生き抜く要領
これは449回目。
雑感・生き抜く要領
やってみれば、失敗しても多少はなにか残るものだ。
しかし、やらなければ、得られたかもしれない、計り知れない可能性を失う。
たいてい、「力が無いから」といって何もしない人は、力があっても何もできない人だ。
ゲーテが言っていたように、「自分一人で石を持ち上げる気がなかったら、二人がかりでもその石は持ち上がらない」のだ。
たしかにわたしたち一人ひとりの人間は、いかにも非力に見える。
人、一人の誕生というものは、本人だけで受け止めるには、その可能性はあまりにも大きい。
母親のみで、あるいは夫婦のみで負うには、その責任もあまりにも重い。
だから家族をつくる。
家族が一緒になって、社会の最小単位を構成し、その未知の可能性と責任を担う。
それは、1+1=2の世界ではない。
1+1=3にもなり、1+1+1=4や5にもなったりする世界なのだ。
なにも家族という形態ばかりではない。
友人だって同じことだ。
それも、戦友に近い関係であれば、なおのこと。
死という、絶体絶命の危機を共有した仲間たちは、ときに家族の絆を遥かに上回るほど堅固な絆で結ばれるものだ。
その力とは、一人でいたら生まれない智慧であるかもしれない、協力であるかもしれない。
しかし、一番助けになるのは、やはり「共にある」という連帯感だろう。
心が落ち着くから、それまで見えなかったものも、見える余裕がでてくる。
たとえば、たちはだかる問題に、ときにわたしたちは心が折れそうになる。
しかし、そこに意味があるのだと思えば、立ち向かっていけるはずだ。
その意味は、たった一人で孤軍奮闘しているときには、こらえるのに精一杯でまわりが見えないものだ。
「同行二人」なら、多少は気持ちが落ち着く。
そして、それまで見えなかった「意味」に気づくことができる。
それが大きいのだ。
ライオンに名前がついていなかった時代、人類は無意味に恐怖しただろう。
しかし、一度「ライオン」と名付けられたら、それはもはや克服すべき「対象」と化す。
無意味な恐怖からは解放され、戦う勇気が生まれてきたはずだ。
この、「意味を知る」は、根性より、筋肉を強化するより、遥かにわたしたちを百人力にする最大の原動力にほかならない。
そして、その意味に一番近づくことができるときというのは、絶体絶命のピンチのときであることが多い。
・・・人間は、試練の刹那にその使命の意味を知る。(バーナード・ショー)
だから、それに意味があると思えば、何度でも立ち上がることができるはずなのだ。
人間であることの最大の名誉は、決して倒れないことではなく、倒れるたびに起き上がることにほかならない。
それは決して、力技ではない。
頑張ればなんとかなる、というものではない。
「なせばなる」ではなく、「なるべくしてなる」のが、一番スマートな生き方だ。
生き抜くための、「技(わざ)」を習得し、磨くことだ。
古武術に例を取ろう。
あの剣豪・宮本武蔵は、三人力とも五人力とも言われる怪力だった。
しかし、技(わざ)の稽古をするときには、いつも非常に軽い木刀を使ったそうだ。
やや軽くてちょうどいいらしい。
「型」を学ぶのには、それが一番良いのだそうだ。
力(腕力、体力)をつける訓練はたやすくできる。
歯をくいしばっていれば、できるのだ。
それなら、もともと体力の強い人、体の大きい人のほうが、絶対的に有利である。
しかし、この世界、彼等がつねに勝つとは限らない。
しかし、筋力がさほどあるわけでもない人が、「型」をしっかり学んで、全身にそれを染み込ませることができたら、どんなに怪力の人にも容易に勝てる。
「技」とはそういうものだ。
力任せの世界ではないのだ。
この「技」を体力と混同する、いわゆるスポーツという世界では、どうしても未熟さを精神力で塗り込めようとする嫌いが多い。
違うのだ。
「技」にこだわる(たとえば古武術など)のは、技術論を越えたものをつかむためだ。
自分は弱いと思うかもしれない。
非力だと嘆くかもしれない。
しかし、力の無い人が、軽いものを扱うことなら容易にできる。
そして古武術同様、それこそが宮本武蔵が剣豪となったように、生きる「技」の習得には一番の早道なのだ。
その境地というものは、腕力や体力のある人が、その力では通用しない世界だ。
それを感得するには、軽い木刀で何度も何度も、型を体に染み込ませるに限るのだ。
実はそうして感得された生き方というものは、柔らかい竹刀(しない)で剣道防具の胴を粉砕してしまうような斬撃力さえ生み出す。
ウェイトトレーニングによって補強された筋力では、そのような斬撃力は決して生まれない。
「型」が身につき、「技」が体そのものとなっているからこそ、このような奇蹟が生まれる。
こうしてみると、わたしたちがこの社会で生き抜いていくには、一人ではないという思い(同行者がいるという思い)、意味を知るために危機を恐れないということ、そして日頃からいとも容易な基本動作(仕事などの技)をこつこつと積み上げていくこと、そういったものが必要なようだ。
こうした基本を得ないうちに、力任せに木刀や竹刀を振り回したところで、なんの役にもたちはしないということだ。