、次第に夕食や夜食とも言うべきものが、定着していった。
結局、昼食の時間を調節しながら、一日三食が一般的になっていったということらしい。

しかし昔のように、栄養価の低い食事内容だった頃ならともかく、いまではいくらでも食おうと思ったら食える。
栄養価は高すぎる。
いらない成分までふんだんに含まれている。
食ってろくなことはない食事になっているのだ。

一日三食だと、結局その分解消化のために血液が胃腸に集中する。
当然、体全体は冷える。

若い人ならまだ朝昼晩と飯を食っても平気かもしれないが、もう中年以降になってくると、やはり三回は多すぎる。

冒頭で朝飯は必須だと書いたが、これも実は考えようで、異説はある。
朝は、とくに体内の不要なものを排出する時間帯だから、昼まで食べない「プチ断食」をして、胃腸に負担をかけず、体全体をリセットすることのほうが望ましいという考え方だ。

さあ、一体どちらなのだろう?

結局個々人の、慣れ親しみ易いリズムというのが一番だ。

軽く朝なにか消化の良いものを腹に入れて、遅めの昼をがっつり食って、夜は簡単なもので口直しをする。
あるいは、朝からしっかり食べて、昼をほぼ無しか、簡単なものにする。夜、早めにきちんと食べて、腹が落ち着いてきたところで寝る。

どちらのリズムがその人にとって楽かということだ。

わたしなどは、どうも朝食わないと、落ち着かないのである。

で、フランスパンのようなものを、ベーコンエッグと、簡単な野菜(キャベツやピーマン、アスパラガスなどをどれか炒めたり、アボガドを半分とか)を付け合わせて食うことが多い。

お茶漬けに昨夜、家族が食いのこした塩鮭というのもよくある。
一番簡単なのは、やはり昨夜の食い残しの味噌汁を温めて、冷や飯にぶっかけて食うというパターン。

週末や連休など、ちょっと余裕があると、男のくせになにか作ってみたくなる。
これが、また性格なのか自分の食いたいものを作りたいのだ。

今日ここでつらつら書いてきたように、朝、軽い、そして体に良さそうなものというもので言えば、やはり蕎麦粥(そばがゆ)だろうか。

これが一番だと思っている。

これを知ったのは、実は日本ではない。
日本に蕎麦粥があるということは、昔から知っていたが、とくに食べた経験もない(というか、そういう記憶がそれまで無かった)ので、実質的な体験をしたのはなんと旧満州のハルビンであった。

しょっちゅう旧満州には80年代を通じて出張していたので、数少なくなってきていた白系ロシア人たちの知り合いがいた。
彼らの家に泊まりに行ったときなどには、朝よくカーシャと呼ばれる朝粥を食わされた。

美味かったのだ。
単純な味だったが、実に美味かった。

ある知り合いの家では、粉チーズをぶっかけられたものが出され、いささか往生したことを覚えている。

たいていはバターが載っていることが多かったと思うが、そのまんまというのも結構あった。

ペリメニとか、ほかのものと抱合せで食うのだ。

わたしは重湯に近い、水っぽい粥が好きなのだが、ハルビンで食わされたものは(ロシア人たちが出してくれたものは)、たいてい水気が飛んだものばかりだった。クスクスに近い食感のものすらあったように記憶している。

洋風の粥、オートミールがどうかなったようなもので、悪くはないのだが、わたしの中の蕎麦粥というイメージと、ずいぶん違っていたので面食らったのだ。ミルク仕立てなどのときには、正直、一瞬絶句したものだ。
もちろん、味自体は悪く無かったと思う。

聞けば、ロシアは世界最大の蕎麦消費国なのだそうだ。

わざわざ粉にして麺にして食ってる連中(日本人を指す)を馬鹿じゃないか、と笑っていたのを覚えている。
蕎麦は、蕎麦粥で食うのだ、と自信満々であった。

この蕎麦粥、その後日本でも自分で、何年かに一度は急に思い出したようにつくってみては、悪くない、と自分で舌鼓を打つようになった。

そして池波正太郎の好みの根深汁を真似て、この蕎麦粥に、炙った鶏皮を小さく刻んでまぶし、ごま油を若干垂らして食うのだ。

ここで、重要な抱き合わせのものは、私の場合、(これは好みがあると思うのでお勧めはできないが)中国や台湾、香港で粥と一緒によく食されている「腐乳(フールー)」だ。

中華街に行けば、瓶詰めなどで売っているのですぐわかる。
たぶん日本人はほとんど食べない。
わたしは異常に好きなのだ。

豆腐に麹をつけて、塩水中で発酵させたものだ。
なんと、千年以上の歴史があるというもので、中国全土で食べられている。

大陸では、北の粥と言ったら、ほぼ日本と同じ白粥だ。味つけはしていない。台湾でもそれが普通だったように思う。だから、この腐乳が重宝した。

香港のように大陸を南に下ると、にわかに粥といったらいろんな具材が入った味つけされたものが普通だった。それはそれで美味しかったが、やはり白粥のほうが自分としては好みだったように思う。

ちなみに、大陸の、北京など北のほうでは白粥の付け合せに、たいていは空芯菜や豆苗などを炒めたものを食べていた。油条(youtiao)という揚げパンをちぎっては粥に浸して食べることも多かった。

不思議なことに、当時大陸ではこういう粥を食べるとき、ザーサイが欲しくなったりしたものだが、どういうわけかなかなか食えなかった。

聞けば、彼等に言わせると「店で出して、銭を取るような食い物ではない」ということだった。焼き餃子と同じ扱いだ。商品価値はない、という認識だったのである。(水餃子は店で食えたが、まず焼き餃子とザーサイは店で目につくことは無かった)

さて、話を戻すと、腐乳だが、これで蕎麦粥を食うと、絶品である。
一度、物好きな方はお試しあれ。人によっては、チーズでお粥を食べているようで、気持ち悪いという日本人も多かったが。

だいたい蕎麦の実は、一人分150gが目安だろうか、わたしは、米の白粥も「重湯(おもゆ)」が好きなように、蕎麦粥も水分の多い重湯的なもののほうが好みだ。

みなさんは、どろっとした粥、それとも重湯っぽいほう、どちらがお好みだろうか。



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