青春小説

文学・芸術

これは311回目。最近、とんと小説を読まなくなりました。十代、二十代、三十代の半ばまでは、溺れるように読んだものですが、一体どうしたことでしょうか。

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自身は長編を一つ、短編を五つ書いた。昔、長編は昔出版もされ、短編はネット上で流布したりもした。当然、売れもせず、またネット上で注目されたこともない。

考えてみれば、おそらくわたしの場合は、小説を書きたいと思ったから、熱にうかされたように、小説というものを読んでいたのであって、書くことがつまらなくなってから、読まなくなったとも言えそうだ。

なぜかといえば、それが事実ではないからだ。しょせん「つくりもの」だからだ。年齢を経てくると、だんだん事実以外に興味がなくなってくるのかもしれない。

それはちょうど、わたしが映画を見なくなってきたことと、相前後しているようだ。映画は、小説と違ってだらっと観ていることができる受動的な行為だから、まだしばらく見ていられたが、興味という意味では小説と同じように、明らかにわたしの中ではその居場所を失っている。

だからといって、小説がくだらないと思っているわけではない。娯楽すべてそうだが、くだらない娯楽というものは、基本的に無い。

また、小説というものが、事実よりも、人間や世の中の真実を描き出そうとしている試みは、尊くもあるとさえ思う。

が、興味を失ったとすれば、それはしょせん「仮想空間」を作り出して、その真実を描き出そうとすることに、いいようのない「まだるっこしさ」を感じてしまったからだろう。時間がないから、焦っているのかもしれない。情けないことだ。

それでも、ときにその「仮想空間」で遊んでみたいと、日常の中にもふっと湧き上がることがある。そんなときはたいてい、結果的には「青春小説」のカテゴリーに入るものが多い。

年をとってきたからなのか、どうも青春期の、あの甘酸っぱいような、どうにも気恥ずかしい独特の感情に、深い郷愁を覚えるからかもしれない。

わたしが、今思い出して、また読んでみたいと思うような、そして頭をそう使うこともなく、気持ちのよい昼寝をして、夢に遊んでみたいと思うような、そんな青春小説をピックアップしてみた。

今では、日本であまり読まれなくなっている古典ばかりだが、たとえば、ヘルマン・ヘッセの「青春はうるわしSchön ist die Jugend」がある。いわゆる青春モノの定番とも言うべき作品だが、おそらく70年代くらいまでは、日本でもたいていは読書好きなら読んだことがある小説だろう。

どうしても青春小説のカテゴリーには、恋愛というファクターを欠くことができない。この小説もそうだ。恋愛というものが、人間にとって一番最初の社会的な(家族以外の対人的な)、もっともドラマティックな「事件」であるからだろう。

「青春はうるわし」の場合、成就しない恋愛なのだが、得てして陥りがちな哀感一辺倒とは違う。ある意味逆の効果をあたえている。ともすると焦りやはやまる気持ちでさまざまなものを失いがちな青春期の1ページを、ポジティブに見事に描き切っている。

美しいと思える部分は、青春小説の場合、もはや自己憐憫や失恋の哀しみが消え、誰もが等しく視野を大きく広げていく主人公の姿だ。

難解で、複雑、かつ抽象的な論理の世界ではない。繊細にして大胆な、青春期特有の感受性は、どう描こうとロマンティシズムの芳香が読む者の心に染み入ってくる。ことさら、哀感を漂わせるような技巧など不要なのだ。

これは、読み手によって違うのかもしれない。青春という言葉自体がほとんど死語のようになっているが、それを一番大切にできるのは、すでに青春期をとうに終わった、老年期に入った人間だけかもしれない。

考えてみれば、名作と呼ばれる青春小説の書き手は、たいてい青年時代にこれを書いていない。

青春の真っ只中にいる者は、失ったときに、実は失ったのではなく、もっと素晴らしいものを得ていたことや、それが珠玉のような人生の一時期だったことになかなか気づかない。気づくのは、ずっと後になってからにほかならない。

青春が美しいかどうかはともかく、少なくとも実際に精神的には非常に多感な一時期が誰にも確かに存在する。青春小説とは、おそらくそれをずっと後になって、取り返しがつかなくなった時期に、限りない羞恥心とともに思い起こさせてくれるものだろう。そのみずみずしさ、美しさは、老年期に入った人間のほうが、より鮮烈に受け止めることができるものかもしれない。

ちょうど作詞家の阿久悠が、自伝的内容で書きおろし、映画化された「瀬戸内少年野球団」は、こうした青春というテーマを最もノスタルジックに描き出した佳作だと思う。(原作の小説のほうは、読んだことがないので、わからない。)

より抒情的な印象を強くした青春モノでは、やはりシュトルムの短編が世界的にも秀逸のものだろう。以前も紹介したことがある「人形つかいのポーレ Pole Poppenspaler」をはじめ、シュトルムには、どれを読んでも「ハズレ」が無いと言えるくらい、青春小説の傑作がそろっている。

シュトルムの手法はいわゆる「枠組み小説」と言って、老年期に青春時代を思いだすという形式のものが多く、いかにもその価値は、後になって効いてくる類いのものだということが、ことさらに思い知らされる内容になっている。

ヘッセも、シュトルムも、ドイツ人であるが、意外にドイツの小説にはこうした青春小説の重厚な文化がある。ドイツロマン派の影響だろうか。

これに比して、フランスの青春小説の代表作といえば、フランソワーズ・サガンの「悲しみよこんにちは Bonjour Tristesse」ということになりそうだ。18歳というまさに、青春ド真ん中で書かれた彼女の処女作だが、青春小説の持ち味であるノスタルジックな側面はほとんど無い。青春期の多感さが、痛々しいまでの悲劇的な結果を生み出す過程が描き出されているが、恋愛というテーマはほとんど触媒に過ぎず、ここではもっと人間の幸せというものに、本質的な迫り方をしている。その意味では、牧歌的ではなく、むしろ凄みすら感じる作品だ。

主人公は、恐ろしいまでの偽装工作を行い、予期せぬ悲劇をもたらしてしまう。そこで初めて、ほんとうの意味での「悲しみ」を知る。それまで彼女の夢想していたことは、本質とはほど遠いものだったことに気づくが、その代償はあまりにも大きかった。

さて、翻って日本で、こうした青春小説の名作というと、もはや誰も三島由紀夫の「潮騒」以上のものを挙げることはできないだろう。発表当初から、これは小説ではなく物語りだといったような批判も多かったが、それで良いのだ。

アメリカはアメリカで、いかにも現代アメリカ人らしい青春小説の傑作がある。やはり、なんといってもサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて The Catcher in the Rye」を凌駕するものはないのだろう。それ以前も、それ以降もおそらく無い。

家を飛び出し、ドラッグとセックス、そして暴力というファクターに溢れた1945年の小説だが、おそらく青春小説として若者文化に与えた影響としては、はかりしれないほど強大なものだ。

今読んでも、「大人はすべてインチキだ」という思いが、はちきれそうなくらい文面にちりばめられている。ストーリーらしいストーリーは、ほとんど無い。主人公の内面が、ものすごい勢いで語られている。

本作の最終場面に至っても、だからどうなんだ、という結論は無い。が、それでも一歩前に飛び出そうとする主人公に、唯一の共感者が行動を共にする場面で終わっているところに、青春小説としての救いや希望がかいまみえる。

最終場面に近い箇所で、妹のフィービーが、主人公のホールデン(兄)を問い詰める。
「結局兄さんは何になりたいの?」
「ライ麦のキャッチャーのようになりたい。崖に落ちていく子供たちを救いたい。」
・・・
そしてNYを出て行く日の朝、主人公の前にフィービーが現れ、「ついていく」と言って小説は終わる。

わたしがあまり好きではないトルストイに、世界的な傑作がある。「復活 Boskrecenie」だ。これを青春小説と呼ぶわたしに対して、圧倒的な反論がでてくるだろうが、わたしにとっては、これはやはり青春小説の傑作だと思える。

齢八十を超えた老人が書いたとはとても思えない、前半の若い男女のひそかな逢引のシーンなど、そのみずみずしさは驚異的である。青春期に犯した過ちと、その償いという、非常に大きな本筋だけに、いわゆる文学の傑作として語られる重厚な長編小説だが、青春そのものに対する回答という観点で見れば、文字通り圧巻の青春小説ではないか、と思うのだ。

思い出せば、まだでてくるのかもしれないが、このへんにしておこう。ちなみに、わたし自身は、こうした青春小説を書こうと思ったことは、ほとんど無い。青春期に、青春らしい生活を送らなかったのかもしれない。あまりにも老成したわたしの青春期は、逆に言えば、いまだに大人になりきれていないことを示しているような気がする。半世紀以上生きても、まだどうも「しまらない」のはそのせいだ。



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