大改造

文学・芸術

これは291回目。おぞましい話ですが、19世期初頭までのロンドンもパリも、それぞれのフラットでは自家製肥溜め(こえだめ)でした。糞尿が溜まると、それを窓から平気で表に投げ落とし、捨てていたそうです。たまたま下を歩いていた人間こそ悲劇。糞尿ばかりではなく、日常の生ゴミもいっしょに投げ捨てていたのだそうです。

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だから、いつも悪臭の漂う大都会であり、それがとくに香水の発達と普及に輪をかけたらしい。もちろん、水道設備がほとんど無かったから、風呂の習慣も浸透していなかった。体臭もそれだけひどかったことも、これを促進したであろうことは、想像に難くない。

こうした大都市の衛生状態が良いはずがない。こうした中、19世期中ごろ、ナポレオン三世の治世下、パリでは、「大改造」が行われた。セーヌ県知事ジョルジュ・オスマンが中心となった空前のパリのスクラップ・アンド・ビルド(破壊と再建)だ。

これが後に、世界的な現代都市計画のモデルとなっていった。都市整備により経済を活性化するとともに、当時、しばしば騒乱のもととなっていたスラムを排除するものでもあった。産業革命後の経済界の要請にも沿うもので、「パリ大改造」は近代都市計画・建築活動に大きな影響を与えた。

手法は、土地収用(公共事業に必要な土地を、補償を行ったうえで強制的に公有化すること)によるもので、「パリ大改造」では道路に加え、その沿道の土地も収用できる規定を適用した。そして街路や区画を整備した後、資産価値の上がった沿道の土地を売却し、事業資金に充てた。これによって開発利益を還元することとなった。

パリに行ったこともないので、Wikipediaあたりから、その概要を抜書きすると、エトワール凱旋門から放射状に並木が配されたブルヴァールと呼ばれる広い12本の大通りを作り、中世以来の複雑な路地を整理したということになっている。オスマンの計画によって破壊されたパリの路地裏面積は実に7分の3に上ったという。

交通網を整えたことで、パリ市内の物流機能が大幅に改善された。また、暴徒や反乱勢力を助けた複雑な路地がなくなったため、反乱が起こりにくくなった。(この前、大火災に遭った)ノートルダム大聖堂などがあるセーヌ川の中州に位置するシテ島は、19世紀当時においては貧民層が集まっていたが、「大改造」後は一変。パリでも最も清潔な一角になっていった。

また、上下水道を施設し学校や病院などの公共施設などの拡充を図り、衛生面での大幅な改善がみられ、当時流行していたコレラの発生をかなりの程度抑えることになった。

大変有名なのは、市街地がシンメトリー(左右対称)で統一的な都市景観になるよう、様々な手法を取ったことだろう。例えば、道路幅員に応じて街路に面する建造物の高さを定め、軒高が連続するようにしたほか、屋根の形態や外壁の石材についても指定した。大通りに並ぶ街灯の数も増やされ、治安面での改善も大きくすすんだ。

しかし、世の中いいことばかりではない。この「大改造」によって失われたものもたくさんある。まず、美しくなった一方で、あまりにも画一的な都市景観となってしまったということだろう。確かに、それを美しいと思うか、画一的で面白みに欠けると思うかは人によるかもしれない。

また、スラムが一掃されたことの副産物として、いわゆる下町の自治共同体は、完全に破壊されてしまった。現在の東京と同じく、隣の住人の顔も知らないという町になってしまったのだ。

この多くのコミュニティが破壊されたことは、文化的にはかなりのマイナスであることは、時が経てば経つほど効いてくる。小説などを読んでも、バルザック、デュマ、ユゴーといった作家たちの話の内容が、現在のパリの人間でもわからないという。

こうした都市計画は、明治以降、日本でもたびたび行われたが(とくに東京)、最大の改造は、1923年大正12年、関東大震災をきっかけにしたものだ。当時第二次山本内閣の内務大臣後藤新平が行った「帝都復興計画」だった。基本的には、東京という都市の基本的な骨格は、今にいたるまでこの後藤の大改造以来、変わっていない。

さて、その東京が、二度目の大改造のチャンスがあったのが、ご存知のように戦争末期の大空襲である。焦土と化した東京は、さらに進化できるチャンスだったが、なにしろ敗戦による国家破綻の下、まともな都市計画など実施できるはずもなかった。

この結果、東京オリンピック招致が決定してから、やっつけ仕事の突貫工事で、とにかく「間に合わせた」にすぎない。いわば、「接木(つぎき)」状態の東京だ。

今、二度目のオリンピック招致が決まって、東京はあの時棚上げした根本的な都市改造計画を実施できるチャンスが来ているはずなのだが、どうも安倍政権やらなければいけないことが多すぎるのか、19世期のパリを揺るがした「大改造」などの兆しは、微塵も見られない。

正直、ナポレオン三世以降のフランスなど、欧州では退勢著しい国家に成り下がっていったのだ。それが、未だに欧州の中心でいられる、その大きな要因の一つは、パリがなんといっても美しいからにほかならない。

パリのようなシンメトリーがなんでも美しいとは言わないが、では伝統的な日本の自然美を、この大東京で再現するような画期的な発想があるかと言われれば、それもなさそうだ。

少なくとも、天下の日本橋が、醜い首都高速の下に埋もれているのを放置しているようでは、とてもではないが、東京の大改造などおぼつかない。

タクシーの運転手に聞いたことがある。首都高速の橋ゲタの補強があちこちでなされているが、その工事関係者の話では、橋ゲタの中身の多くががらんどうであったり(時間が無かったので、ほとんどが手抜き工事だという)、とてもではないが、大地震に耐えられるようなものではなく、なおかつ今行われている補強も、「やっています」といったポーズ以外の何ものでもない代物なのだそうだ。とても補強などと言えたものではない、と言っていたらしい。

いずれ直下型の大地震が関東を襲うことは100%確実であるにもかかわらず、そこを問題の基点とした抜本的な東京大改造の議論が、どうも聞こえてこないのは、面妖な国である。それとも、大震災によって、スクラップ・アンド・ビルドの、スクラップを自然に委ねようという魂胆なのかとさえ、うがった見方をしてしまう昨今である。

ちょっと横道に話がそれるが、小説というのは、詩と違って、散文である。短編小説の場合は、それでも余計なことが削がれていて、簡潔に、必要な筋追いと描写で精緻につくりあげられている。ところが、長編になってくると、実に作家の癖が如実にあらわれており、ものによっては読者は敬遠することが多くなる。

なにも、長いから読むのがたいへんだ、ということではないのだ。長くても、吉川英治の「宮本武蔵」や、アレキサンドル・デュマの「モンテ・クリスト伯(岩窟王)」などは、おそらく一気呵成に読んでしまう人が多いのではないだろうか。とにかく、筋立て(プロット)が面白いわけで、それに付随する描写やエピソードは、そのプロットをより理解する上で、補助的な作用を持っており、長編にもかかわらず、無駄は無い。

ところが、ドストエフスキーの「罪と罰」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」などは、とてもではないが、好きな人ではないと、まず挫折する。わたしは変わり者だから(イデオロギーに強い興味のある人は、がんがん読むはずだ)問題なかったが、客観的にふつうは読める代物ではない。なにしろ悪文である。翻訳されているものを読んでいても、その悪文ぶりに容易に想像できるくらいだ。

なにが悪文にさせているかというと、プロットとは直接関係ないエピソードや会話などが、やけに長いのである。同じ長編でも、トルストイのものとは、このドストエフスキーはまったく比べようがないほど余計な部分が多すぎるのだ。これがまたドストエフスキー好きにはたまらないところなのだろうが、一般的にはうんざりしてしまう点だろう。

ヴィクトル・ユーゴーの長編小説は、おおむね非常に読みやすく、プロットの面白さも手伝って、どんどん読めるものが多い。大いに売れた大長編小説「レ・ミゼラブル」もそうだ。が、この中に、珍しくなんだこれは、という「余計な部分」がある。けっこう、うんざりなのだ。

「大改造」の話のテーマだったパリの都市計画にもからむことなので、ちょっと紹介してみよう。

主人公ジャン・バルジャンが、官憲の追求から逃れるため、パリの下水道に潜行するあの有名な場面だ。あの小説で、パリの下水道は世界中に知られることになった。

ジャン・バルジャンには、訳あって引き取り、自分の娘のように溺愛していた孤児コゼットがいた。このコゼットに愛を寄せるようになったマリウスが、瀕死の重傷を負う。ジャン・バルジャンはこのマリウスを抱えて、政府軍の攻撃で壊滅した共和主義者のバリケード付近のマンホールから下水道にもぐり、パリの暗黒の下水道を逃避行するのだ。

ジャン・バルジャンの天性のカンで迷路のような下水道(といっても、穴倉のようなイメージはなく、かなり広い)、延々5キロあまりの道程を踏破し、セーヌ右岸の放流口まで逃げ切る。このあたりの描写(小説のクライマックスだ)は豊島与志雄の名訳で読むと、実に息づまるような緊張感から、思わず手に汗をにぎるはずだ。

やや難点なのは、筋の複雑さかもしれない。主人公のジャン・バルジャンを典型的な善玉として、その不遇な生い立ちや、彼の不撓不屈の気力と博愛精神を全面に出しながら、それとまったく正反対で、おぞましいほど悪党のテナルディユとその家族の酷薄な運命。この二つの両立が大きな柱なのだが、不思議な糸でこの二つの柱がつながっている点を、複雑な筋立てで結びつけているのだ。

例えばワーテルローの戦いの記述を読めば、この歴史的大会戦がどんなふうに開始し決着したのか手にとるように理解できるが、この壮大な描写もしょせん、ジャン・バルジャンとテナルディユという二つの柱が結びついていく重要なきっかけをつくるための「よた話」にすぎない。

ナポレオン軍の敗残兵のテナルディユが、戦死した自軍の将校ボンメルシーから遺品を盗もうとしたところ、偶然彼が息を吹き返した。ポンメルシーは、テナルディユが蘇生させてくれたとばかり思い込み、恩を心に深く刻み込んでしまう。このボンメルシーの息子が、先述のマリウスなので話の筋が複雑になり、面白くなっていくわけだ。

このていどの「寄り道」であれば、プロットの躍動感にむしろ拍車をかけることになるから良いのだ。問題は、まったく関係のない話が飛び出してくるからたまらない。それも、論文といってもいい代物なのだ。

ユーゴーは、ジャン・バルジャンの脱出劇を描くにあたり、例によってパリの下水道について熱弁をふるう。その長さといい、しつっこさといい、岩波文庫版の豊島与志雄訳では第五部第二編が「怪物の腸」としてまるごとこの演説にあてられている。20ページだ。その冒頭から、パリは「黄金を無駄に川に捨てている」といって、ナポレオン三世が推進した下水道政策そのものを痛烈に批判するのである。要するに、ユゴーは、「パリ大改造」反対派だったのである。

読んでみればわかるが、もういい加減にしてくれといいたくなるくらいの長広舌が展開している。せっかくここまで読んだのだからと、辟易しながらつきあう以外にはない。

『パリーは年に二千五百万フランの金を水に投じている。しかもこれは比喩ではない。いかにしてまたいかなる方法でか? 否。昼夜の別なく常になされている。いかなる目的でか? 否。何の目的もない。いかなる考えでか? 否。何という考えもない。何ゆえにか? 否。理由はない。いかなる機関によってか? その腸によってである。腸とは何であるか? 曰く、下水道。・・・・ 科学は長い探究の後、およそ肥料中最も豊かな最も有効なのは人間から出る肥料であることを、今日認めている。恥ずかしいことであるが、われわれヨーロッパ人よりも先に支那人はそれを知っていた。エッケベルク氏の語るところによれば、支那の農夫で都市に行く者は皆、我々が汚穢と称するところのものを二つの桶いっぱい入れ、それを竹竿の両端に下げて持ち帰るということである。人間から出る肥料のお蔭で、支那の土地は今日なおアブラハム時代のように若々しい。支那では小麦が、種を一粒蒔けば百二十粒得られる。・・・大都市は排泄物を作るに最も偉大なものである。都市を用いて平野を耕すならば、確かに成功するであろう。もしわれわれの黄金が肥料であるとするならば、逆に、われわれの出す肥料は黄金である。・・・世間が失っている人間や動物から出るあらゆる肥料を、水に投じないで土地に与えるならば、それは世界を養うに足りるであろう。』

要するにウンコやオシッコを田園に返せ。これが彼の主張である。そして、下水道を完備させて排泄物を川に流し、その結果、河川を汚染させることなど、とんでもないまちがいだというわけだ。ユゴーは、当時の中国の例を取りあげているが、人糞尿の商品化ということでは、完全なリサイクル社会になっていたのは、同時代では日本(江戸時代)にほかならない。ユゴーが当時の日本にやってきていたら、うーんと感嘆したはずだ。

同時にユゴーは、おそらく日本の「豊かな田畑」の、あまりの臭さにさぞ閉口したことだろう。ユゴーは、「レ・ミゼラブル」の中で、「パリの糞は最上とされている。」とやけに妙な自慢をしているが、この最上というやつこそが、最悪に臭いのだ。

ユゴーが言うように、下水は土に返すべきだろう。その意味では、近代式の処理場は、その思想からして間違っている。ユゴーが死んだとき、フランスでは右翼も左翼も、ごぞってその死を悼み、彼に国葬の栄誉を与えた。それは、冗談ではなくこの偉大な作家が、「うんこ」をとても大事にしたからかもしれない。



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