人間の品格

文学・芸術

これは286回目。人間、歳を取ると、どんどん自分の嫌らしさが見えてきます。若いときにはエゴが先立っているので、見えても見ようとしない。が、年齢を超えてくると、まざまざと思い知らされるものです。

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まだ若い頃はそれでも強引に自分の嫌らしさを振り切って、忘れることもできよう。が、いい歳をしていて、それが見えないような人間は、救いようがない。また、見えていても今度はまことしやかな理屈をつけて正当化するようになってくるから、始末に負えない。

文芸春秋社を創刊した菊池寛という作家は、日本文学史上で「通俗作家」という位置づけになっている。が、私に言わせれば、純文学と大衆文学(通俗文学)」の境界線など、曖昧どころか、無いとすら思っている。

実際、菊池寛をしのぐ文学の豊かさを見せつけた作家が、どれだけいるだろうか。

彼の作品の中に、「入れ札」という有名な小説がある。

江戸時代後期の侠客・国定忠治は、11人の子分から自分に同伴させる3人を選ぶため、無記名投票を行う。それが、「入れ札」だ。

古株で忠治とは旧知の仲だった九郎助には人望がなかった。しかし、自分は選ばれたい。そこで、ズルをして自分で自分の名を書いて入れ札したのだ。

ところが、札を開けてみると、自分には、自分が書いた一票しか入っていなかったことに愕然とする。

しかも、そのズルを知らない弟分の弥助は、こっそりと、「九郎助に票を入れたのは自分だ」と嘘を言ってくるのだ。

九郎助は弥助に激しい怒りを覚えるが、弥助の浅ましさより、はるかに自分の卑しさに気づき、やるせない思いに叩きのめされる。

小説の前半では、忠治らの、まぶしいほどの義侠心溢れる男たちの絆が描写されている。後半は、それと対照的な、義侠心のかけらもない、情けない人間真理が浮き彫りになってくる。

男らしくなれない九郎助の、これ以上ないと思えるほどの「男として情けない」有様に、読む者も打ちひしがれる。ラストでは、思わず、読者は九郎助に「がんばれ、九郎助」と声を挙げたくなるはずだ。

思えば、人間の品格というものをつきつめれば、「意地」にたどり着く。利害も、名誉も、勝敗も度外視した「意地」である。その意地を通せるかどうかが、人間の品格を決める。

その意地は、徹頭徹尾自分以外のための意地である。だからこそ、意地を張れる。ちょっとでもそこに自分の得(とく)や都合のよさが入ってきてしまうと、それは意地ではなく、ただのエゴになる。

そんな爽快な人間の「意地」を見せてくれる小説は、ほかにもある。たとえば、太宰治の「新釈諸国噺」という短編集だ。江戸期の井原西鶴の作品の翻案なのだが、おそらく、数ある太宰治の作品の中で、もっとも太宰らしく、もっとも見る者に「まっとうな人間の品格や生き様」という点で、感動を与える内容だ。彼の最高傑作といっても、否定する人はいないだろう。ぜひ一度ご賞味あれ。



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