美しさと死の混濁

文学・芸術

これは378回目。日本人だけとは言いませんが、どうも日本人がとりわけ、「美しい死」に憧れる傾向があるような気がします。本当に死を望むことが、そんなに美しいことなのでしょうか。わたしにはとてもそうは思えないのです。

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二人が(同性・異性はあまり関係無い)鉄路に飛び込む、崖に身を投じる、そんな事案が昔からある。

理由や背景はさまざまだろうが、第三者の受け止めかたも、否定的であったり、賛美したりとこれまたさまざまだ。

それがその人の選択だから、部外者が何を言えた義理でもないのだが、それでも、と思うのだ。

死、というより、死を望む心がどうしても納得できないのである。それはわたしが死を思うほどの苦しみを持っていないからなのだろうか。

死を希求する要因は人それぞれだろうが、辛いのはやはり病だろう。わたしは、大病や大怪我など、命にかかわるようなことに出会ったことがない。

二度、急性劇症A型肝炎にかかったくらいだが、二度目は危篤(だったらしい。医者によればである)だったが、当の本人にはそこまでの自覚が無かったので、本当の意味で、死を意識したとは言えない。

31歳で逝った梶井基次郎の有名な小説に『桜の樹の下には』がある。冒頭の「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」で知られた掌編だ。詩に近い。

「俺」は、偏執的に剃刀(かみそり)の刃を思い浮かべ、そのイメージが脳裏を繰り返し過ぎっていく。明らかにそこには自殺が仮託されている。

そして、大量発生したウスバカゲロウの死骸と浮き出て溜まっている油に、死の醜悪さも同時に感じている。

そこで気づいたのは桜の美しさだった。そして、それは肉が爛れ、内蔵が腐乱し、蛆(うじ)が湧く屍体から養分をとっているのだと、妄想が発展していく。

死や絶望というものに間近に接した者だけが、桜の美しさに気づくことができる。

梶井は肺結核を長く患って死んだ。当時は不治の病だ。

梶井は、伊豆湯ヶ島で長期逗留する。このとき川端康成(2歳年上)の『伊豆の踊り子』の刊行の校正を手伝っている。その翌年、『桜の樹の下には』を書きあげている。

『桜の樹の下には』の末文は、こうなっている。

・・・
今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑のめそうな気がする。
・・・

幽(かす)かに仄(ほの)かにだが、生きる意味や甲斐とは何なのか、梶井の心にふと灯った瞬間なのだろう。

人間の生と死、美しさが持つ本質的な醜悪さというものに気づいた瞬間なのだろう。芥川には、それに気づく瞬間が無かったのかもしれない。しかし梶井は違った。だから、肺結核で苦しみながら、最後まで生きた。剃刀の出番は無かったのである。

おそらく梶井は、「欲しがる気持ち」をどこかで棄てたのである。だから、短い晩年を最後まで生き抜いたのだ。

その、何かを「欲しがる気持ち」を引きずっていれば、挫折しようものなら最後は自ら命を断つことにもなりかねない。それは美しいかといえば、梶井のたどり着いた答えからすれば、「ただの醜悪」にすぎないのだろう。

梶井はその意味では、ただの「醜悪」ではなく、「醜悪なのだが、見たこともないほど美しい」生を生き抜いたのだ。

同じようなテーマに思えて仕方がない小説がほかにある。森鴎外の『高瀬舟』だ。名作だから誰でも筋は知っていよう。

同心・庄兵衛は、役目柄、罪人を舟に乗せ護送している。

罪人の名は喜助。病気の弟が自殺に失敗し苦しんでいるのを見ていられず、その手で殺した罪に問われたのだ。

今でいう積極的「安楽死」、あるいは「尊厳死」ということだ。喜助は殺人罪で島流しになるのだ。

その喜助は、どういうわけか潔い、安らかで豊かな表情をしている。庄兵衛は、喜助の境遇を聞いて、「喜助のしたことは罪なのか」と疑問をいだきながら舟を漕ぐ。

さっと読むと、この小説は「安楽死」の問題や、喜助の態度に見られるような「足るを知る(老子の教え)」といったテーマが描かれていると思う。

それは一面事実なのだが、どうもわたしにはそれにカムフラージュされていて、一見すると見えないテーマがあるのではないかと、常々思っていた。

ふと梶井の『桜の樹の下には』を思い出し、なんとなくなのだが、『高瀬舟』に符号するものがあった。

『高瀬舟』の主人公は、役人の庄兵衛と、罪人の喜助、この二人である。しかし、本当の主人公とは、病気で自殺を図り、兄に手を「くださせた」弟だったのではないかと思ったのだ。

弟は、喜助の告白の中にしか登場しない。兄に自殺幇助を迫る場面だけである。名前も出てこない。が、この弟こそが、この小説の核なのである。

弟も、病に疲れていた。そして、健康な肉体を欲しがったのだ。「兄に楽をさせてやりたい」と大義名分こそ吐露したものの、第一義的には、自分に無いものを「欲しがった」のである。しかし、得られない。その結論が、死の選択だったといえる。

見るに見かねて肉親に手を下すほど情の深い兄・喜助を、実は徹頭徹尾自分のために巻き込んでしまった弟は、果たして美しかったであろうか。

きつい言い方だが、森鴎外が本当に埋め込んだのは、この弟の選択そのものの醜悪性だったのではないだろうか。そう思ったのだ。

そんな見方が正しい読み方なのか、知らぬ。ただ、わたしの中では、『桜の樹の下には』と、『高瀬舟』は、妙に同じ根っこを持っているような気がしてならない。



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