眠られぬ夜のために

文学・芸術

これは144回目。ヒルティの書籍タイトルから拝借しました。ヒルティは徹頭徹尾キリスト教的にわたしたちに語りかけましたが、ここでは東洋的というか、仏教的、とりわけ禅宗的なアプローチでもしてみましょうか。ひょんなことで、意外な気づきがあるかもしれません。眠れない夜には、こんなことを思案してみても、たまにはいいのではないでしょうか。わかったような、わからないようなお話ばかりですが・・・

:::

「公案」という。禅問答といってもいい。といって、『無門関』にあるような、モノホンの公案というわけでもない。

わたしがかつて、坊さんから聞いた話が多い。だから、ある意味現代的な禅問答「もどき」だ。

『無門関』にあるような「電光石火」とか、歴史を超える名言があるわけではない。ただ、そんな与太話でも、日日、わたしたちが生きていく上で、ふとした発想の転換で、どうしても渡れない河を渡ることができたり、立ちはだかる壁を乗り越えたりすることができるかもしれない。

そんなヒントになるような話を、いくつか並べてみようと思う。わたしのオリジナルというわけではないのだ。

たとえば、こんなのがある。

・・・

【教え】

「長い間師匠は教えをいただいてませんが、そろそろお願いできないでしょうか?」
「わたしはおまえがここにやって来た時から、教えている。」
「それは一体どんな教えでしょうか?」
「おまえが挨拶をすれば、わたしは応えている。おまえが粥を持ってきたら、合掌して受け取っている。これ以上何を教えるのだ?」

・・・

要するに、平たく言えば、当たり前のことを当たり前と思うな、ということにでもなるのだろう。普段から当たり前だと思っていることに、人は感謝がなかなかできない。しかし、そこは禅問答。そう解説してしまったら、実は台無しだ。しかも、正解がいくつもあるのが禅問答だからだ。

達磨と弟子の慧可(えか)の問答は有名である。

・・・

【不安】

「私は、不安でどうしようもありません。どうか私の心を落ち着かせて下さい」
「不安に思うその心を、ここに取り出してみろ。そうすれば安心させてやる」
「心を取り出すことはできません」
「それでもう、おまえの不安はなくなったな。」

・・・

似たようなものに、こんな公案もある。

・・・

【捨てる】

「私は、今、一切を捨てつくして何しまい、何も持っていません。私は、どうするべきでしょうか。」
「捨ててしまえ」
「捨ててしまえといわれても、もう何も持っていないのです。何を捨てるのですか」
「その、すてるべき何もないという心を捨てるのだ。」

・・・

すっとぼけたような、一つ間違うと、それこそただのとんちに堕してしまいかねないようなこの禅問答だが、共通しているのは「気」である。「気」の持ちようとでもいうべきか。どんな公案でも、気合、気迫が言葉の合間合間に感じ取れないだろうか。緊張感といってもよい。油断すると一瞬で切り殺されてしまう、居合のような緊張感がある。

「気」というのもこれまたわからない代物だ。禅問答風に例えてみれば、言わば、駅から出発する新幹線のようなものだろうか。助走を始める新幹線を見て、みなさんは「気が満ちている」と思わないだろうか。あの静かな、しかし圧倒的な迫力。それが「気」だとわたしなどは思っている。・・・何を書いているんだか。この辺んことは忘れてください。

どうだろうか、多少ともイメージが沸いてきただろうか。悪く言えば「こじつけ」良く言えば「臨機応変」とも言える。とんちなどを使わず、あるがままの自然の姿を示す行(ぎょう)であるともいえる。

禅宗はそもそもが経典などを持たない仏教だった。書物などに教えを残していないからこそ、自分達のアイデンティを弟子に教えることが出来ず、それが禅問答に繋がっていたのだと推測される。結果禅宗では、経典がない代わりに「伝灯(でんとう)」を重視するようになった。

禅宗にしろ、密教にしろ、無心を求める。

無心といっても、カネを貸してくれという話ではない。無欲にして夢中ということだ。

わたしも長い人生のうちには、何度か「無心になれ」と忠告されたことがある。誰しもそんな経験が二度や三度はあるだろう。ところが、無心ほど難しいものはない。

たとえば、禅である。無心そのものが求められる。できるわけがない。禅を組んでいる間中、考えたくなくとも頭は勝手に動いてしまう。どうやったら、妄念を排除できるのだろうか。

密教では、この人間の集中度の無さを逆手にとって、あらゆる五感を使え、使い尽くせという。白い玉(あるいは月輪=がちりん)にみたてた自分自身を、手に乗る大きさから、果ては宇宙を超える大きさまで膨らませたり、また小さくしてみたり、と徹頭徹尾イメージトレーニングを行う。月輪を終えたら、サンスクリット(梵)の「阿」字で同じことを試みる。禅も阿字観(あじかん)も、月輪観(がちりんかん)も、宇宙・世界との一体を感得しようとする。

密教の阿字観(月輪観)は、禅よりやさしいように見えて、これまた異常に難しい。自由に想念するので、かえって余計な妄念に道草を食い、横にそれていってしまったりするのだ。関係ないことを思い浮かべたりしてしまうのだ。終始月輪観(がちりんかん)に埋没するということは、逆にまた難しいのである。

禅にしろ、月輪観にしろ、ようするに「三昧」の境地を目指している。三昧の行き着く先には、自分も他人も無いのだ。座禅にしろ、念仏にしろ、マントラ(真言)にしろ、読経にしろ、必死さのみを求める。それが、一念、岩をも砕く、に通ずる。

が、やはり、どうやってその三昧の境地に入れるのか? きっとそんな難しいことではないのだ。余計なことをわたしたちは知りすぎていたり、考えすぎたりしているのかもしれない。アメリカの作家、スタインベックがこんなことを書いていた。

「天才とは、蝶を追っていつのまにか山頂に登っている少年のことだ」

そうだ、それは天才でなくとも同じだろう。わたしは山頂までは登れないだろうが、五合目くらいまではもしかしたら行けるかもしれない。無心でいるうちに、そこまでは来ていた、ということになるはずだ。

五合目と言えども、馬鹿にしたものではない。下界を見れば絶景が広がっているのがわかる。

力が無いからといって、蝶を追いかけようとしない人は、力があっても蝶を網でとらえることなどできやしない。

「蝶を追っているうちに、いつのまにか」という境地が欲しいのだ。こういう人もいるかもしれない。「いや、そうではありません。わたしはその蝶を探しているんです。わたしの蝶はどこにいるんでしょう?」

これは難問だ。わたしの人生とはいったいなんでしょう、と自問しているわけだから、これはとんでもなく難問だ。三昧や無心になる以前の段階でつまづいていることになるではないか。

しかし、心配には及ばない。発想を変えてしまえばよいのだ。人生とはなにか、と自問することを止めるのだ。話は逆だと思え。人間というものは、人生から問われている存在なのだ。そう思えば、苦しんで自ら問う必要などないではないか。人生のほうで勝手に考えてくれるだろう。

そう思えば、手前でつまづくこともなく、最初の命題に戻ることができるというものだ。つまり、無心、三昧になるにはどうしたらいいのか。

本当に、意外なほど簡単なことなのかもしれないのだ。無心にしろ、三昧にしろ、それが何か行動を伴ったものか、伴っていないものかは問わず、要するに言い換えれば、無上の安楽に至ることなのだろう。仏教でいう、大安楽、大楽である。

たとえば、般若心経が教えている内容などはその答えの一つなのかもしれない。以前、ネットで拾った、ヤンキー言葉で書き直された「超訳 般若心経」というのがある。

ヤンキー言葉の般若心経も、それなりに味わいはあるのだが、ここではややそぐわないので、普通の言葉に書き改め、多少わたしが加筆訂正してみよう。

・・・

【超・超訳 般若心経】

とても楽になれる方法を知りたいか?
誰でも幸せに生きる方法のヒントだ。
もっと力を抜いて楽になれ。
苦しみも辛さも、全てはいい加減な幻だ、安心しろ。

この世は空しいものだ、
痛みも悲しみも、実は最初から空っぽなのだ。

この世は変わり行くものだ。
だから苦を楽に変える事だって出来る。

汚れることもあれば、背負い込む事だってある。
だから抱え込んだものを捨ててしまう事も出来るはずだ。

こちらから見れば白でも、あちらから見れば黒だ。
肩ひじ張るな。
正義なんてハナからない。すべて相対的なものだからだ

この世がどれだけいい加減か分ったか?
苦しみとか病とか、そんなものにこだわるな。

見えてるものにとらわれるな。
聞こえるものにしがみつくな。

味や香りなんて人それぞれだ。
何のアテにもなりはしない。

痛いのは生きてるという証だ。
辛ければ、幸せの重さが胸に沁みる。
頭にきたら、それはなにかの気づきだと思え。
悲しいときは、また一つ大切な思い出ができたと感謝しろ。

揺らぐ心にこだわっては駄目だ。
それが『無』ということだ。
生きていれば、それは色々ある。

嫌なものを見ないようにするのは難しい。
しかし、そんなもの、さっさとその場に置いていけ。

先の事は誰にも見えない。
無理して照らそうとしなくていい。
見えない事を愉(たの)しめばいい。
それが生きてる実感ということだ。

正しく生きるのは確かに難しいかもしれない。
しかし、明るく生きるのは誰にだって出来る。
過ちを犯しても、うまくいかなくても、そんなものはおまえが明るければみんな帳消しになる。

菩薩(真に生きている者、悟りを求めている人)として生きるには、コツがある。

苦しんで生きる必要などない。
愉しんで生きる菩薩になれ。

全く恐れを知らなくなったら、ロクな事にならないが。
適度な恐怖だって生きていくのに役立つものだからだ。

花はそこに意味があるから咲いている。
それが何かは、結局わからなくたっていい。
意味があると知っていさえすれば、十分だ。

勘違いするな。
非情になれって言っているのではない。
思い切り夢を見ろ、空想を広げろ、慈悲の心を忘れるな。
それができりゃ涅槃(ねはん=悟りの境地)はどこにだってある。

生き方は何も変わらない、ただ受け止め方が変わるのだ。
心の余裕を持てば、誰でもブッダ(覚者)になれる。

この般若(はんにゃ=至高の智慧)を覚えておけ。短い言葉だ。

意味など知らなくていい、細かいことはいいのだ。
苦しみが小さくなったらそれで上等だろう。

嘘もデタラメも、全て認めてしまえば苦しみは無くなる、そういうものなのだ。
今までの長い前置きは、全部すっかり忘れてもいい。
でも、これだけは覚えておけ。

気が向いたら呟(つぶや)いてみろ。
心の中で唱えるだけでもいい。

『ギャーテー、ギャーテー、ハーラーギャーテー。
ハラソーギャーテー、ボージーソワカー。』

心配するな。
そうだ、おまえは大丈夫だ。

・・・

おそらく、本職の僧侶が訳したものが原文なのだと思うが、一般人の手によるものだとしたら、たいしたものだ。

こういうものにたいし、専門に般若心経を研究してる(らしい)物知り屋が、ネット上で批判しているのを見て、つくづくわたしは不快になったものだ。

その「専門家」は、この誰が書いたかわからない『超訳 般若心経』をさんざんこきおろしていた。

「ぜんぜん、般若心経を理解していない。」と言い、ご本人の「学識の豊かさ」を披露して、「超訳」を一言一句、「ここは理解がちゃんとできていない。ここは解釈が間違っている」ときたものだ。私に言わせれば、こういう専門家こそが、「論語読みの、論語知らず」という。「へええ、面白いじゃないか」と笑って受け止める器量すらないのだ。

かつてドイツの詩人ライナー・マリア・リルケが、世のキリスト教徒のことを「イエスは、あっちを指差したのに、みんなはそれを見ないで、どういうわけかイエスの指先をぺろぺろ舌で一生懸命になめてばかりいる。」という、あの心の底からの慨嘆と同じだ。専門家というのは、えてして同じように観自在菩薩(般若心経の話者)の指先をぺろぺろ舐めているだけで、観自在菩薩の伝えようとした心を、読み取れていないものだ。

さてさて、禅問答に話を戻そう。

過去、わたしが知り合った僧侶たちや、それこそ一般人たちから、禅問答「もどき」ながらも、妙に心に残る話を聞いたことが多々ある。覚えているのを、書き連ねてみようとおもう。

卑近なところでは、亡父がその「もどき」のような話をよくしてくれた。

・・・

【選択】

「お前がこの先生きていくうちには、何度も選択の岐路にさしかかるだろう。一つは、安易な道だ。もう一つは、難しそうな道だ。お前はどちらを選ぶ。」
「楽なほうを選ぶ」
すると亡父は、呵々と笑って、「そうか。お前は迷わず、難しいほうを選べ。」
「どうして?」
「安易な道は、誰もがそう思うから、その道を行く人は沢山いる。競争が激しい。試験で言えば、たった一点差でお前は敗者になる。こんなに悔しいことはない。実力というより、ほとんどそのときの運で勝敗が決まってしまうことも多いはずだ。しかし、難しい道は、行く人がほとんどいない。競争が少ないのだ。だから、お前が少し努力するだけで、楽勝する可能性が高い。選択に直面したら、問答無用で困難な選択のほうを取れ。」

・・・

亡父が遺した言葉は数多いのだが、多くはある意味、処世術的なものだ。だからここで書いている、『無心』というテーマからはちょっと外れているが、ご愛敬と思って読んでいただこう。

たとえば、こんなこともよく言っていた。

・・・

【出世】
「お前が将来、日頃の努力を積み重ねた結果、うまくいって、だんだんとだが出世していったとしよう。しかし勘違いするな。お前が偉くなったのではない。」
「上の人が偉くしてくれたんでしょ、きっと。」
「違う、上の人はただ受け入れただけだ。」
「誰が、ぼくを偉くさせたの?」
「お前の周囲や、お前の下にいる人たちだ。みんながお前を押し上げたのだ。上はただ、それを認めただけのことだ。」

・・・

ときに、こんな詩的なことも言っていた。

・・・

【悲しみ】

「人はなぜ泣くんだと思う? 記憶の蓄積があるからだ。悲しいからではない。もちろん、失えば悲しい。しかし沢山の思いだが残っている。すべてを失ったわけではない。だから涙は、数え切れないほどの記憶を残してくれたことへの、感謝だと思え。」

・・・

こういった、今では亡き父親が遺していった黄金色に輝く言葉たちが、彼自身のオリジナルであるかどうかはわからない。彼も、聞かされた話だったかもしれない。

しかし、文化というものは、こうした家族や上司・部下、あるいは先輩・後輩という、たった二人の間に存在する、およそこの世界の最小単位の「社会」で細々と伝えられていくものなのだ。

最後に、わたし自身が、何度か僧侶や一般人から聞かされた話を列挙して終わろうと思う。どれも、おそらく30年前、ものによると40年以上前に聴いた話である。禅問答「もどき」の類だ。

・・・

【風鈴】
「ここに風鈴が鳴っている。」
「美しい音色です。」
「ここに風が流れている。」
「とてもよい心地です。」
「さて、それでは何が風鈴を鳴らしているのか?」
「風でしょう。」
「風はただそこに流れているだけだ。」
「では、風鈴自体でしょう。」
「風鈴はただそこに在るだけだ。」
「では、なにが風鈴を鳴らしているのですか?」
「おまえの心だ。聴こうと思わなければ、何も鳴ってなどいないのだ。」

・・・

【死に絶えるもの】
「瞳がまばたきする間に、蝋燭(ろうそく)の灯は消えてしまいます。肉体はいつかは滅びます。」
「太陽は死ぬか?」
「死にはしませんが、しかし、夜は輝きません。」
「輝いているさ。どこかでな。お前が見ていないだけだ。この世に死に絶えるものなど何一つない。」

・・・

【阿弥陀】
「どんなに修行をしても、わたしにはなかなか悟りを得られません。」
「おまえが阿弥陀になるのではない。阿弥陀のほうからやってくるのだ。」

・・・

【森で木が倒れる】
「けっして自分を偽るな。飾り立てようとするな。森で木が倒れる。森の大きさとざわめきの中で、人の耳には聞こえない。しかし、木は倒れるのだ。」

・・・

【調和】
「わたしはもう誰も信じることができません。」
「人の心には善と悪と両方がある。信じるとは、その人の善い心を励ますことだ。それによっておまえは、もっと素晴らしいものを手に入れることができる。」
「それは何ですか?」
「愛だ。」
「愛とは何ですか?」
「それは調和だ。響き合うことだ。」

・・・

梅雨に入りました。降り込められる一日、こんな物でも読んで、ふと自分の一日の行間を垣間見てはどうだろうか。



文学・芸術