日本人の色~朱と黄金
これは第33回目。色に関してご要望がありましたので、掲載しました。日本人の色ってなんでしょう? 世界的にも同じものを、違う色でとらえるという文化の違いがあるようです。
:::
日本人の色彩感覚と欧米人の色彩感覚が違うことは、つとに知られている。たとえば虹だが、日本人は「七色の虹」と呼ぶ。虹の色は紫、藍、青、緑、黄、橙、赤の七色だ。ところが、国によっては五色、六色に数える国も多いし、かたくなに二色だと言い張る民族もある。英語圏ではふつう、藍色を除いた六色である。
逆に、これと矛盾するようだが、日本では青と緑を混同して使うことも結構ある。「青々と茂る樹木」のように、本来緑色のものを「青」と表現することが少なくない。これは、日本だけでなく中国でも、緑に近い色までも青色と認識する傾向にあるようだ。これに対して西洋では、「青」は少し紫色に近い範囲まで blueと言うらしい。「青色」と認識する範囲が、東洋と西洋では微妙に違っていることになる。
緑色とgreenも微妙に違っていて、日本語で「緑」は濃い緑を思い浮かべるのに対し、英語のgreen は明るい緑色、つまり日本語なら黄緑に認識される色まで green と呼ばれる。日本人の緑色の濃さというのは、究極的には「緑の黒髪」という言葉に象徴される。
朱色に関係していることで言えば、たとえば、太陽の絵を描いた時に何色に塗るだろうか。もちろん、日本では朱色ではなく、「赤色」で塗ることが多いわけだが、英語圏だけでなく外国では「黄色」に塗ることが多い。生涯にわたり、太陽を一心不乱に描いたゴッホの絵を思い出してほしい。赤い太陽は一つもない。全部黄色なのだ。ゴッホは、とくに黄色が好きだったということもあるが(一種の発達障害だったという説もある)、それにしても異常なくらい黄色を多用している。
「彼はまだ青いね」、「白黒はっきりさせよう」、「真っ赤な嘘」・・・といったような日本語独特の表現は、中国や欧米では、どうなっているのだろうか。Blueは、憂鬱なというニュアンスがあり、白黒ではなくBlack and whiteと逆に呼ぶ。Redは羞恥、激怒、赤字とかなり日本人の用途と近い。こうしてみると、色のことを突き詰めていけば、もっともっと、文化の違いということが分かってくるかもしれない。
なかなか日本人の色の感覚というものについて、自分でも定見はないのだが、つらつら思っていたことがある。日本の歴史の中で、黄金と朱がとりわけどの時代でも強く主張をしている印象が強い。
そこで話は飛ぶのだが、茶の湯というのはわたし自身まったく経験もなく、よく分からない世界なのだが、活字を通して知る限り、興味の尽きない題材がとても豊富だ。
通説では、室町時代に村田珠光(むらた じゅこう)によって始められ(侘び茶の創設者)、武野紹鴎(たけの じょうおう)らを経て、千利休(せんの りきゅう)によって完成されたとされている。それまで日本人は、茶を飲む習慣というものを持たなかった。せいぜい白湯(さゆ)である。
茶道というものは、この茶を点(た)てて差し上げるという、ごく平凡な日常茶飯の行為のほんのいっときを切り取り、これに規範を定め、ひとつの礼法としたものだ。社交の規範であると同時に、芸能文化であり、総合芸術でもある。その真髄は、「おいしく点てて、おいしく召し上がっていただく」ということに尽きる。
このお茶の歴史の中で、昔から不思議に思っていたことがある。なぜ、時の権力者・豊臣秀吉が、千利休に腹を切らせたのか、ということだ。
一般には、秀吉の豪華絢爛な茶の湯の世界と、利休が到達した侘び茶の世界が相容れなかったとか、利休が秀吉を見下し、ないがしろにしたため秀吉の不興を買ったからとか、諸説ある。が、どれもとってつけたような理由にしか思えない。
もともと、秀吉の非公式の家臣になっていた利休は、茶湯頭として諸大名と秀吉との「つなぎ」に一役買っていた。秀吉自身が大名たちに、「公儀のことは、利休に聞け」と言っていたくらい、信頼が厚かったのは事実である。
それが、どうしたことか、豹変して腹を切らせたわけだ。堺の利権で秀吉と折り合いが悪かったのか。娘を妾として差し出せといわれて断ったからか。大徳寺の山門に自分の彫像を掲げさせ、秀吉が下を通ることで、権勢をこれみよがしにしたからか。さまざまな推測がだされているが、どれもいまいちピンとこない。
結局のところ、なんらかの権力闘争だったのではないか。茶湯頭として優れた政治力を発揮した利休は、秀吉の甥である秀次を評価していた。朝鮮出兵にも反対していた。こうしたことと、秀吉の権力への執着とが、どこかで衝突したのかもしれない。思えば、明智光秀、千利休、豊臣秀次と秀吉に殺された三人は共通して、個人的な恨みや罪で、悲惨な最期を遂げたことになっている。少なくとも、従来の定説ではそうだった。しかし、近年のとくに民間研究者の増大により、こうした通りいっぺんの通説は覆されつつある。要は、秀吉が自分に取って代わる者、自分を追い落とす者に対して、仮借ない仕打ちをするということだったのかもしれない。
実際、利休は、相当な豪の者だったようだ。秀吉の子飼いだった福島正則(ふくしま まさのり)は、その直情径行や、乱暴な所作性格はつとに有名だった。常日頃、友人の細川忠興(ほそかわ ただおき)が利休を慕っていることを疑問に思い、その後忠興に誘われ利休の茶会に参加した。茶会が終わると正則は、「わしは今までいかなる強敵に向かっても怯んだことはなかったが、利休と立ち向かっているとどうも臆したように覚えた」とすっかり利休に感服していたそうだ。福島正則でさえ臆したというのだから、その存在感たるや相当のものだったに違いない。
ただ、ここで書きたいのは、こうした歴史の謎のことではない。秀吉と利休の茶の世界観の違いについてである。秀吉は先述のように、絢爛豪華を好んだ。茶室も、有名な金箔張りだ。利休の侘び茶とはまったく相容れない。両者にこの点で確執があったかどうか、それほど致命的な確執だったかは分からない。個人的には、この違いが問題だったとは到底思えないのだが。
世界観というものは、違って当たり前。しかし、巷間伝えられる秀吉の金拍好き、絢爛豪華好きというのも、この茶室に関しては、ちょっと違うのではないか、と思う点がある。
ずいぶん以前のことだが、夜も開門している京都の某寺で、観覧する機会を得たことがある。夜の寺は暗い。堂内もあちこちに闇が広がっている。そこかしこに「魔」が潜んでいるような錯覚さえ覚えた。寺というものは元来、「魔」を許容する。「魔」があってこそ、仏の導きは輝きを増すのだ。そして本堂に足を踏み入れたとき、現在に至るまでも、これほどの異界を感じたことはないというくらいの衝撃を受けた。
わずかな蝋燭(ろうそく)の炎に照らされた本尊はじめ、黄金の仏像たちのその荘厳さ、幽玄さというものは筆舌に尽くしがたいものがあった。ゆれる灯りで、仏像たちは表情さえ変える。あれは黄金であるからこそ、圧倒的な神秘性を放つことができるはずだ、と思った。
個人的な感想に過ぎないのだが、仏像がなぜ黄金なのか、それがそのとき分かったような気がしたのだ。昼間、黄金の仏像を見ても、なんの感慨も無い。むしろけばけばしいだけである。しかし、ひとたび闇の中で、蝋燭の灯火に揺らめいたとき、思わず膝を屈してしまうような圧巻の世界観が広がるのだ。
読者の皆様もぜひ一度、ご自宅に仏壇がある場合、それも黄金色にしつらえてある場合は、蝋燭の灯りだけでご覧になってみていただきたい。小さな仏像でも、おそらく想像を絶する崇高さが部屋中に広がる思いをするはずだ。
その経験からすると、秀吉の茶室も、夜が本番だったのではないだろうかと思ったのだ。黄金の茶室は、昼間見れば悪趣味以外の何ものでもなくても、夜の静寂(しじま)の中であったなら、蝋燭のわずかな灯りにゆらめく、幽玄さの極地が演出されたのではないか、と想像する。
私は、昔から今まで、秀吉という人物をどうしても好きになれない。英傑であることは認めるが、好きではないものは仕方がない。しかし、この夜の寺での経験によって、秀吉という人間の美意識(一般的には成金趣味とされた)を、少しばかり、理解ができたような気がする。おそらく、利休は秀吉の美意識を蔑視するようなことはなかったろう。両者の確執は、もっとずっと生々しい現実世界での話だったに違いない。
日本の色とは、いったい何だろうか。古代日本には、そうした特別な意味を持った色は、おそらくなかっただろう。麻布や絹のような白がそうであったかもしれないが、国そのもの、文化そのものを象徴するような地位は、白という色に与えられたことがない。
そこへ、仏教という外来宗教が入ってきた。それは膨大な経典と、見たこともないような仏具や伽藍(がらん)、そして何より古代人を驚倒させたのは、仏像の黄金だった。その圧倒的な迫力と神秘的な色に、古代日本人は言葉を失った。聖徳太子(実在については疑われているらしい)が仏教を広めるまでもなく、その黄金に日本人はひれ伏した。
この仏教が伝来し、破竹の勢いで拡大していった様子に危機感を持ったのが、伝統的な神道だった。もっとも神道も、元を正せば外来宗教が多い。たとえば、稲荷にしろ八幡にしろ、秦氏(はたうじ)が大陸から持ち込んだ、彼ら自身の先祖信仰にほかならない。出雲の熊野大社におわしますスサノオでさえ、父親名・フトゥ、本人名はフトゥシ、息子(天照国照彦天火明饒速日命、ニギハヤヒ)の名がフルと、すべてモンゴル名である(朝鮮名ではないので、この点注意)。しかし、ここではまあ、そう堅いことは言わず、古代日本の神道としておこう。
この伝統的な神道は、仏教の勢いに対抗する必要性があった。そうしなければ、存在そのものが危うくなる恐れがあったからだ。伽藍は白木で質素なだけに、迫力という点では仏教伽藍に及ばなかった。神具もいたってシンプル。高等な論理がちりばめられた経典なども皆無だ。せいぜい、祝詞(のりと)くらいのものだった。どこをとっても、仏教には力負けしてしまう。そこで彼らは、黄金に対抗しうる強烈な色を持ち出した。それが朱色(しゅいろ)だったのだ。
何故、稲荷の鳥居や本殿は、これでもかというくらい強烈に自己主張をする朱一色で染められているのか。稲荷ばかりではない。どこも神社の鳥居は、基本的に朱色で統一されている。これは、古代神道の、外来宗教・仏教に対する強烈なアンチテーゼだと言ってもいい。
黄金そのものは劣化しないが、仏像に使われた金箔は、金に銀や鉛を混入してつくられるため劣化する。しかし、朱色は何度でも塗り替えることができるし、多少古くなっても朱色の自己主張はそう簡単にはおさまらない。こうしてみると、たかが朱という一つの色に過ぎなくても、日本人がそこに込めた気迫というものが、千年の時を越えて感じられないだろうか。
しかし、残念ながら古代、仏教は外来宗教であった。もともとは「日本」ではない。今でこそ、日本独自の仏教文化に育ちあがってはいるものの、当初はそうではなかった。
仏教は黄金の仏像といい、仏具や道具建ての豊富さといい、なにより経典が空前絶後の多さである。大正新修大蔵経には、11970巻が収められている。種類としては、1000-3000種類になる。伽藍も豪華絢爛である。組織も重厚な完成度を持ってる。 当然ながら、圧倒的な力量の仏教に、神道はどんどん押しまくられた。仏教は日本全土に普及していき、神道の退潮著しくなっていったのである。
黄金という究極の色に対して、唯一対抗できる色がこの世にあるとすれば、それは朱色だったのではないだろうか。日本人の原始の遺伝子は、黄金の仏教という外来勢力に接して、初めて日本人の色で反撃を試みた、それが朱色だったのではないか、と思うのだ。
日本と日本人が初めて歴史上、自身を主張した最初の色とは、赤ではない、朱色だったのだと今ではそう思っている。