先入観を疑え~事実でモノを言いましょう

文学・芸術


これは98回目。野村克也氏の名言に、「先入観は罪、偏見は悪」というのがあります。そういう類の話です。

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近年、なんだかんだといって町を歩けば、驚くほど外国人に遭遇する機会が多くなっている。

そこで、日本人が外人に対して持ちがちな誤解、彼らがわれわれに対して抱く誤解について、書いてみようと思う。さすがに、未だに日本人が、ちょんまげ、帯刀をしているとは思わないだろうが、日本というと思い浮かべる彼らの第一声が、今でもまだフジヤマ、サクラ、ゲイシャが多いようだから呆れる。

よく昔から、日本人は働き蜂で、蔑称としてエコノミック・アニマルなどとさえ言われたこともあるが、これも未だに彼らはそう思っているフシがある。とんでもないと、わたしなどは思っているのだが、どうだろうか。

そもそも昔は、外人が日本人をイメージするとき、丸眼鏡で禿げ(失礼!)で、チビ(これまた失礼!)で、短足(ますます失礼!)で、ショルダーバッグを肩からかけて、気ぜわしげに早歩きしているというものが定番だった。(よく考えてみれば、このステレオタイプの日本人は、わたし自身のようである。)

ところが、いま欧米の若い人たちの日本人のイメージというのは、日本のアニメから入っているから、全然違う。妙にこれまた浮世離れしたイメージだったりするようだ。アニメで描かれる登場人物たちは、8頭身から10頭身。おまけに顔というのは、瞳が顔全体の3分の1を占めるくらい大きい(少女漫画を見てみよ)。外人は確かに目が大きいが、比較にならないくらい、アニメの中の日本人の瞳は馬鹿でかい。実際にあんなのがいたら、化け物である。おまけに、その巨大化した瞳の中で、キラキラと星が輝いているのだから、もう人間ではない。

日本に来たこともなく、日本をよく知らない外人の若年層の間には、日本人はみんなこんな顔だと思っているという場合もよくあるらしい。大学のとき(もう三十年以上も前の話だ)、ある帰国子女の女性の同級生が二人いたが、ハワイとロサンジェルスで育った彼女たちは、日本に来るまで、日本の男の子はみんな漫画に出てくる、おめめぱっちりで大きく、八頭身だと信じ、家族とともに日本に帰ってくるときは、胸をときめかせていたと告白していた。その失望たるや、筆舌に尽くしがたいものがあったようだが、意外にそんなものらしい。

こういう誤解というのは、非常に多い。だいたい日本人が、馬車馬のように働いているというイメージも、果たしてどんなものか、疑問が多い。大企業に働いた人間なら、誰しも知っているだろうが、朝から夜遅くまで、寸分を惜しんで働きづめ、などということはない。残業をしていても、だらだらやっていることが普通だ。

逆に、米国人に対して、日本人がとても羨むようなイメージを持っているが、これも結構、誤解が多い。たとえば、米国人は、5時になったらさっさと帰宅し、家庭を大事にし、とかいったような話だが、これもどうだろうか。こうしたステレオタイプのアメリカ人かというと、必ずしもそうではない。

具体的に言えば、ウォール街に巣食ってる連中(マーケットに関わっている連中)は、それこそ蟻のように働いている。歩合制、成功報酬制だったりすることも多いためだろうが、なにしろ、朝はコーヒーだけ。ランチなど取らない。あの大きな体で、りんご一個とか、そんなものだ。

夜中も、海外市場に引きずりまわされて、万年睡眠不足であり、目にクマができている。たまに口にするものがあるとしたら、チーズバーガー一個とか、ポテトチップスとか、そんな程度だ。ようやく夜にまともな飯を食うが、確かにそこでは馬鹿食いである。「ゾウリムシの化け物」のような、暑さ3cm、A4用紙分くらいのステーキをぺろりと平らげ、チョコとアイスクリームのボウルを食っている。そんな日常を繰り返して、30代で億単位の金を貯めて、リタイア。これが、彼らの成功パターンであり、目指しているところだ。

この連中と、一般の米国人労働者とでは、まったく仕事へのスタンスが違う。一般的には、確かに5時にさっさと帰るだろう。ガムをかみながら、工場の作業をしたりしている。消費者が、GMの新車を買ったら、だんだんえらく臭くなってきた。おかしいな、と思って調べてもらったら、ドアの中に、バナナの皮や、腐ったサンドイッチが入っていたなどということが平気で起こったりする。米国の工場労働者の集中度はきわめて低く、しかし権利だけは主張する。

間違ってはいけないのは、アメリカでは、所得が高い人間ほど、非人間的な仕事ぶりだということだ。逆に所得が低ければ、日本人が羨むような、気楽な日常だ。食費や住宅費、燃料費など、日本より価格水準が低いから、やっていけるのだ。

これに比べると、日本人は、働く人間も、働かない人間も、一応所得に差があるのだが、アメリカのような極端な違いはない。見事なほど社会主義的である。

さて、一体どちらがいいのだろうか。あるいは、どちらが人間にとって幸せなのだろうか。ただ、これだけは言える。アメリカのほうが、選択肢があるということだ。死に物狂いで働きたい人間は、それなりのチャンスが与えられている。成果を出せば、とんでもない所得が手に入る。いやなら、適当に働いて時間と趣味を大事にすればよい。日本には、まだこの選択肢の自由度やチャンスは、少ない。

また日本人はせっかちに歩くという、外人からみた固定的なイメージだが、これもわたしは個人的には違うように思う。

長いこと、香港を中心にアジアにいたからなのか、どうも日本に帰ってくると、やけに歩行者が邪魔で仕方が無かった。今でもそうである。わたしが、極端にせっかちに歩くからだろうか。日本人というのは、なんとだらだら人の邪魔になるような歩き方をするものなのだろうか、と長年閉口しているのだ。日本人の町での歩き方は、わたしが知るほかの国(首都)での歩行者にくらべ、はるかにだらしが無く、きびきびしていない。

外人、とくに米国人のイメージの誤解についても書いておこう。父親が家庭や妻を大切にするなど、いかにも米国のテレビドラマや映画で見られるような、模範的な米国人家庭のイメージというものだが、現実から程遠い。レイディファーストなど、とんでもない。

米国の家庭内暴力による、被害女性は年間200万人である。一日に11人の米国人女性がこれによって死亡している。年間では4000人前後が死亡しているのだ。日本では、被害女性総数は2万8000人である。いずれも申告(警察の介入となったもの)によるデータがベースであるから、潜在的にはもっと多いだろうが、それにしても米国は日本の71倍である。

確かに人口が違う。米国は3億1000万人。日本は1億2600万人。米国は日本の総人口の2.5倍だ。上記の日本の家庭内暴力被害者数2万8000人の2.5倍しても、7万人。それでも、米国は日本の29倍である。

ちなみに、日本において家庭内暴力による死亡は、年間で100人前後であるから、一日当たりでは0.27人ということになる。これでも、われわれ日本人にしてみれば、意外にあるんだなあ、と驚きを隠せないが、それでも米国の一日11人死亡とは比較にならない。

なんでもそうだ。もちろん統計がすべてではない。しかし、上っ面のイメージで、なんでも測るのはやめたほうが良さそうだ。歴史認識でもなんでもそうだが、とにかく誰でもまず納得できる客観的なデータで、ものを考える癖をつけよう。

白人や黒人など、まだわれわれと見た目、明らかに違う人種に対しては、本能的に「違いがある」という前提で向き合うからまだしもだが、この相手が、見た目判別がつかない半島や大陸の人たちになると、もっと問題は複雑だ。似ているだけに、「違う」という前提がかなり希薄なのだ。これが問題をもっとややこしくしている。ある意味、白人や黒人以上に、極東の民族は違いが大きいかもしれないのだ。ここが落とし穴だ。似ているからといって、「わかってくれる」という甘い期待はしないほうがよい。

こうした誤解は、探し出せばひきもきらない。日本国内の若年層に関してすら、こうした誤解や先入観があるくらいだ。ましてや、外国人のことなど、正直ちゃんとわかれというほうに無理がある。外人がわれわれ日本人に対してどういうイメージを持っているかという点については、言わずもがなである。

さて、ゴールデンウィーク。仮にも、われわれが外人と接触する機会もあるだろう。彼らがわれわれに対して抱いている、先入観や間違ったイメージが、そのわずかな邂逅(かいこう)によって、良い意味でサプライズになったら嬉しい限りだ。



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