ファーブルが見ていたもの

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これは428回目。昆虫学者として有名なファーブルです。先般、スティーブ・ジョブスが「知性の断片化」に対する答えとして、「リベラル・アーツ(教養)」を挙げたという話を書きました。その続きとでもいいましょうか。

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デジタル化が進むにつれて、どんどん人間の「知性の断片化」が進み、「個」の蟻地獄へと落ち込んでいく現代人。

このクライシス回避のために、スティーブ・ジョブスが唱えた一つの答えが「教養」だった。

一つの例かもしれない、と思ったものがある。

ファーブルとパストゥールの関係だ。

1865年に微生物学者のルイ・パスツールが、昆虫学者のファーブルを訪れた。

パストゥールは、コッホと並んで、『細菌の猟人(かりうど)』と異名をとった人物だ。

パストゥールは、蚕(かいこ)の病気の研究をしていたのだ。そこで、昆虫のことであるから、ファーブルを訪ね、蚕について基礎知識を学んだそうである。

なんとパスツールはその時まで蚕の繭(まゆ)は、幼虫が蛹(さなぎ)になるために作るものだと言うことすら知らなかったそうである。繭の中に蛹があることをこのとき初めて知っただそうだ。

ファーブルもびっくりしたそうだが、わたしもびっくりした。専門家というのは得てして、こういう基本的な常識を知らなかったりするものだ。

その後、パスツールはカイコの微粒子病病原体を発見した。

この例などは、典型的な例だろう。ファーブルというのは、その虫の生態や行動原理を、さまざまな環境変化の下で繰り返し観察をして、一定の「習性」を導き出す。

どうしても探り当てられない場合には、現象を「つなぎあわせ」て推論、仮説を立てたりしているので、現在は間違いが確認されているケースも多々ある。

しかし、ファーブルの時代も、すでに昆虫の解剖によって、臓器や骨格、筋肉、欠陥、神経、脳といった機能が克明に調べ上げられ、顕微鏡がこれを飛躍的に発展させていた。

いまではDNAの解析によって、さらにその「機能」の研究は進んでいる。

それは良いのだ。しかし、そもそもその虫はどういう生態であり、どういう行動形態をとる習性があるのか、そこが前提だ。おそらくここが教養という部分だろう。でなければ、「気づき」が得られないからだ。

この「気づき」があって初めて、微細な細分化された研究の深化が生きてくる。

『ファーブル昆虫記』の中の一節を引いてみよう。当時、微細な昆虫の機能分析に勤しんでいた学者たちへの批判である。

「あなたがたは、虫の腹を裂いている。しかし、わたしは生きた虫を研究している。あなたがたは虫を残酷な目にあわせ、忌避すべき、憐れむべきものにしている。わたしは虫を愛すべきものにしてやる。あなたがたは研究室で虫を拷問にかけ、細切れにしているが、わたしは青空の下で、蝉の歌を聞きながら、観察している。あなたがたは薬品で、細胞や原形質を調べているが、わたしは本能の、もっとも高度な現れかたを研究している。あなたがたは死を詮索しているが、わたしは生を探っているのだ。」

ファーブルの著作は、ノーベル文学賞に値するといって、ずいぶん推薦されたものだったが、そのくらい彼の昆虫記は芸術的だった。まさに科学はアートという、典型的な例だろう。

これがおそらく人間に、昆虫を通じてなにかを気づかせる大きな偉業の嚆矢だったとわたしは思っている。

こうした教養も大事だし、その気づきから、微細な専門研究も大事だろう。

が、教養の前提がないままに、微細な専門研究をしても、「当たる効率性」はずっと劣ってしまう



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