レシピを見る前に、まず食ってみろ

文学・芸術

これは338回目。どうしても、西洋的な発想では、ものごとを区分し、理解しようとします。分けると、分かったような気がするからです。しかし、それは全体の一部「分」が「分かった」だけのことなのです。

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かつて、ロシアの文豪二人がまったく違うことを書いた。時空を超えて、二人は激論をしていたようなものである。

『生命の意味とは無関係に、ただ生命を愛せと君はいうのか?』・・・ドストエフスキー、「カラマーゾフの兄弟」

これに対して、・・・

『意味ですって? ごらんなさい。雪が降っているのです。あれにどんな意味があります?』・・・チェーホフ、「三人姉妹」

一見すると、ドストエフスキーが理屈のための理屈のような、空回りをしているように読める。チェーホフのほうが、どうせわからないものをいくら悩んだって、と言わんばかりに突き放しているだけ、賢い対応のように読める。

が、どちらもしょせん、いっしょくたに空回りしているのだ。

どちらも意味にとらわれているからだ。意味そのものに迫っているようで、実は意味を知ることが重要か、重要でないかを争っているのだ。

西洋文明というのは、得てしてこういう癖がある。

チェーホフはそれに嫌気がさして、意味を模索する試みを放棄する。ドストエフスキーは突き詰めた結果、意味のありかを見つける。信仰である。・・・

世の中は、意味で動いているということを、以前にもここで書いたことがある。意味は大事だ。ところが、どうやったところで、物事の全貌というものを、分かることはできない。

分かったとしても、それは、全体をいくつかに分けて、その一部分を「分かった」にすぎない。

あきらめたら、終わりである。それはわたしたちが人間を止めるときだからだ。

ところが東洋ではまったく違うアプローチをする。より、現実的で、よりストレスの無い賢いアプローチなのだ。

意味をわかろうとしないで、意味そのものになってしまおうというのだ。

わからなくてもよい。意味そのものになってしまえば、おのずとわかるはずだ、という発想に近い。

料理をつくろうとして、レシピを入念に調べ、素材の良し悪しを学び、段取りを確認し、いざ作ってみる。レシピ通りにやっているのだから、どうやったって目指す美味しい料理に仕上がるはずだ。が、意外にそうはならない。おかしいな、という話はよくある。これは、西洋的なアプローチだ。

ところが、東洋では違う。まず、美味いとされる料理を食ってしまうのである。ほおっ、こういう美味い料理なんだ、とわかる。なんとなく、口や鼻に広がっていく風味の微妙な感覚、それぞれの具材によって火の通り方が違うぞ、などということすら、実際に食ってみればわかる。いや、わかったような気がする。その上で、レシピを調べて、段取りを確認してみる。

そしてやりながら、違うな。このままいくと、あの味は出ないな、という気がして、レシピや段取りから外れて工夫を始める、これが東洋のアプローチだ。レシピや段取りとはいささか違うのだが、結局自分好みの料理にとりあえずたどり着くことができる。

とにかく、レシピありきの「べき論」優先の西洋と、まず食ってみて、どんなものかざっくりイメージして、それから考えようという東洋の違いといっていい。

禅というのも、東洋のそうした独特のアプローチだ。禅とは「心の名」という意味だ。まず言われるはずだ。「まあとにかく、あまり作法にとらわらず、なにはともあれ座ってみなはれ。」と。「ならうよりなれろ」なのだ。

わかろうとしなくても、やっていればやがて勝手にわかるのだ、と。

だから、自然という世界を目の当たりにしたとき、西洋人が「綺麗」とか「美しい」とか、その様子の素晴らしさに感嘆する。しかし、日本人などはとくにそうだが、その風景と一体化したような気になり、山や草原といっしょに同じ呼吸をしたような気になって、「気持ちが良い」と感じる。それは自分であって、もはや自分ではないのだ。

この差は大きい。あくまで客観的対象としてモノを見る彼らと、とりあえずそれと一体化してしまおうとする日本人との違いだ。

美しい風景を見て、感動する自分を意識したい西洋人と、その風景に溶け込んでしまった自分を感じたい日本人の違いといってもいい。

だから、現実生活の中では意味はとても重要な手がかりなのだが、一方で日本人は無意味でも、とりあえず構わないという智慧を持っている。

谷川俊太郎の詩に、『六十二のソネット』というのがある。その中に、『空の青さをみつめていると』という詩がある。日本人の「意味」を飛び越えたありようが、よく表現されているような気がする。

・・・

・・・世界が私を愛してくれるので
(むごい仕方でまた時にやさしい仕方で)
私はいつまでも独りでいられる

私にはじめてひとりのひとが与えられた時にも
私はただ世界の物音ばかりを聴いていた
私には単純な悲しみと喜びだけが明らかだ
私はいつも世界のものだから

空に樹にひとに
私は自らを投げかける
やがて世界の豊かさそのものとなるために

・・・私はひとを呼ぶ
すると世界がふり向く
そしてわたしがいなくなる

・・・

日本人は、こうして最後は「いなくなる」のだが、本当にいなくなったわけではない。一つになるのだ。

西洋人は、どこまで行っても、自分は決してなくならない。

どちらが最終的に救いがあるのだろうか。



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