高原のいざない~書を抱け、野に出でよ。

文学・芸術

これは135回目。ときには、爽やかなことを(一見そう思えるだけなのですが)書いてみます。かつて全共闘時代、寺山修二が、頭でっかちになった若者たちに投げかけた言葉がありました。「青年よ、書を捨てよ。街に出よ。」本ばかり読んで、理屈ばかりをこねくり回し、偉くなったような勘違いをせず、現実の世界を見よ、と諫めたのでしょうか。

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このコラムでは、違う標語を掲げよう。

「青年よ、書を抱け。野に出でよ。」

とにかく、活字離れがはなはだしいのだ。語彙力の致命的な低下は(うちの子供たちをみていても慄然とする)、回帰不能点にまで達している。しかも、現実世界(人間社会)どころか、自然界にすら彼らは接触の機会が無さすぎる。

時代のせいにすることは、間違っている。人間の歴史なのだ。いつの時代も、言い訳はその都度捏造されてきた。生き死にをするのは、本人だ。世界でも時代でもない。

まずは、数千年にわたる人類の叡智が蓄積された書を抱いて、現実の閉塞的な世界から飛び出そう。そこで、人間の手によるものではない自然の造形を、間近に実見してみよう。そこから始めるしかない。

若い世代にこういう観点でおすすめなのは、詩だ。散文と違い、簡単に読める。それだけに、行間を読まなければならないから、思考が深まる。

東京であれば、季節も良くなってきたことで、軽井沢などに足を運ぶというのは、かなりお洒落だろう。心にとってお洒落だということだ。

とくに、現代の青年が、古臭さを感じることなく、すっと心のひだに浸み込んでいく詩集といえば、すぐ思いつくのはやはり立原道造だろう。中原中也も良いのだが、厭世的な部分が強いので、アクの強さにアレルギーを起こす人もいるかもしれない。立原道造なら、男女問わず、どこか心が洗われるはずだ。

『のちのおもひに(立原道造)』

夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへつた午さがりの林道を

うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つてゐた
――そして私は
見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた……

夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには

夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう

立原の詩というのは万事この調子だ。これなどはとくに有名な詩だ。

『夢みたものは(立原道造)』

夢みたものは ひとつの幸福
ねがったものは ひとつの愛
山なみのあちらにも しづかな村がある
明るい日曜日の 青い空がある
日傘をさした 田舎の娘が
着かざって 唄をうたってゐる
大きなまるい輪をかいて
田舎の娘らが 踊りををどってゐる

うたって告げてゐるのは
青い翼の一羽の小鳥
低い枝で うたってゐる
夢みたものは ひとつの愛

どれを読んでも、ナンパな文弱の独り言のように思う人も多いだろう。「飽きる」という人もいるだろう。

が、このように一見平易な詩は、ここ30年ほど、誰もが「真似」をしてきたスタイルにもかかわらず、わたしが知る限り、立原以上に芸術性の高い詩に仕上げたものを見たことがない。乱暴な言い方をすれば、すべて、立原の「亜流」といってもいいくらいだ。つまり、立原の高級感に比べて「安っぽい」のである。誰にでも書けそうで、誰にも書けないというあれだ。

この立原の詩は、その背後に、24歳で夭折した人生だったということを知れば、それがただのナンパな文弱の独り言ではないことに気づく。平易な文は、にわかに重く、深くわたしたちの心に音もなく染み入ってくるはずだ。

1914年(大正3年)生まれ、亡くなったのは1939年(昭和14年)。府立第三中学(現両国高校)の一年生( 13歳)のときに北原白秋の門下生になり、優れた短歌や詩を発表するようになる才人だった。第一高等学校の理科を経て東京帝国大学工学部建築学科に進んだ。

1937年に帝大を卒業した後、建築技師として石本設計事務所に勤める。この手堅いほどまともな感覚は、中原中也をはじめとするいわゆる破滅型の文人とは全く異なる。意外感を覚えるほどだ。

『一日は(立原道造)』

貧乏な天使が小鳥に變裝(へんそう)する
枝に來て それはうたふ
わざとたのしい唄を
すると庭がだまされて小さな薔薇(ばら)の花をつける

ちつぽけな一日 失はれた子たち
あて名のない手紙 ひとりぼつちのマドリガル
虹にのぼれない海の鳥 消えた土曜日

この『一日は』は、立原の生前発表されていない。後に発見されたものだ。結核病みの立原道造は、常に死の影に怯えながら生きていた。彼の短い晩年には、タイピストをしていた三戸部アサイとの恋愛が、わずかな彩を与えていた。

(立原道造と三戸部アサイ)

昭和9年に、まだ帝大生だったころ、堀辰雄を訪ねて初めて軽井沢に赴いた立原は、その後、軽井沢との縁が深くなっていく。彼の多くの詩は、この軽井沢抜きには読むことができない。

(軽井沢・追分宿の分別れ、大正時代と今)
追分宿の分別れの左側が中山道、右側が北国街道。中山道が舗装されたのは、昭和35年。それ以前、戦前、大正から昭和のころ、立原たちが散歩していた時代は、上の写真とほとんど変わらなかったろうと想像される。
ちなみに、写真手前のほうに、追分宿があり、後述する立原の定宿だった油屋旅館がある。

立原や堀辰雄など、昭和の文人たちが定宿にしていた、追分近くの油屋旅館は近年、廃業の後、文化事業の一つとして再生されつつあるようだ。立原らが定宿にしていた油屋旅館は、彼の晩年近くに消失しており、街道から一本通りを奥に入ったところに建て直された。

実は、恋愛関係にあった立原道造と三戸部アサイは、埼玉県の別所沼に、二人で小住宅を建てる建設をすすめていた。立原道造が描いたヒアシンスハウスの設計図が残されている。昭和13年頃 1938年に二人で現地を訪れていたことが確認されている。

当時の別所沼は葦が生い茂る、原始の香りが満ちた場所だったそうだ。また、立原の肺病の病状が進んでいたため、転地療養の場にする目的もあったらしい。その頃、彼はこんな文章を書いている。

『僕は、窓がひとつ欲しい。
あまり大きくてはいけない。 そして外に鎧戸、内にレースのカーテンを持つてゐなくてはいけない、ガラスは美しい磨きで外の景色がすこしでも歪んではいけない。 窓台は大きい方がいいだらう。 窓台の上には花などを飾る、花は何でもいい、リンダウやナデシコやアザミなど紫の花ならばなほいい。
…僕は室内にゐて、栗の木でつくつた凭れの高い椅子に座つてうつらうつらと睡つてゐる。 タぐれが来るまで、夜が来るまで、一日、なにもしないで。
僕は、窓が欲しい。たつたひとつ。……』

しかし、その夢は叶わなかった。立原は、別所沼を訪ねたこの日から1ヶ月もしないうちに病状が悪化。翌昭和14年3月には帰らぬ人になってしまった。二人の夢は未完に終わった。死後65年、平成16年11月、さいたま市政令市記念市民事業として別所沼にヒアシンスハウスが建った。

時代は、1936年の226事件、1937年の盧溝橋事件と日中全面戦争、1938年の国家総動員法、1939年のノモンハン事変と、立原の病状が悪化する晩年は、戦争への道をひた走る日本の世相があった。

余談。偶然だが、一歳違いのわたしの亡父も、ちょうどこのころ結核に罹患し、療養中だった。千駄ヶ谷の下宿にいた父は、226事件当夜に発病した。大雪の中を帰ると、下宿のおばさんが父の顔色の異常さに気付き、その高熱を確認。そのまま病院送りとなった。どこの療養所かわからないが、5年に及ぶ闘病生活で、同期たちに大きく後れを取ることになった。もしかしたら、立原が入院した中野区江古田の東京市立療養所だったのだろうか。それと知らず、立原と顔を合わせていたことはあったのだろうか。と、妄想は膨らむ。

そういう中で、建築家として嘱望された有為な青年が、結核に苛まれたわずかな命の灯を、詩に結晶させていった。晩年の詩は、ほとんどアサイへの恋文のようにも思える一方で、そういう次元より遥かに切迫したものだったようにも思える。後に、アサイは当時のことを振り返って、こう語っている。

「立原さんは、私を見ていたのではなくて、私の向うに何かを見ていた。」

こうなると、表面的に甘く、淡い言葉のつづられ方は、死と隣り合わせの悲痛な叫びであったことが切々と伝わってきそうだ。死の間際、立原はこう言った。

「五月のそよ風をゼリーにして持って来て下さい。」

立原の悲壮な、あまりにも短い晩年を思うとき、こうした言葉は表面的な少女趣味のものとはまったく違う面持ちだとわかる。三戸部アサイは、立原の死をみとった後、息子を亡くした母・トメの懇願で、立原の実家に3か月ほど滞在していたらしい。その後は、長崎へ移り、クリスチャンとして平穏に過ごしていったようだ。

自身が発信した手紙はすべて焼却し、立原が送った手紙は大事に保管した。その後は、クリスチャンとして平穏に過ごしていったようだ。戦後30年ほど経ったころ、立原文学の研究家が、アサイを探し出し、彼女が大切にしていた書簡をすべて譲り受けた。

立原の墓所は谷中多宝院。アサイのほうは神奈川県藤沢大庭墓地だという。アサイは、18歳で立原と恋愛関係になり、19歳で死別したことになる。その後の長い人生の、ほんの一瞬といっていい出会いにすぎない。立原の研究者たちに、根ほり葉ほり探られるのは避けたいところだったろう。だから、自身発信の手紙はすべて焼却し、立原の手によるものだけ大事に取っておいたような気がする。彼女にはわかっていたのだ。立原の恋は、自己完結的なものだと。

夏が近づいてきている。軽井沢のような高原は、日本中あちこちにあるが、何冊か立原の詩集でも持って、出かけてみたらどうだろうか。爽やかな初夏(まだ梅雨にもなっていないのだが)の風が、なにかあなたに囁くかもしれない。



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