命をゴミにするのは・・・

文学・芸術

これは342回目。人間、似ていると嬉しいものです。しかし、違っていると楽しいのです。不思議なものです。知らない同士が何らかの機会に出会って、ある種の共通項を知ると、妙に嬉しく仲間意識のような感情が生まれるのでしょう。

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逆に違っている点を知ると、新鮮な驚きを覚えて、興味や興奮を呼び起こされる。これが楽しいということだ。

このように、どう転んでも人間というものは「うまく」やっていける素質を持っている一方で、非常に陰湿な側面も同時に持ち合わせている。

それが、嫉妬と憧れである。近年、所得格差の拡大や、社会そのものが階層化してきているということが言われる。かつては富める者と、貧しいものとの階層化だったが(これが共産主義発生の淵源である)、今では教育のある者と無いものとの階層化が進んでいる。

しかも、その教育のある者と無い者の差は、その背景に所得格差が潜んでいるから、問題は厄介である。単純に所得格差の問題ではなく、それが教育の有るなしに直結しているということが問題なのだ。

人間に平等な機会を与えない社会システムは破壊すべきだが、だからといって競争が悪であるかのような平等原理主義は、行き過ぎである。

確かに不平等は人間の嫉妬心を強めるのだが、しかし結果の不平等が拡大すればするほど、人間の嫉妬心や不満が高まるかというと、実はそうでもない。

一体だれが、ジョブス(故人だが)やベゾス(アマゾン創業者)が億万長者になろうと、嫉妬心を覚えるということは、まずない。憧れはあっても、嫉妬にはならないのだ。彼らが一代で巨万の富を築いたにもかかわらず、である。

この憧れは、プロ・スポーツのスーパー・スター、例えば、かつては長嶋・王、今ではイチローや大谷といったアスリートたちに誰が嫉妬心を抱くだろうか。抱きはしないのである。驚嘆し、憧れこそすれども、嫉妬心とはまったく別のものである。

かつて英国の哲学者デイヴィッド・ヒュームが、「一兵卒は、軍曹や伍長に対するほどには、将軍に対して嫉妬心を抱かない」と述べたことがある。

たとえば、文学を志すものが、夏目漱石やヘミングウェーに憧れを抱くことはあっても、嫉妬心は抱かないのだ。

しかし、この立場が近いと(階層が近いと、と言ったほうがいいかもしれない)、にわかにその違いは、嫉妬心やねたみ、そねみ、憎しみを生み出す。現在社会問題とされている、所得格差の問題や社会の階層化の問題は、言われているより遥かに、人間存在の奥底に潜む非常に複雑で繊細な不合理性に根差しているようだ。

経済学的に、この所得格差の問題や社会の階層化の問題は、それなりに一考を要するものだとは思う。社会保障制度の整備や、社会の脱落者を防ぐためである。が、嫉妬心やねたみ、ましてや憎しみになってくると、社会学・経済学の領域を越えている。

基本的に、この嫉妬心やねたみ、憎しみというものは、「礼」という徳性が失われてきているためだろうと個人的には思っている。「平等」という、実に人間を機械的に位置づける倫理が世にはびこってしまったためだ。

「礼」というのは、もはや儀礼的な所作に、その意味は堕落してしまっている。もともと「礼」というのは、「相手の価値は何者にも勝る」という考え方に基づいている。他人の喜びや悲しみを自分のことのように感じる能力、それが「礼」である。決して形式的な礼儀作法を身に着けることなどではないのだ。

この「礼」の徳性の前には、所得がどんなに違おうと、どんなに階層が異なろうと、そのような問題は、まったく些末な問題どころか、問題そのものにもなりはしない。しかも、人間は高潔さに満ちている。

だから徳育が必要だなどとは言わない。教育でどうなるものでもないからだ。社会が、そうした「礼」のような価値観をどうでも良いと思っているからだ。

合理性と効率性、綺麗ごとだけの理念に邁進して、ほんとうの意味での人間性が失われた社会に、いっそのこと堕落しつくしてしまえばよいのである。

それが、われわれ愚かな人間の未来なら、仕方ないではないか。自業自得なのだ。「礼」という、人間にしかない崇高な徳目を持ちながら、ゴミのように捨ててきたのだ。

あらゆる生物の中で、命をゴミにするのは人間だけである。そんな愚かな人間のすることだ。「礼」の喪失など、言わずもがなである。

人間に明るい未来はあるか、と問えば、あるわけがない、と答える。違いや差があることを、尊いと思える価値観が失われた社会に、未来などあるはずがないからだ。



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