塾の話~文化はそうして全国に伝播した

文学・芸術

これは18回目。昔々の話です。しかし、そこに、学とはなにか、ということの原点があると思うのです。IT社会~AI社会に向かう中、日本人として学びに隠された大切なことを忘れてはいけない。

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少子化だというのに、学習塾は大流行のようだ。成人がわけもわからず英語学校に通いつめるように、子供たちは学習塾に殺到している。親の期待を一身に受けてのことだろうが、本人たちは正直いやいやながら、かもしれない。

昔、勉強が基本的には嫌いだった。この「勉強」という言葉、おそらく中国語からきたと思われる。中国語では、「勉強(mien qiang、ミエン・チアン)」というが、その意味は、「いやいやながら、~する」という意味だ。つまり、「勉強学習(mien qiang xiexi、ミエン・チアン・シュエ・シー)」というと、「いやいやながら、学ぶ」と言う意味だ。明治時代の日本人が、近代日本語を整備する過程で、中国語から持ち込んだのだろうか。もしそうだとすれば、なかなか的を得た言葉の輸入だとつくづく感心する。

この言葉、大阪商人が値引きする際、「ほな、勉強させてもらいますわ」というときにも使われるが、これも同じ類だろうか。ちなみに、「チンプンカンプン」というのもそうかもしれない。「聴不憧、看不憧」は、聴いてもわからない、看てもわからない、という意味で、ting bu dong kan bu dong(ティンブドン、カンブドン)と読むが、どうもこれから来たような気がする。

学問は、勉強とは違う。Learn(習う)ことではなく、study(学ぶ)の違いということだろうが、学問には「問」の字がついているように、問わなければならない。だから、主体的な意思が、学問の本質だ。もともと塾が発達した江戸時代、塾とはそういうものだった。有名なのは、たとえば幕末の適塾や、松下村塾だろう。適塾は大阪の蘭学者、緒方洪庵のものだが、天然痘治療に貢献し日本近代医学の祖と言われる。松下村塾はご存知のように、山口(長州)の思想家、吉田松陰のもので、高杉晋作など維新回転の原動力となった人材を多く育成した。

ただ、適塾や松下村塾は、全国にあった塾の中でもきわめて特殊で、例外といってもいい。いずれも、教える立場の先生と教わる側の弟子の距離が、ほとんどゼロに近かった。両者はつねに接しており、自由な質疑応答が繰り返された。しかし、一般的な塾というものはそうではなく、先生と弟子との間にはほとんど接点がなかったのだ。

塾に入るということは、先生の所蔵する膨大な書物を自由に閲覧でき、写本することができるという意味でもある。そこで、門下生は入門すると毎日、先生の書庫から本を取り出し、その意味に悩みながら読み、書き写し続けたのだ。誰も教えてくれることもなく、たったひとりで、この気が遠くなるような作業を続けた。自問自答の蟻地獄である。1年間、そうしている間に、何回か先生が見回りにくる。写している本や、すでに写した本について2、3の質問をする。回答が不十分だったら、まだまだということになる。

何年かして、やがて先生の質問に的確に答えられるようになれば、即日、免許皆伝となる。その証明は門下生のすべての写本の裏表紙に、先生が自ら署名をすることだった。もしかしたら、一言添えたかもしれない。門下生は、署名してもらったすべての本を積んで、故郷に帰る。そこで、彼が入手した大量の知識が同じように伝播されていった。日本の津々浦々に、こうした作業工程を経て、文化が伝えられていったのだ。このように伝えられた文化は、足腰が強い。ちょっとやそっとのことでは壊れはしない。

思えば、教育や学問というものは、このように気が遠くなるような作業で培われていったのだ。それに比べていまは、便利である。ネット経由で実に効率的に学ぶこともできる。これを利用しない手はない。しかし、それによって、本来、かつての塾が持っていた、途方もない無駄とエネルギー、必死なまでの未知の知識への執着というものが、極端に希薄になったのではないだろうか。
利便性の追求は、かわりに多くの大事なものを失うことと同じである。安易さの中で、ふと、「待てよ」と立ち止まる瞬間こそが、学問の始まりになるといってもいい。学問というものは、問わなければ、学問ではない。「習い事」とは、およそ次元が違うのだ。



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