なんで、古典が必要なのか?

文学・芸術


これは、328回目。古典の効用というお話です。極論すれば、古典を知らなければ、科学の効用は限られてしまうと言うお話です。

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古典というと、「何の役に立つのか?」と誰でも疑問を持つ。
たいてい「教養だ」という答えが返ってくる。しかし、まったく説得力に欠ける。

カビの生えた文章や歴史や、芸術など、現代科学の時代にどんな効用があるのか、と問われて、なかなか誰もそれに答えられないのだ。

物理の法則は、数式に置き換えられ始めたのを仮に「発見」だとすれば、せいぜいその歴史は数百年といったところだろう。(数学はもっと古いだろうが)
その後のあらゆる発明というものは、その応用だ。

ところが古典とされる書物で、現代まで読まれているものは、紀元前にまでさかのぼる。科学といったもの歴史よりはるかに古い。つまり、人間の本質に迫ろうとする世界観は、科学技術の発展より、ずっと昔から見通されていたといってもいいくらいだ。

本にしろ、スマホのアプリにしろ、OSにしろ、生まれては消え、消えては生まれを繰り返してきた。それでも残っているという事実が、おそらく人間の本質なのだろう。簡単な例を言えば、故事成語がそうだ。

グーグルの論文検索エンジンに、Google Scholarというのがある。トップには、巨人の肩の上に立つと書いてある。地平線の彼方まで見渡すことができるのは、われわれの背が高いわけでも、千里眼を持っているからでもない。ただ、巨人の肩の上に乗っているからだ、という話が原典らしい。

「巨人の肩」とは、先人たちの先行的な知恵や研究にほかならない。

そういう意味では、日本やアジアなど、東洋の古典哲学や文学というものは、非常に短文で、簡潔、驚くほど的をついた、あるいは問題の本質を突いたものが多い。西洋のそれと違い、まだるっこしい理屈はすっ飛ばして、警句に近いものが多いから、取り組みやすい。象徴的すぎて、逆に難解であることもあるが、それはご愛敬というものだ。

これが、やっているうちに何となく、肌にしみついてきて、ふと気が付くと、ある言葉にピーンとくることが人間あるものだ。なにをしていればいいのかというと、昔の人がよくやっていた、漢文の素読だ。論語であろうと、孟子であろうと、老子・荘子であろうとなんでもよい。

とくに、漢字はそれ自体が意味を持っているので、日本人にはときにとんでもないインスピレーションを、映像的に与えてくれることがある。

ばかばかしいと思うかもしれないが、しばらくの期間、素読をやってみたらいい。一か月くらいやってみて、「ちぇ、なんにもならんわ」と放り出したとしよう。数日後、数週間後、あるいは数か月後かもしれないが、かならず、「あれ?」と思う瞬間がある。素読していたものの、ある部分が生々しくよみがえってくる衝撃に見舞われるはずだ。

あるいは、そのとき素読したものの一節だと気づかなくても、後に、「あ、あれか」と思いつくことがある。人間の脳は、自分で気が付かないことのすべてを実は記憶している。われわれがその引き出しがどこだったか、忘れてしまっているだけのことだからだ。

素読とは「文章の意味を無視して、暗誦できるように、繰り返し音読すること」だ。一件無駄ようだが、世の中、膨大な無駄がなければ効用は生きないということが、なかなか人間わからない。

学校で学ぶほとんどのものが、社会に出て、実際には役に立たない。役に立たないからやらなくていいのかというと、そうではなく、すべて忘れてしまっていいという事実が、効用になってくるのだ。

有名な話だが、ノーベル賞を受賞した湯川秀樹もこの方法で漢文脈に親しんでいた。彼が漢籍に詳しかったことはよく知られた事実だが。
湯川は、後に、科学における思考でも、論語の暗記活動は役に立ったとはっきり言っている。ノーベル賞科学者がそういうのだ。「嘘だ」とは言えまい。



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