言葉は南からやってきた

文学・芸術

これは302回目。続・日本人と日本語のルーツ、あるいは続・日本人はどこからきた、というような内容です。

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日本語には、とても面白い表現方法がある。同じ単語を繰り返す、重複語だ。たとえば、ドングリころころの「ころころ」だ。見ても聞いても、なんともかわいらしい表現だ。この類が異様に多い。「そろそろ」、「ぱたぱた」、「ひらひら」、「まじまじ」、「つるつる」、「すべすべ」、「ごくごく」、「ぴちゃぴちゃ」・・。挙げていったらキリがない。

この「重複語」というのは、日本語特有の癖の一つでもある。擬態(ぎたい)、擬音(ぎおん)、さまざまな形容をこの独特の言い回しで行なうので、日本語は大変表現力の豊かさを得ている。もちろん、日本語の表現力の豊かさは、同じ意味の言葉を、さまざまな表現で行なうケースも指摘される。

同じ雨でも、時雨(しぐれ)、驟雨(しゅうう=にわか雨)、霧雨(きりさめ)、小雨(こさめ)、小ぬか雨、五月雨(さみだれ)、小夜時雨(さよしぐれ)、篠突く雨、日照雨(そばえ=狐の嫁入り)、走り雨などなど、微妙な違いまで言い分けるたくさんの表現がある。しかし、なんといっても、世界の言語と比べても異色と言える特徴は、「重複語」だろう。

だいたい、言語というものは、そもそも「重複」を嫌う。英語でも、man(人)の複数形は、menになる。manman とは決して言わない。boy (少年)も、複数ならboys と、「s」 がついて複数を表し、boyboy とは絶対に言わない。中国語もそうだ。人が、複数集まった状態のことを、私たちは「人々」と言うが、中国語では「人們(ren men)」と言い、「人人(ren ren)」とは言わない。あるいは、「人家(ren jia)」と言うこともできるが、いずれにしろ、人という言葉を重複して表現することはしない。日本人にとっては、こうした重複語というのは微笑ましくもあり好感できる表現なのだが、白人や中国人たちにとっては滑稽であったり、奇怪にすら感じるようだ。

世界でも、こうした重複語という日本語の特徴は非常に珍しい。ただ、人口の多い国家の言語で、この日本語の重複性とそっくりの特性を備えているものがある。それが、マライ・インドネシア語であり、太平洋島嶼(とうしょ)民族の言語もそうである。

たとえば、日本の雑誌に『じゃらん(jalan)』というものがあるが、あれは「歩く」というインドネシア語だ。インドネシアでjalanjalan という表現があるが、そぞろ歩き、散歩といった意味になる。オラン・ウータンというのは、誰でもご存知の霊長類だが、オラン(人)・ウータン(森)ということで、「森の人」という意味だ。このオランという言葉だが、インドネシアやマレーシアでは、人々のことを、orang orang(オラン・オラン)と言う。文字通り、「人人」の意味だ。

このような例はいくらでもある。マライ・インドネシア語では、「だいたい(約)」という言葉を、「kirakira(キラキラ)」と言う。少し、という意味は、「sedikit(スディキット)」と言うが、「少しずつ」という微妙な表現は、「sedikit sedekit(スディキット・スディキット)」と重複させる。「私の本」といったら、インドネシア語では、「buku saya(ブク・サヤ)」と言うのだが、その本がもし複数だったら、「buku buku saya(ブクブク・サヤ)」になる。「国々」は、「negara negara(ヌガラ・ヌガラ)」だ。「幼児」のことを、「kanak kanak(カナカナ)」と言うが、これは複数化ではなく、意味を強調する意味合いがある。

形容詞や形容動詞、動詞、副詞的なものにもある。たとえば、「お互い様、どういたしまして」という言葉だが、インドネシア語では「sama sama(サマサマ)」と言う。「またいつか」は「kapan kapan(カパンカパン)」、「ときどき」は「kadang kadang(カダンカダン)」、「~のふりをする」は「pura pura(プラプラ)」、「~のせいで」は「gara gara(ガラガラ)」等々。

同系統の言語であるフィリピン語でも、この傾向は顕著で、「ちょうちょう(蝶)」のことを、「パロパロ」という。タヒチ語で「イポ」は恋人とか恋するという意味だが、結婚するは「イポイポ」となる。太平洋全域でこうした重複語というものが、「例外」としてではなく、「普通に」多用されている。

こんなところにも日本語のルーツ、とくに単語の原始祖形というものが持っていた特色は、引き継がれていると考えるべきだろう。文法は朝鮮語によって、表記文字は漢字をベースに、そして単語は各地から混入している。ただ、そのうちもっとも古いものには、アイヌ語や、こうした南方渡来の言葉や表現の癖といったものが、相当日本語の根底に定着しているのではないか。海洋民俗学者は、そういう仮説を立てている。

このようなフィールドワークによる研究は、いわゆるアカデミズムでは、ほとんど相手にもされていない。立証が難しいからだ。しかし、あまりにも共通性や近似性が多いものは、それ自体なんらかの事実を示している、とやはり考えるべきだろう。むげに否定する気にはとてもなれないのである。

再び日本人と日本語のルーツの話である。日本語には、日常使ってはいても、どうしてその言葉ができたのか、あまりにも不可解な言い回しがある。たとえば、「のるかそるか」だ。この言葉は、「一か八か、勝負だ」というときに使う。「生きるか、死ぬか」という選択のときも同じ。しかし、どう考えても、「乗る?」「反る?」・・・どうにもその組み合わせで、その意味になるとは思えない。

例の、日本語の祖語(祖先にあたる言語)を、インド洋から太平洋全域にわたって分布するマライ・ポリネシア語族の言葉に求める海洋民俗学者たちによると、この「のるかそるか」は、現在でもインドネシアで使われている言葉から来ているという説を唱える。

インドネシアでは、「norga sorga」というのだが、「norga」は地獄の意味。「Sorga」は天国の意味。しかも、「norga sorga」と続けて使うことで、「生きるか、死ぬか」という意味にも通常用いられているという。これは、ただの偶然だろうか。

マライ・インドネシア方面から、古代、黒潮に乗って筏(いかだ)ではるばる日本列島にたどり着いてきた彼らが、おそらく最初に到達したのではないか、と推定されているのが、東海は静岡県あたり。昔は、駿河国(するがのくに)と呼んだ。「Suruga」は、インドネシア語の「sorga」から来たのではないかという。ようやくたどりついた陸地(静岡県)を指して、sorga(極楽)と名づけたとしても、その気持ちは分かるような気がする。

インドネシア語は、非常に日本語との近似点が多いことで知られる。たとえば、火は「api」だが、「ヒ」と「アピ」では、似てるとも言えるし、似てないとも言える。しかし、「めらめらと燃える」という言葉があるように、このめら(mera)は、マレーやインドネシアでは、赤という意味だ。「赤々と」というときには、重複語をなんとも思わないインドネシア語であるから、「mera mera」と使う。文字通り、「めらめら」だ。

こうした言葉の近似点を捜す作業は、それが学術的に妥当かどうかはともかく、楽しいものだ。たとえば、インドネシアでは「頭」のことを「utama」と呼ぶ。

沖縄にゴーヤ・チャンプルという料理があるが、このチャンプルは、インドネシア語で「混ぜる」という意味だ。これなどは、いつの段階で日本に入ってきたか定かでないから、日本の古語というわけにはいかないかもしれない。

海洋民族学説の立場を取る学者たちは、さらに突っ込んだ分析をしたりもする。たとえば、日本語の「刺身」だが、いったいどこが、「刺して」いるのか。おそらく、原始時代において、魚の身を棒や串などに刺して食べていたのだろうが、それは生であったか、焼いたかはともかく、語源は語幹の「さ」であろう、という。たまたま、この場合は、後から入ってきた漢字の「刺」という字を当てたのであろう。

インドネシアやマレーシアでは現在でも、この「サ」が「刺」という意味そのままに使われている名詞がある。「サティ」だ。肉の串焼きのことだが、「さしみ」の「さ」と本来、語源は同じなのではないか、という仮説になっている。

海洋民俗学によると、生活の基本となる言葉の近似点はかなり重要とされている。たとえば、「水を飲む」という言葉の場合、フィリピン語(タガログ語)やインドネシア語の動詞「飲む」の語幹は、「num」あるいは、「nom」である。「Mi-nom」になると、水を飲むことそのものを意味する。

「壷」や「蕾(つぼみ)」の「つぼ」という言葉も、インドネシア語の「tubo」から来ているのではないか、という仮説が立てられている。片方が口のように開いていて、反対側が閉じている形状のことを「tubo」と呼ぶ。まさに「壷」や「蕾」の形状そのものである。

さてさて、こうした言葉の近似点は、南方語と日本語を照らし合わせていくと、おびただしい数がある。しかも、規則性がないから立証するのは非常に困難だ。それらがどこまで真実性があるのか、なんとも言えないわけだが、話のネタとしては面白い。



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