人間は自分をどう定義づけるのか

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これは429回目。人間の歴史は、ずっと自分たちをどう定義づけるかの変遷だったようです。

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ずっとそうだったのだ。

人間というものが始まってから、自分は誰なのか、どう定義づけるのかをずっと模索し続けてきたのだ。

昔、たとえばルネサンス前はある意味簡単だった。神の「啓示」がすべてだったのだ。

ところがルネサンスで大きく発想が変わった。天文学から激震が走ったのだ。地球が宇宙や世界の中心ではないということがわかってしまったからだ。

科学の一番重要な効果というものは、新しいものを生み出すことでも発見することでもない。過去の誤謬を正すことにほかならない。

この結果、人間はもっぱら神の啓示に頼っていた発想を変えて、自然を人間をすべての事象を、徹底的に「観察」することに重点を置くようになった。

これが科学をますます発展させていった。

この観察が、大航海時代を生み、果ては帝国主義や植民地主義を生むことにもなれば、細菌やウイルスの発見にも結びついていく。

今、この時代、さらに進んでAIやアルゴリズム、それを最大限に効率化させるインターネットという世界が新たなダイナミズムをわたしたちに与えている。

それが「解析」だ。

ところがここではたと壁に直面する。そもそもわたしたちがこういう意識の変革を促されてきた最大の動機とはなんだったか?

それを棚上げしたまま、ただ啓示や、観察や、解析といった「作業」に埋没してやいまいか。

人間は、「作業」に埋没している最中、いつもふとこの疑念に見舞われてきた。繰り返し繰り返し、波のように人間にそ疑念を与えてきた。

それはとくに科学が発展し、「作業」をどんどん効率化させてきた「ツール(道具・機械・技術)」に、もしかしたら人間が使われているのではないかという疑念を思い起こすのだ。

現代はとりわけそうだろう。一体、非常に便利になってきたこれら科学の産物であるツール(機械と呼び替えてもよい)と、わたしたち人間は、一体どこが違うのか。

それを今、もっとも過激な形で問い直されているのかもしれない。効率を求める欲求と、人間としての幸せが、これほど天秤にかけられている時代も、かつて無かったように思う。

今後はもっとこれが先鋭化していきそうだ。

誰かこれに答えを用意しているだろうか。わたしにはまだ無い。ただ放棄して、自然に回帰しようといったところで、まったく説得力を持たない。

人間の個々の行動や経験を予測し、それがビジネスの需要予測に使われるだけならまだしも、監視体制として用いられていくことはほとんど避けられない。

セキュリティの進歩といえば聞こえは良いし、実際それは素晴らしいことなのだ。しかし、裏側には中国共産党体制のような完全な監視国家化にも十分利用される道が存在する。

結構わたしたちは、人間にとってツール(機械)とはなにかという問題について、ぎりぎりの土俵際まで追い詰められているかもしれない。