中国の中の日本

文学・芸術

これは275回目。この話は、なにも「日本人のほうが中国人より凄い」ということを言おうとしているものではありません。文化というのは、常に融合して行くものです。使い勝手の良いものは、どんどん自国以外から取り入れればよい、と思います。そして変容していくのです。とくに言葉はそうでしょう。

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率直に言えば、日本が古来、インドや中国から文化を輸入したことは幸せであった。今の日本を思うだに、そう痛感する。それが、ギリシャやローマでなくて良かった。しかし、19世紀以降は、逆に中国が日本から多くのものを輸入した。産業や科学の技術移転などは、中国人も日本人も認めるところだろう。言わば、子供の恩返しだ。しかし、そんなものより、もっと遥かにインパクトの強いものがある。現代中国の中の、意外なところに日本が息づいている。それは、言葉だ。

中国には古来、「道」という概念はあった。「徳」という概念もあった。日本では歴史的に、この中国の儒教的倫理観を示す言葉を学び、ずっと継承してきた。

ところが、明治に入って、いわゆる西洋的な近代国民国家への変容を果たすために、意識改革の必要があった。西周(にしあまね)を始め、多くの知識人が智恵を絞り、新しい言葉をつくろうとした。そこで生まれたのが「道徳」という言葉だった。

これを、「和製漢語」と呼ぶが、少し有名な話がある。中華民国は孫文の辛亥革命( 1911年)で誕生したのだが、当初孫文は清朝打倒の行動を「造反」という言葉で表現していた。反乱、裏切り、そういった意味だ。

しかし、当時彼が亡命していた日本では、新聞各社が「孫文の支那革命」として論評していた。孫文はそれに 目が留まって「これだ」と思い、「今後はわれらの行動を『革命』と称することにする」と決意したという有名なエピソードがある。「辛亥“革命”」という言葉が歴史上に誕生した瞬間である。

社会、文化、経済、国家の発展は、こうした言葉の変遷に、如実に表れる。19世紀、西洋から押し寄せる帝国主義の脅威の前に、言葉が果たしたインパクトは想像以上のものがある。

この「和製漢語」だが、わたしたち日本人は特別なんとも思っていないのが普通だが、非常にこの点に衝撃を受けているのは、むしろ中国の知識人たちである。なぜなら、「和製漢語」なくして、毛沢東思想一つ生まれることはなかったからだ。

ここに、「現代中国語の中にある、日本からの外来語問題」という本がある。そのまま引用してみる。

『現代中国語の中の、日本からの外来語(以下、和製漢語と表記する)は、驚くほどの数がある。統計によれば、わたしたちが現在使用している社会・人文・科学方面の名詞・用語において、実に70%が日本から輸入したものである。

これらはみな、日本人が西洋の相応する語句を翻訳したもので、中国に伝来した後、中国語の中にしっかり根を下ろしたのである。

わたしたちは毎日、東洋のやり方で西洋の概念を論じ、考え、話しているのだが、その大部分は日本人によってもたらされたものである。このことを思うと、わたしは頭が痒くなってしまう。

実際上、和製漢語を使わなければ、わたしたちは今日ほとんど話をすることができない。わたしたちがこの和製漢語を論じる文章を書くとき、大量にこの和製漢語を使わなければ、根本的に文章が成立しないのである。』

明治維新後、中国から日本にやってきた留学生の第一陣は1896年だった。日清戦争が終わった翌年だ。日露戦争直前の1901年には280名がやってきた。日露戦争開戦の1904年には1300名。終結した翌年には一挙に8000名に増大した。これが最高記録である。その後毎年、数千名単位で中国からの留学生があり、日中全面戦争となる1937年に途絶えるまで、合計6万1230名がやってきたことになる。不幸なことに、中国における革命に参加するため、あるいは日本との抗日戦争に参加するため、多くは途中で帰国しており、完全に学校を卒業したものは、1万1817名である。

彼らは、みな明確な、烈々たる使命感を持ってやってきた。つまりそれは、明治維新後の日本がやったことを学ぶと同時に、日本を通じて、西洋文明を祖国に紹介することだった。従って、彼らは短期間の速成で、日本語教育を受けたのち、ただちに、日本書の翻訳に取り組み、それを日本で、あるいはまた中国国内に送って出版したのだ。

中国国内でも日本書の翻訳ブームが起きていた。当時翻訳された書物は、政治、経済、哲学、宗教、法律、歴史、地理、産業、医学、軍事、文学、芸術などすべてに及んでいる。マルクス=エンゲルスの「共産党宣言」から、川口章吾の「ハーモニカ吹奏法」まで、あらゆる分野にわたっている。

つまり、当時中国には共産党などと言う言葉も無かったし、宣言ということばも無かったのだ。

王国維は、日中両国が西洋語を翻訳する方法の違いを指摘している。日本人は、西洋語から和製漢語をつくるのに、二文字、あるいは二文字以上の言葉を組み合わせる。ところが、中国人は単漢字(一文字)を用いるのが習慣であった。ここに、語彙の精密度、不精密性に大きな差がでる、というのだ。

中国の知識人によれば、当時日本でつくられた和製漢語というものは、きわめて精緻に中国語の造語方法に則って行われているという。たとえばば、・・・・

●修飾語+被修飾語
(形容詞+名詞)
人権、金庫、特権、哲学、表象、美学、背景、化石、戦線、環境、芸術、医学、入場券、下水道

(副詞+動詞)
互恵、独占、交流、高圧、特許、否定、肯定、表決、歓送、仲裁、妄想

●同義語の複合
解放、供給、説明、方法、共同、主義、階級、公開、共和、希望、法律、活動、命令、知識、総合、説教、教授

●動詞+客語
断交、脱党、動員、失踪、投票、休戦、作戦、投資、投機、抗議、規範、動議、処刑

先の書物の執筆者・王氏は言う。

『わたしが中国人に聞いてみても、和製漢語があまりにも違和感のない訳語であったせいか、中国人は「断交、脱党、動員、政治、経済」などの言葉が日本語からの外来語であるとは気がついていない。これらの言葉は、中国人にとってみれば、外来語のはずなのであるが、日本語由来の外来語であることを、99%の中国人が知らないのである。』

大学教授の陳生保氏の論文に「中国語の中の日本語」という論文がある。ここから、そのまま引用してみる。

『中国には「漢語外来語辞典」があるが、一万あまりの外来語が収められている。二千年の間に中国語に入ってきた外来語である。数から言えば、このうち日本語は約一割を占めているにすぎない。

総数1万あまりの外来語には、遠い昔ペルシャ、インド、および西域から入った「獅子」「葡萄」「琵琶」などの語のほか、「仏陀」などの仏教用語が多く、かなりの部分はすでに死語か、あまり日常は使われない言葉になっている。

それに対し、日本由来の外来語は、近代に入ってからどっと入ってきたものばかりで、ほとんどは常用語として中国語に定着している。』

驚くべきことに、この言葉の伝播だが、ふつう外来語というのは、名詞であることが多い。どこの国でもそうである。ところが、和製漢語として中国語に定着したものには、驚くほど、動詞も多いのである。たとえば、服従、復習、支持、分配、克服、支配、配給など、中国語において、動詞として使われている。

もちろん、自然科学や社会科学の基本概念の多くも、日本語からである。たとえば、哲学、心理学、論理学、民俗学、経済学、財政学、物理学、衛生学、解剖学、病理学、下水工学、土木工学、河川工学、電気通信学、建築学、機械学、簿記、冶金、園芸、和声、工芸美術など、これらの名詞はすべて日本語から輸入されたものである。

中国の専門家による調査では、二音節の基本語で、日常会話における出現頻度が最も高い言葉として、88語が挙げられているが、このうち和製漢語は28語である。つまり31.8%。およそ、三分の一を占めていることになる。

しかし、三音節になると、もっと凄いことになる。二音節の和製漢語に、は「化」「力」「式」「性」「的」「型」「感」「界」「線」「率」「法」「「度」「品」「者」「作用」「問題」「時代」「社会」「主義」が組み合わせられることにより、実は夥しい和製漢語が中国には存在していることになる。

(化)
一元化、多元化、一般化、大衆化、自動化、電気化、現代化、工業化、機械化、長期化、理想化

(式)
方程式、恒等式、西洋式、日本式、旧式、新式

(力)
生産力、消費力、原動力、想像力、労働力

(性)
可能性、現実性、必然性、偶然性、周期性、放射性、伝統性、必要性、創造性

(的)
歴史的、大衆的、民族的、科学的、自然的、必然的、相対的、絶対的

(界)
文学界、芸術界、金融界、教育界、出版界

(型)
新型、大型、小型、流線型

(感)
好感、悪寒、優越感、敏感、読後感、危機感

(点)
重点、要点、焦点、注意点、観点、出発点、終点、着眼点、盲点

(観)
主観、客観、悲観、楽観、人生観、世界観、宇宙観、概観

(線)
直線、曲線、放物線、生命線、戦線

(率)
効率、生産率、使用率、利率、廃品率

(法)
弁証法、帰納法、演繹法、分析法、表現法、選挙法、方法、憲法、民法

(度)
進度、深度、強度

(品)
作品、食品、芸術品、廃品、記念品

(者)
作者、読者、訳者、労働者、著者

(作用)
同化作用、心理作用、精神作用、副作用

(問題)
人口問題、土地問題、社会問題、民族問題、教育問題、国際問題

(時代)
旧石器時代、新石器時代、青銅器時代、鉄器時代、新時代

(社会)
原始社会、奴隷社会、封建社会、資本主義社会、社会主義社会、中国社会、国際社会

(主義)
人道主義、自然主義、浪漫主義、現実主義、帝国主義、排外主義、復古主義

どうだろうか、中国語を知らない大多数の日本人にとっては、ぴんとこない点かもしれないが、もともと漢字を生んだ中国人にしてみれば、実は現代実用語の基幹をなす部分のほとんどが和製漢語であることを知ったとき、彼はとてつもない衝撃を受けるのである。五千年というナショナリズムが、音をたてて崩れ去ってしまうからだ。

冒頭の書物の執筆者王氏は、巻末にこう述べている。

『最後にわたしは言いたい。わたしたちが使用している西洋の概念について、基本的には、日本人がわたしたちに替わって翻訳したものであり、中国と西洋の間には、永遠に日本というものが挟まっているのである。』

ところが、話はこれで済まないのである。以上はすべて、西洋語を日本人が苦心惨憺してつくりあげた新造語としての和製漢語である。ところが、もともと西洋語だったわけではなく、もともと日本語として存在していた言葉まで、実は和製漢語といっしょに、怒涛のごとく中国語に入っていったのだ。

ざっと、並べてみよう。

場合、場面、場所、便所、備品、舞台、貯蓄、道具、破門、派出所、必要、方針、表現、一覧表、故障、交通、共通、距離、命令、身分、目標、内容、認可、玩具、例外、連想、作物、請求、接近、市場、倉庫、集団、症状、初歩、創造、体験、退却、但書、高利貸、興信所、立場、出口、引渡、読物・・・・・

これらは、必ずしも日本人が西洋語から翻訳したものではなく、古来、あるいは近代以降、日本人が日本語として生成してきた漢字語である。日本からこれらの言葉が入ってくるまでというものは、中国語にはこのような漢字語の使用例が無かった。

もちろん中国の名誉のために書いておくが、中にはもともと中国語として存在していたような和製漢語もあるのだ。たとえば、冒頭でつかった「革命」という言葉だが、もともと「易経」の中に、王者の姓を変える、すなわち王統を変えるという意味で使われていたことははっきりしている。しかし、19世紀、中国人たちは辛亥革命を起こしながら、それを革命とは呼ばず、造反と呼んでいたのだ。死語と化していた「革命」という言葉に再び息を吹き込み、この現代に蘇らせたのは日本人である。「政治」や「経済」もこの類いである。

中国には、こうした外来語辞典というものがあるのだが、今ではほとんど一般の書店では手に入れることができないらしい。先述の陳生保教授の論文が引用している「漢語外来語辞典」というのは、正式には「漢語外来詞詞典(高名凱など四氏共著)」である。が、すでに絶版だ。古本で、果たして手に入れることができるだろうか。

おそらく、器量の小さいナショナリズムか中華思想がわざわいしているかもしれないし、90年代以降は、ことさら反日的なカードを切ることが恒常的になってきている中国だ。こういう事実は、大変都合の悪い話だろう。研究自体が公表される機会も、封殺されているのかもしれない。

くだんの「漢語外来詞詞典」は、1960年から22年にわたって編纂されたもので、1984年に出版されている。1万の外来語が収録されており、正確には和製漢語はこのうち、896語である。

この貴重な辞典の一部を有している日本人がネットである頁を例にとって説明しているが、そこに「労働」という言葉が掲載された箇所の画像がアップされていた。

それによると、「労働」という単語の語源は、日本だと書かれている。英語から意訳したものだとしている。そして「働」の字は、日本人がつくった漢字であり、古代漢語にはこの字は無かった。もともと中国語には「労動」という言葉はあったが、英語のlabourとは別の意味であった。しかも、もともとあった字は「働」ではなく、あくまで「動」であった。つまり、漢字ですら、日本人がつくったものを、近代中国を日本から輸入してしまったことになる。

ここに「毛沢東思想概論」という短い文章がある。中国語の原文だが、525文字による解説だ。このうち、明らかに和製漢語であるものは、136文字。つまり、26%が和製漢語であるということになる。全文の四分の一である。毛沢東の思想一つでさえ、日本語の力を借りなければ、表現できないらしい。

くだんの外来語辞典が中国で出版された1984年と言えば、わたしが盛んに中国大陸の各地方の鉱山を仕事で巡っていた時期だ。今のように、南京事件や日本の侵略のことを、誰も口から泡を飛ばして騒ぎ立てるようなことはなかった。

ある客先などは、わたしがそのことに話を振ると「気にするな。昔のことだ。きみたちが殺した中国人の数より、われわれがこの10年間(文化大革命のこと)に同胞を殺した数のほうがずっと多い。日本人のことをあれこれ言えないよ。」と言ったのを、今でも印象深く覚えている。

あの当時、まだ中国は、自分の過ち、脆弱さ、欠点、問題性、そしてどのくらい遅れているか、ということなどに、真摯に向きあって、明日のためにどうすればいいのか、ということを客観的に、そして貪欲に知ろうとしていた時代だ。だから、こういう辞典も世に出る機会があったのだろう。いまやそれは、夜郎自大と化している。増上慢である。

日露戦争までの日本人にはこの増上慢はなかった。80年代までの中国人と同じだ。明治の日本人は清貧にして、明るい未来を信じ、ひたすら学び、力を得ようとした。西洋人から馬鹿にされまいと、必死に自らの間違いを正した。そもそも謙虚であった。

今の中国は、ちょうど日露戦争以降のわたしたちの姿によく似ている。日本人が増上慢となったのは、明らかに日露戦争以降だ。もはや世界から学ぶものは何も無く、自他共に認める一等国であるという思い上がりがあったのだ。わたしの目には、哀しいことに今の中国の姿が、どうしてもオーバーラップして見えてしまうのである。



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