遠くで山鳴りが聴こえる

文学・芸術


これは89回目。山に登りますか。わたしは若い時分から、本の虫のように思われてきましたが、実は自分ではアウトドア派だと思っています。バイクと、そして登山が好きなのです。

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なぜ山に登るのか、という問いに対して、「そこに山があるから」と答えたのは、英国の登山家ジョージ・マロリーだ。生前の本人を知る多くの人が、このそっけない答え方に、繊細なマロリーの性格から言って、彼が言ったとは考えられないと、異口同音に回想している。

そのマロリーは、1924年に世界で始めてのエベレスト登頂を目指したが、北東稜の上部、頂上付近で消息を絶った。6月8日、あるいは9日のことだ。マロリーの最期は死後75年にわたって謎に包まれていたが、1999年5月1日に国際探索隊によって遺体が発見された。マロリーが世界初の登頂を果たしたか否かは、闇の中である。

エベレストの山頂付近、数百メートルの範囲には、合計150体以上の遭難者の遺体が散在している。登頂するにはネパール政府に登山料を支払うのだが、5つの登山ルートの中で一番安いルートでも1人25,000ドルかかる。1ドル=100円としても、250万円かかるわけだ。ましてや、遺体を頂上近辺から降ろすということになると、通常の登山以上の装備や人員が必要になってくる。例の80歳を超えて達成した三浦雄一郎氏のエベレスト登頂には、億円単位の費用がかかったと言われている。

また、海面と比較し酸素濃度が3分の1という過酷な環境では、トレーニングを積んだ登山家でも48時間以上は耐えられないと言われている。氷点下27度で、頂上付近では風速320キロメートルの爆風が吹き荒れている、そんな過酷な環境で、死体の回収を行なう余裕はどんな人間にもあり得ない。だから、事実上、遭難者の遺体は現場に遺棄されたままになっている。たいていは登頂直後、下山途中で力尽きたケースが多いそうだ。

今は、インターネットでその栄光と裏腹の残酷な現実を、なまなましいカラー写真でいくらでも閲覧できる。戦後の遺体については、原色の化繊の登山服やザックが多いので、色が劣化せず鮮やかなままだ。それだけに胸が痛む。

松濤明(まつなみあきら)という登山家がいた。宮城県仙台出身の松濤は、終戦から間もない1948年12月に、槍ヶ岳を焼岳に向かって縦走する最中、激しい風雪のため北鎌尾根において、有元克己と共に遭難。翌年1月6日に死亡。遺体は7月に発見された。遭難の最中に記した日記や遺書は死後に、『風雪のビバーク』として出版された。

(下は因縁の北鎌尾根)

猛吹雪の中で有元が千丈沢に滑落し、上がってくる力はもうないようなので、松濤も共に千丈沢へ下る。この段階で、松濤も遭難して死亡することは決定的になったといっていい。本人も覚悟の上だったろう。見殺しに出来ないということだ。

松濤は、死の直前まで手帳に書き続けた。(以下、本文のママ)

全身硬ッテ力ナシ.
何トカ湯俣迄ト思フモ有元ヲ捨テルニシノビズ、
死ヲ決ス
オカアサン
アナタノヤサシサニ タダカンシャ.
・・・・・・・・・・・・・・・・
サイゴマデ タタカウモイノチ
友ノ辺ニ スツルモイノチ
共ニユク

最後の文は、
西糸ヤニ米代借リ、三升分、

これは、山小屋に米代のツケがあることを書き記したものだという。読点(、)で終わっている。ここでついに指が動かなくなったのか、意識が混濁してきたのか。

北鎌尾根といえば、かつて1936年に、「不死身」と畏敬された伝説の登山家・加藤文太郎(兵庫出身)がやはり猛烈な吹雪の中で遭難した場所だ(ちなみに、新田次郎の『孤高の人』は加藤文太郎の生涯を描いたものだが、最期のパートナーをやや悪く書きすぎているようで、どこまで事実だったか疑問らしい)。加藤はもともと単独行で登山をしていた。平地を歩く速さで登ったというから、相当の健脚だ。登山はパーティを組むのが普通だったから、修験道の行者のように、単独登攀(とうはん)で冬山を縦走し続けたのは常識破りだった。資金もなかったから、地下足袋だったという。

その加藤は、ペースの乱れることを懸念したが、遭難した最後の登山では、吉田富久と組んでいた。やはり、パートナーが負傷し、その最後は、松濤の遭難と同様、やりきれないものがある。いずれも、パートナーを見殺しにせず、共倒れとなったケースだ。果たして本当のところ、これが最良の判断だったのか、私には分からない。実際に遭難しかけて、辛くも危機から離脱できた経験者のみが知る境地だろう。

いずれのケースも、自分一人が現場を離脱して救援を求めても、その間にパートナーが死亡することは確実な状況であった。それが、松濤にしろ、加藤にしろ、単独での現場離脱を躊躇(ちゅうちょ)した最大の理由だろう。しかし、彼らが残ること自体、確実に死を意味していた以上、二人の判断が妥当だったかどうか。あとは、本人たちの覚悟次第ということになる。

これが、もっと複数のパーティーであれば、行動不能者とそれに付き添う者、そして離脱を試みて救援を求めるものの二手に分かれることもできよう。しかし、二人の場合が一番難しい。見殺しのそしりを受けても、単独離脱を試みる選択肢はなかったのだろうか。これとて、成否はきわめて不確定な状況だったはずだ。

よくパーティ登山に比べて、単独登攀の勇敢さが讃えられたりするが、謙虚な山男は「単独行は臆病だからできるのだ」と笑う。慎重すぎるくらいの計画と、十分すぎるくらいの準備、潔く引く決断。ひとりで山へ入るからこそ、なおさらそうなる。一人であれば引いたであろう一瞬の決断、装備の確認、それらが仲間のいる安心感で弛む。一人では、恐怖が先に立っているから、意外に誤断は少ない。単独登攀者に言わせるとそういうことになるそうだ。

実際、山に一人で登ると、パーティと違って、異様に神経が研ぎ澄まされるのは事実だ。夜、幕営などした日には、それも周囲に人っ子一人いない場合には、風や草木の音、動物の気配、異界のモノの息遣い、そうしたものがたった一人の五感に集中する。単独行を繰り返していると、妙に勘というのもついてくる。とくに、「嫌な予感」というやつだ。一つ不安が起きると、次第にそれが増幅される。一人だと、「やめた」と思いに任せて直ちに撤退することが苦にならない。もちろん、人の性格にもよるだろうが、往々にしてパーティだと、こうしたプレッシャーが分散されて、心配かけたくないとか、迷惑になりたくない、といった遠慮が手伝い、さらに集団という強みの持つ勢いに任せてしまいがちなところもある(一般的には、山は必ずパーティで行くように、ということになっているが)。

パーティにせよ、単独行にせよ、遭難の回避は、とにもかくにも変だと思ったら、山を降りることに尽きる(どこか、相場に似ている)。どちらにしても、悲劇が起こってしまってからでは遅い。とくに森林限界を超えた高度で、午後3時すぎからは一瞬で天候が豹変する。上記で挙げた例は、いずれも冬山であるから、とくに難度が高い登山だが、日常の生活でもそうだ。「ふと頭をよぎった懸念というものは、必ず現実のものになる」。それが、極端な形で訪れてくるのが、山だ。山は、人間の曖昧さや慢心を決して許しはしない。ちょっとした心の隙間が、判断を大きく左右する。その隙を山は見逃さないらしい。



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