王道のグルメ
これは107回目。105回目の「世界の三大スープってなんだと思いますか?」が、わたし自身当惑するほど多くの方に読んでいただき、正直びっくりしています。お料理のような話のほうが、みなさんご興味があるということなのでしょうか。あのコラムの何がいいのか、自分ではまったく皆目見当もつきませんが、そういうことなので、また手抜きさながらのコラムですが、食べ物シリーズを一本投稿してみます。お口に合いますかどうですか、自信はありませんが。
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「ねこまんま」と何故呼ぶのかわからないが、猫に食わすなどもったいない。例の、冷飯に温かい味噌汁の残りをぶっけるあの食べ方だ。とくに美味いと思うのは、赤出しの味噌汁、とりわけシジミを使ったときは格別だ。まず、家庭によっては忌み嫌われる食べ方らしい。わたしの実家では普通のことだったが、家内の実家では禁忌だったようだ。
「下品だ」ということなのかもしれないが、食い物に上品も下品もないわい、と思う次第。
だいたいからして、グルメというのは高い、美味しいものを食することではない、と固く信じている。高ければ、美味くて当たり前だろうと思ってしまうのだ。高いのに、美味くなかったら、人を馬鹿にしてるのかということだ。
むしろ、グルメのグルメたる真骨頂は、ありあわせのもので、どれだけ美味い物を食わせるか、自分でつくって食えるか、その一点に絞られていると思うのだ。奇策の有無は、どうでもよい。
ありあわせのもので、ジャンキーながら、実に美味い食い方というのは、いろいろあるものだ。最近では、クックパッドのホームページ上で、アノ手コノ手のメニューが花盛りとなっている。
本人がよければ、わたしは食い方など何でもアリだと思っているほうだが、わたしがよくやる例を挙げてみよう。
これは結構定番だろうが、カップヌードルの残り汁を使う。冷や飯が中途半端に残ってしまっている場合など最適なのだが、これに残り汁をぶっかけて食らう。とくに、カップヌードルの麺だけでは、イマイチ腹が満たされていないという場合に格好のシメになるのだ。人によっては、「うまい棒」を突っ込むそうだ。
だいたいからして、この「有り合わせ」の食い方というのは、どういうわけか「汁物」、流動食が多い。たとえば、またサバ缶の残り汁をご飯にかけるという手もやる。醤油を垂らすのは、必須だ。パンチが出る。
この種のジャンキーな食い方というのは、食パンにもある。たとえば、西日本の人は眉をしかめてしまうかもしれないのだが、納豆を食パンにかけ、その上に生卵を置く。これで、トーストにするのだ。出来上がったら、絶対に醤油をかけて食うのである。いわゆる「納豆トースト」だが、昔はゲテモノの最たるものだったようだが、今では結構東日本では、一部に市民権を得ているようだ。
ちなみに、わたしの父親は、不思議なトーストの食べ方をしていた。「雲丹(うに)」の瓶詰めから、うにをスプーンですくい取り、トーストの上にあたかもジャムのように伸ばして食べるのだ。これは、子供の頃から一緒に食っていたので、非常にわたしなどには思い出深い、美味いトーストの食い方なのだが、はたから見たらとんでもない食べ方なのかもしれない。実際、その後、一人としてそういう食べ方をする人に出会ったことがない。
納豆を使う、かなり贅沢な、しかしジャンキーな料理としては、刺身と併用するというのがある。言わば納豆スタミナ丼なのだが、刺身(イカ、タコ、まぐろ、白身魚など、けして値段の張るものでなくてよい。まぐろなど、「中落ち」で良いのだ。)と沢庵を小指の先くらいに切って、生卵と納豆であえて、白米にかけて食べるのだ。実は、これは昔、高級料亭の金田中で出していたらしい。
けして一般的には正攻法ではない、しかしちょっとこだわったものの食い方というのは、おそらく各地特有のものがあるだろう。中京地域の「ひつまぶし」などというのも、その類と思う。
話は飛ぶが、山に登ると、持参する食材が限定されるだけに、ちょっとしたものでなんとかしてしまおうという工夫が結構出てくる。わたしにも、山登りのときにやった定番というものがある。小さなキャベツを横に半分切りにして持っていった。バーナーでお湯を沸かす。その間に、半分になったキャベツの芯をくり抜き、コンビーフをまるごと突っ込む。そのままお湯に入れるのだ。あとは、コンソメを一個入れるだけだ。パンで食おうが、飯盒(はんごう)でコメを食おうが自在だ。これは、山で教えてもらってから、単独行のときには、まず一回はこれを食っていたような気がする。
こういう類は、絶対に手が込んではいけない。なるべく段取りや工数が少なければならない。なおかつ、インパクトがあって、上手くなければならない。
山では、人からいろんなやり方を教わったものだ。意外だったのが、切干大根である。なにしろ、かさばらないし、重量もないので、登山用の食材としては実に都合が良い。これを、水で戻す必要はない。
これをどうするのかというと、スライスガーリック(薄切り乾燥にんにく)をオリーブ油を使って弱火で香りを出す。ベーコンの真空パックがここで登場する。だいたい、常温で三日くらい持ち運んでもどうということはない、これを適当に切って、加える。そこに、いったん水洗いした切干大根を突っ込んで水を加え、煮る。何倍にも膨れ上がるから、一人分なら量は加減しないといけない。このとき、鷹の爪もふんだんに加えると、味がぴりっとしてくる。
最後に塩・胡椒で味を整える。これで、飯にぶっかけてもよし、おかずで食ってもよし。山ではこんなものが存外に美味い。家ではこれに、シメジやらエリンギやら、キノコ類を混ぜて炒めることが多い。
ちなみに登山するとき、たとえば冬山であれば(わたしはなんちゃって登山なので、絶対に冬山はやらないが)、大量のカロリー消費をするのでそうもいかないのだが、ダイエットには抜群の効果がある。それも、上記の切り干し大根レシピで食すると、気持ちの問題ではなく、実際一気に体重が減る。
これこそ個人差や、条件にもよるとは思うのだが、わたしの場合、だいたい一日工程(日帰り)の登山で(というよりハイキングと思っていただいてもよい。低山徘徊だ。)、9kmから12kmのルートだと、まず69kgの体重が66kg前後には、いきなり減る。一発で3-4kgの減量だ。何度やっても毎回同じなので、たぶん間違いないだろう。
このとき、当然米は食わない。それでは腹が減るので、なにを一緒に炒めるかというと、こんにゃくだ。だいたいこのケースのときには、わたしは前夜につくって、ぺミカンさながら山に持参するのだ。こんにゃくは小さめのダイスに切って一緒に炒めるのだ。
登山をすると、一日の基礎代謝分を除いたネットでも、おにぎり40個分とか、60個分とか(行程距離にもよるし、個人差はあるだろうが、わたしの場合)平気でカロリー消費をしてしまう。
しょせんカロリーだけだし、机上の計算値ではあるけれど、かなりの体重減少効果があるとは思っている。
だから体重やメタボを気にし始めてからは、山というとまずカレーやらシチューやら、肉の塊やらは食わないようにしている。切り干し大根レシピのような類でほぼ強行登山しているのだ。もちろん、一応行動食として「スニッカーズ」のようなものは携帯するが。
話がそれた。有り合わせこそがグルメの真骨頂という話だった。ちなみに、「ああ面倒だ、お茶漬けでいいや」というとき、普通一般的にはどうするのだろうか。やはりお茶(緑茶)をかけるのだろうか。あるいは、インスタントお茶漬け海苔をふりかけて、お湯を注ぐのだろうか。
わたしは、鱈子(たらこ)にしろ、鮭にしろ、なにか塩気のあるおかずがあるのなら、間違いなく「白湯(さゆ)」をかける。よほどそのほうが、あっさりしていて気が利いている。お茶漬けがダメだというのではない。白湯漬けのほうがうまいと思うだけだ。
鱈子も鮭も、イカの塩辛も、おしんこの類もなければ、どうするか。長ネギの青い部分。これを細かくみじん切りにする。味噌と醤油と、わずかなみりんを加えて掻き混ぜる。気が向けば、これに七味をかけて、若干ごま油で香りを添える(ここはラー油でも良いのだ)。これをつまみながら、湯づけを食うのだ。
世にグルメというのが、究極のグルメとは、こういう「有り合わせ」の食い方のこだわりだろう。もっとも、あまりこだわりすぎて、手間がかかってはかえって嫌味だ。ざっくり、あっさりでなければならない。
なにも、有名シェフの、とんでもない高い料理を食いにいくのがグルメなのではない。どこどこのお店は安くて美味いよというのを、はしごするのがグルメなのではない。グルメというのは、自分でその場で、格別なものをさっとつくって堪能できることを本当のグルメというのだ。食い物で、これ以上の至福はない。
蛇足だが、こんな食い方というのを観たことがあるだろうか。「そらまめ」の簡単な料理だ。
5月中旬から6月中旬というのは、個人的に一番楽しみにしているのは、「そらまめ」を食すことだ。
もちろん、もっとも単純な食べ方は、塩で湯がくに限る。これはどういうわけか、人によって食べ方が違っていて、「そらまめ」を湯がいて(硬めが良い)、皮をむいて食べる人。皮ごと食べる人。いろいろある。
わたしは子供の頃から皮ごと食べる。どうも、周囲に聞いてみると、皮をむいて食べるのが、普通らしい。やはりわたしは少数派か。あの皮の苦味がたまらなく好きなのだが。あと、やわらかくなった、湯がきすぎもいただけない。身は硬めのほうが圧倒的に美味い。
この「そらまめ」、古代ギリシャ、ローマいずれでも、葬儀用として食事に供されたようだ。理由は定かではない。もともと西南アジアが原産地と推測されているので、日本には8世期ごろ渡来したようだ。ちなみに、中国の河北省張家口で、世界的にも最高級品が栽培されているという。どう最高なのか、寡聞にして知らないのだが。
そもそも、なにゆえ「そらまめ」というのだろうか。豆果(さや)が、空に向かってつくために「空豆」と言うのだという説。または蚕を飼う初夏に食べ、サヤの形が蚕に似ていることから、「蚕豆」という字が当てられた、という説。しかし、このそら豆の食べ方で、どうしてもこの季節に食べる料理法というのがある。誰でもできるものなので、どうだろうか。
かつて、80年代に、仕事で香港から雲南省昆明に出張した。そこから、ジープで延々と12時間近く山奥に入り、ダム現場まで行ったのだ。
昆明では、前の晩に、腹が減ったので屋台に繰り出した。そこで出くわしたのが、この料理法だ。中華鍋で、蛙(かえる)肉と「そらまめ」をいっしょに炒め、胡椒と塩、そして鷹の爪で味を調えるだけだ。これが実に美味い。
もしかしたら、中華料理の常として、鶏がらスープを出汁(だし)として鍋にぶっこんでいたかもしれない。
そうして出来上がったものを、炒めた油ごと、どんぶり飯にぶっかけて食するのだ。もちろん、「そらまめ」はこの場合皮をむいてある。そして、若干湯がくという下ごしらえをしてある。
但し、まだまだ堅くて食べるには、というくらいでちょうどいい。そこから肉といっしょに炒めるのだから。十分湯がいてしまうと、「そらまめ」の食感が跡形もなく消えてしまい、美味くない。
しかし、なかなか蛙の肉というのも手に入らない。豚というのもあるらしいが、なんといっても昆明で食した味覚が忘れられず、日本に帰ってきてからは、鶏肉で代用している。オリジナルに近いと思う。
不思議なことに、誰でもつくれるような簡単な料理なのだが、どういうわけだか、この料理、北京や上海など、ほかの地域でほとんど見ることがなかった。皆無といってもいい。たまたま見かけなかっただけのことだろうか。やはり、「そらまめ」に季節性があるためなのだろうか。時期をはずせば、それは無理だろう。
たいていあったとしても、「そらまめ」と海老の炒め物であったり、「そらまめ」となんらかの肉の炒め物だったとしても、なぜかオイスターソースを使ったような、甘目の味付けのものばかりだった。昆明の屋台の蛙肉(鶏肉でも良い)と塩味系の組み合わせは、とんとご無沙汰である。
もしかしたら現地の人からしたら、当たり前にどこにでもある料理でしかないのかもしれない。当たり前すぎて、料理の中に入らないということも考えられる。ちょうど、餃子という概念が、中国(とくに東北部)では料理の範疇に入らないのと一緒だ。今では外人(日本人のような)が食べるから、中国の店でも出しているかもしれないが、80年代を振り返ると、外食店で餃子を出しているところなど、皆無だった。
もっとも、昆明の「そらまめ」の蛙肉炒めだが、わたしのように、「昆明で食した・・・は美味かった」などとオウムのように言っていると、「やっぱり秋刀魚は目黒に限る」といった落語のように、中国人に笑われてしまうかもしれない。
しかし、当時食糧事情が極端に悪かった時代。何年も中国にいて、それこそ最高に美味いものを食ったという記憶がゼロに近いわたしにとっては、この「そらまめ」料理は貴重な思い出なのだ。東京で何万円もするフランス料理フルコースを食するより、はるかに絶品だと信じて疑わない。しょせんグルメなど、偏執的なこだわりの異称に過ぎないと思う次第。