悲劇か、それとも喜劇か

宗教・哲学, 文学・芸術

これは427回目。文学というものが、つきつめるところ人間の悲劇や喜劇をさまざまな手法で描き出すものだとしますと、さかのぼってその原初となる古典は、シェークスピアとドン・キホーテに行きつくような気がします。

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ドン・キホーテはもともと滑稽本だ。19世紀、ドストエフスキーが主人公の内面の悲劇性に着目したところから、にわかに人間の内在する悲劇を描いたものだという解釈が大勢を占めるようになった。最近では、またこれが誤りだという指摘もあるらしい。

しかし、文学が作者の意図から離れて、独自に独り歩きし、後世の解釈によって新たな生命を吹き込まれる部分も、そこまでその文学の価値だとすれば、ドストエフスキーの指摘はかなり当たっているとおもう。

シェークスピアも、ドン・キホーテも、けっきょくは悲劇なのである。

かたや太陽の沈まぬ帝国と呼ばれた植民帝国スペインが凋落し始めた頃にセルバンテスはドン・キホーテを書いた。

一方、急速に台頭し、まさに七つの海を支配する大帝国へと歩み始めたイギリス(エリザベス女王時代)で、シェークスピアは四大悲劇を書いた。

ナボコフはこの対照的な二人を評して、セルバンテスが狂った騎士を描いているときに、シェークスピアは狂った王たちを描いたと言っている。

どちらも狂っているのである。人間の悲劇は、自身を見失う、狂うということに尽きるとしたら、まさにどちらも悲劇なのだろう。

ハムレットはとくに顕著な例だが、ドン・キホーテと同じく、一人の人間の中で価値が対立しているのだ。この価値の対立構造というものは、それ以前、ルネッサンス期にも無かった。

すべて人間の中の価値は、唯一にして絶対的なものしかなかった。神性である。

ところが、人間は神がいようがいまいが、自体「正と負の対立構造」を持つという宿痾に冒されている。近代小説の原点と言われるドン・キホーテも、数多ある演劇脚本の中でも異様に長命な人気を維持し続けるシェークスピアの狂った王たちも、この救いようのないほど自己分裂的な価値の対立構造を内包している。

近代文学が、およそこの二つの作品を起点として、さまざまな対立構造を明らかにしていこうとした流れのように、わたしには見える。極端なことをいえば、その後はすべてその後継者であり、亜流であるということだ。

理想と現実、美と醜、善と悪、愛と無関心・・・この対立構造の解決方法や規範を、人間の外に求めるのでなく、あくまで人間の中で処理しようとした悪戦苦闘が、その後の近代文学のほとんどすべてのテーマだったといっていい。神聖一つに判断を委ねる思想はいったん保留して、人類は自分の中に倫理規範を構築することで、内部分裂の危機を克服できないかと試行錯誤を始めたのである。

乱暴だが、そうやって近代文学をざっと切ってしまうと、読むべきものと読む必要がないもの(その人にとってという意味だ)は、おのずと綺麗に分かれてしまうのではないかとすら思える。

そしてたいていの場合、この対立構造を人間自体が克服できると信じる狂気はニーチェのように発狂という結果に陥る。文字とおり発狂するとは限らない。ただ自殺という結末に至るケースは、このタイプに入ってくるのではないかと思う。

この対立構造は解決不能だ悲観し、むしろその破局的な現状に耽溺してしまうものは、ドストエフスキーや、メルヴィルや、カミュのように永遠の憂鬱に閉じ込められていく。むしろ負の部分にさえ、人間の本質を見て、それに肩入れしかねない傾向を持つのがこのタイプだ。ドストエフスキーはまさにそうである。あるいはそれを拒否しながらも、克服にはどうにも自信が持てずに逡巡し、苦悩の中で立ち尽くすタイプの場合もある。カミュがそうである。

無理に人間のこの原罪を突きつめるのを、一歩手前で敢えて踏みとどまるものは、曖昧なうちに(しかし、悲しげに)人間の正の部分をひたすら信じようとする楽観論でケリをつけようとする。トルストイや、ユゴーや、ディケンズ、あるいはサン=テグジュペリのように。

これが正しい文学論かというと、たぶんそうではなく、そうとう粗雑で杜撰な区分けなのだろうが、わかりやすい。

さて、自分はどれだろう?

いずれも魅力はあるのだ。どれとも甲乙つけがたいというのが本音のところだ。ところが、書いてみるとすぐわかる。読んでいてもわからないのだ。わたしは、自分でも下手な小説を書くからおぼろげながらわかっているつもりだ。

人間こうしてみると、自分がなにかを知りたかったら、結局書いてみなければわからないかもしれない。

とくに、そのとき重要な点がある。書くといっても、日記では駄目なのである。しょせん自分という小さな世界でのマスターベーションで終わってしまうからだ。

人に読ませるものとして書いたときに、自分の本当の見せたい自分、見せたくない自分がはっきりしてくるからだ。そしておそらく、見せたくない部分が見えてくるところに、本当の自分がある。

そしてあらゆる喜劇は、けっきょくは悲劇だということがわかる。文学には、悲劇しかないのだ。喜劇に見えるだけのことだ。