詩がわかるようになったら・・・
これは388回目。大学時代、詩に凝っていた時期があります。すると同窓の学友(彼は漢詩に造詣が深かった)にこう言われました。「おまえな、詩がわかるようになったら、人間終わりだぞ。」・・・彼が何を言おうとしたのか、その時ははっきりわかりませんでしたが、今ではなんとなくわかるような気もするのです。
:::
詩は、最小限の文言で自分を露わにする。日記の延長なのだが、日記と決定的に違うのは、それが『詩』である以上、「人に見せる」ことを前提としている点だ。
だから日記と言っても、ハナから人に読ませることを目的として綴られたのだとすれば、それは事実上、わたしは『詩』だと思っている。
小説のような散文と違い、なにかに仮託するという面倒なことをしない。直接的に人の心に切り込んできたり、投げつけてきたりするのが『詩』だ。
短く、説明が無いだけに、読み手の解釈は小説などより遥かに多岐に分かれる。また、それが『詩』の命がほかの文学形態よりも増幅する作用をもたらす。
危険なのは、「危険な文字面(づら)」を、そのまま鵜呑みにする場合だ。
ボードレールの詩はその典型であろうし、芥川龍之介の『侏儒の言葉』のようなアフォリズムなどもその類いにはいるかもしれない。
しかし、人間誰しも(詩人であろうと誰であろうと)、幸せになる権利があり、実際誰しもが幸せになりたいと願っている。
その幸せの「形」が、一見すると常識的ではないとしても、本人にとっては幸せを願っているはずなのだ。詩は、それを追い求める本人の思いの吐露であり、絶唱でもある。
近代口語詩のパニオニアとされる萩原朔太郎に、『漂白者の歌』というのがある。『氷島』に収められた大変有名な詩だ。誰しも一度は読んだことがあるかもしれない。
この序文に、詩人自身が実際こう書いている。
・・・決して自ら、この詩集の價値を世に問はうと思つて居ない。この詩集の正しい批判は、おそらく藝術品であるよりも、著者の實生活の記録であり、切實に書かれた心の日記であるのだらう。・・・
わたしも若い頃に、この詩にずいぶん耽溺したことがある。が、ふと今想うのだ。萩原も幸せを求めて「漂白」した人生を送っていたわけだが、彼が希求した幸せとは一体なんだったのだろうか、と。
美しい妻と折り合いが悪く、連れ立ってダンスパーティに繰り出し、他の男に彼女が言い寄られて、誘惑されるさまを見るのが快感であったという異常性というものは、この際、賛否の焦点ではない。
なんであってもよいのだ。その人の幸せとはなんなのか、である。
ちなみに萩原の妻(植田稲子)は独立心の強い女性だったようだが、それが問題だったのではない。世上言われていたような、ふしだらな身持ちの軽い女、ではないのだ。萩原の、家庭というもの、妻というものへのスタンスが、尋常ではなかったのである。
ある酔った青年が、稲子夫人にキスしてもいいかと訊きにきたとき、萩原は「えーえ。かまひませんよ。もう一つ先きのことを為さつたつてかまひませんよ」と答えている。
日常、夫から無視されつづけ相手にされない妻の稲子に、ダンスパーティやサロンを通じて若い恋人ができるのは時間の問題だった。また、朔太郎もどこかでそれを望んでいた。
離婚し、その後の妻に対しても、萩原は同じ無慈悲な対応をしている。
萩原というのは、母や姉妹のような血族とのつながりを絶対視している向きがあり、妹のユキに宛てた手紙(結婚後の手紙である)などは、ほとんどラブレターそのものである。
かなり、わたしは萩原朔太郎というのは、現代であれば、なんらかの病名がつきそうな宿痾を負っていたのではないかと思ってしまう。
芸術家というのは、多かれ少なかれそういうものかもしれないが、それにしても尋常ではない。
実際に、『漂白者の歌』を転記してみよう。
・・・
日は断崖の上に登り
憂ひは陸橋の下を低く歩めり。
無限に遠き空の彼方
続ける鉄路の柵の背後(うしろ)に
一つの寂しき影は漂ふ。
ああ汝(なんぢ)漂泊者!
過去より来りて未来を過ぎ
久遠(くをん)の郷愁を追ひ行くもの。
いかなれば蹌爾(そうじ)として
時計の如くに憂ひ歩むぞ。
石もて蛇を殺すごとく
一つの輪廻を断絶して
意志なき寂寥を蹈み切れかし。
ああ 悪魔よりも孤独にして
汝は氷霜の冬に耐えたるかな!
かつて何物をも信ずることなく
汝の信ずるところに憤怒を知れり。
かつて欲情の否定を知らず
汝の欲情するものを弾劾せり。
いかなればまた愁(うれ)ひ疲れて
やさしく抱かれ接吻(キス)する者の家に帰らん。
かつて何物をも汝は愛せず
何物もまたかつて汝を愛せざるべし。
ああ汝 寂寥の人
悲しき落日の坂を登りて
意志なき断崖を漂泊(さまよ)ひ行けど
いづこに家郷はあらざるべし。
汝の家郷は有らざるべし!
かつて、わたしの学友が、「詩がわかるようになったら、おまえ人間終わりだよ」といったときは、ちょうどこの『漂白者の歌』を朗唱していた時期である。
確かに危ない。
三島由紀夫に言わせれば(太宰治を批判した言葉であるが)、「治りたがらない病人は、病人の資格がない」というやつであろう。
が、その言葉を吐いた三島も、尋常な実生活だったとは、わたしには到底思えない。
しょせん、わたしのような凡人には、わからない世界なのだろうか。
それなら、上田敏の『牧羊神』に収められている古い翻訳詩だが、ギィ・シャルル・クロー(仏)の、『譫言(うわごと)』のほうが、遥かにわたしは罪が無いと思っている。(昔、70年代のサントリーだったか、テレビCMで使っていたのを覚えている。年配の方々なら、記憶にあるのではないか。)
・・・
汝らのみすぼらしい絵馬の前に
なんでこの身がぬかづき祈ろう
むしろ、われは台風の中を闊歩して、
轟き騒ぐ胸を励まし、
鶫(つぐみ)鳴く葡萄園に導きたい。
沖の汐風に胸ひらくとも、
葡萄の酒に酔おうとも、何のその。
・・・
萩原とクローがもし面と向かっていたとしたら、クローはこう言っているのである。
「お前なんぞの自己愛だか、悲嘆だか、新時代の信仰だか知らないが、どうでもいいわい、そんなもの。それより、この嵐の中を突っ走って、見晴らしのいい葡萄園から海を臨んでさあ、がっつり酒をくらおうぜ。それが生きているっていうことだろ? 酔っ払おうぜ。上等じゃないか。ほかに何を望む?」
下戸のわたしだが、そんな風に思える。