幕臣ここにあり~選良とはなにか?

文学・芸術

これは168回目。官僚は、どういうわけか日本では選良(エリート)ということになっています。本当に今の官僚はそうなのでしょうか。そう思うとき、わたしにはふと一人の幕吏のことを思い浮かべます。

:::

ともすると、明治維新というのは、勝者、つまり討幕側の視点で語られることが多い。ここ20年くらいであろうか、ややそのバランスを欠いた歴史観も修正されつつあるように思う。

わたしも、若い頃はひたすら薩長土肥、そして水戸などの過激派・革命派の系譜ばかりに、血湧き肉躍らせたものだが、年齢もかなりいってから、どうも彼らはただのゲバルトではないかという、醒めた目で見るようになった。

反対に興味が沸いていったのは、幕臣のほうである。小栗忠順(ただまさ)、河合継之助(つぎのすけ)など、わずかに知られてくるようにはなったものの、まだまだといったところだ。せいぜい、討幕側に通じていた勝海舟がやたらと幕臣では評価が高かったわけだが、これも討幕史観の延長上にあるにすぎない。

薩長同盟は、基本的に英国のバックアップで討幕を果たしたわけだが、まかり間違えば、英国など西欧列強の半植民地になりかねない危うさを伴った「暴挙」だったといってもいい(それにはっきりと激しく抵抗したのは、高杉晋作くらいである)。外国勢力の実力を背景に、国内で奪権闘争と陰謀・テロを行うという手法自体は、当時の中国や朝鮮と、討幕派の政局認識もさして変わらない。

それに比べ、腐りきった幕府の中にあって、きわめて正論を通し、現実的・合理的な政策判断を推し進めていた幕臣たちも、けして少なくはなかったのだ。徳川幕府崩壊によって、彼らの事績のことごとくが闇に葬られ、あたかも、薩長=善玉、幕府=悪玉といったような一方的な歴史観が、明治維新とともに「正史」となり、戦後も通じてこの風潮が主流であり続けた。

幕臣に、川路聖謨(かわじとしあきら)という、おそらく幕末にあってはトップクラスの人物がいた。この男のことを書く。大佛次郎(おさらぎじろう)の大著・「天皇の世紀」でも、前半、詳しく幕府の対ペリー交渉が綴られているが、頻繁に出てくるのが、川路聖謨の名である。

豊後(大分県)は日田の代官所の役人の息子として生まれた。生活は極貧であったらしい。両親の極めて厳格な教育を受けて育つ。後年、弟の井上清直(外国奉行、勘定奉行)とともに、両親の愛情と苦労を偲んで二人して泣いたという。

川路は、それこそまれに見る才幹を示し、驚くような出世街道をまっしぐらに歩んでいった。しかし、その一日の日課たるや、ほとんど超人といってもよいくらいだった。

午前二時に起きて執筆、読書をし、夜が白んでくると庭に出て、刀の素振りと槍の「すごき」を平均二千回行う。その後来客の相手をし、午前十時に江戸城に登城、午後五時まで勤務する。この時代の役人の勤務は普通十時から二時までだった。

家に戻るとすでに客が待ち構えているので、一緒に晩飯を食べながら話を聞く。酒は飲んだが一合までで、それ以上は絶対に飲まない。客の応接が済むのが午後十時頃で、それからまた執筆、読書をして十二時に寝る。睡眠時間はわずか二時間、気が張っていたため平気だったといわれている。

鉱山従事者や、一般の貧民の生活惨状について、細かい記録を書き残しており、その生活救済に尽力するなど、官吏としておよそルーティーンワークに堕することなく、積極的に職務を遂行していたことがうかがわれる。

勘定吟味役、佐渡奉行、小普請奉行、大阪町奉行、奈良奉行、勘定奉行と、数々の要職を歴任。とにかくできる男だった。引っ張りだことはこのことだ。

天保11年、1840年、天保の大飢饉により全国規模で一揆が頻発する中、佐渡において大規模な一揆が発生し奉行所や豪農の屋敷が襲撃を受ける事態に発展していた。

この事態を収拾すべく老中首座・水野忠邦は川路を佐渡奉行に抜擢。佐渡に赴任した川路は自ら率先して倹約、綱紀粛正、人材登用を実施し、1年の任期の間一定の成果を上げて帰還。

小普請奉行のときには、江戸城や徳川家の菩提寺の修繕を司る役職で、業務遂行に当たり、川路は部下への丸投げをせず、自ら現場に赴いて不正や手抜き工事が無いか監督。出費を出来るだけ抑えることで成果を上げた。

奈良奉行に転任した川路は、領内で問題となっていた賭博や少年犯罪を取り締まる一方で、再犯を犯さないよう熱心に説諭したり、取調べ中の拷問をなるべく行わないようにするなど硬軟織り交ぜた方策で対処に当たった。また、役人が点数稼ぎに入牢者を多くしたりすることを改めさせ、裁判の迅速化を行った結果、奉行所の事務処理能力が大幅に向上した。

その他、貧民の救済のための基金設立、地場産業の育成、植林の振興、学問普及の為の褒賞などの施策を実行に移し、約6年間の任期で目覚しい実績を上げた。ちなみに、奈良奉行のときには、天皇家のために奔走して、神武天皇陵の特定まで行っている。

ちなみに、この奈良奉行時代、宝蔵院に子息を入門させたばかりではなく、本人も通って、宝蔵院流槍術を修行した。『宮本武蔵』で有名な「槍の宝蔵院」である。

川路聖謨の名を歴史の一頁に刻むこととなったのは、その後である。江戸町奉行並びに勘定奉行に就任していたとき、老中・阿部正弘によって、海岸防御御用掛(海防御用掛)に抜擢された。嘉永6年、1853年のことである。

嘉永6年といえば、言うまでもない、黒船来航である。このとき、意見を求められた川路は、強硬に「祖法を翻し、開国」を主張。しかし幕府はこのとき、回答を避け、後日また交渉するという逃げを打ち、ペリーはいったん退去した。

その半年後、こんどはロシアがやってきた。プチャーチンの来日である。プチャーチンは、かねてから英国などの清国への進出を憂え、ロシアもアジアとの通商を始めるべきだという持論を持っていた。

ロシア皇帝ニコライ1世の支持を得、プチャーチンは苦労して日本訪問にこぎつけた。ニコライ1世から「あくまで平和的な交渉をするように」と厳命されていたこともあり、プチャーチンは、ペリーのようにいきなり江戸湾に入るような乱暴をせず、日本政府の公式な外国交渉窓口であった長崎に入港。

万事、紳士的なプチャーチンのやり方は、幕府側も多少とも気を許したようだ。もっともクリミア戦争勃発のため、いったんプチャーチンは上海に退去している。翌年7月から、再び日本側と交渉が始まったが、このときの全権が川路聖謨だった。

川路のほうも、プチャーチンのスタンスに大変好感を持った、ペリーのような武力を背景とした恫喝的な態度と違い、紳士的で日本の国情を尊重して交渉を進めようとしているプチャーチンを気に入ったようだ。

しかし交渉は交渉である。丁々発止の論争が行われている。ロシア側が老中の公文書を引用して日本に通商の意思ありと指摘。これに対し、川路は即座に反論。逆にゴローニンの著書を引用して見せ、択捉島が日本の領土であることを主張。ロシア側の要求を巧みにかわしている。

一方、プチャーチンのほうも、皇帝への報告書の中で、川路について、「「鋭敏な思考を持ち、紳士的態度は教養あるヨーロッパ人と変わらない一流の人物」と評している。

二人は下田で計6回に渡り会談した。交渉はまとまらなかったが、将来日本が他国と通商条約を締結した場合にはロシアにも同一の条件の待遇を与える事などで合意した。

ロシア側は川路の人柄に魅せられて、その写真をとろうとしたが、川路は「私のような醜男(ぶおとこ)を日本人の顔の代表と思われては困る」と発言し彼らを笑わせた。

この時、プチャーチンに随行していたイワン・ゴンチャロフは次のように書いている。

「川路を私達はみな気に入っていた。・・・川路は非常に聡明であった。彼は私たちを反駁する巧妙な弁論をもって知性を閃かせたものの、それでもこの人を尊敬しないわけにはゆかなかった。彼の一言一句、一瞥、それに物腰までが、すべて良識と、機知と、炯眼(けいがん)と、練達を顕していた。明知はどこへ行っても同じである。」

プチャーチンは帰国後に「日本の川路という官僚は、ヨーロッパでも珍しいほどのウィットと知性を備えた人物であった」とも書いている。

ちょうど、この交渉直後に安政大地震が起きており、津波によってプチャーチンらのディアナ号は大破、死傷者が多数出た。しかし、一方でロシア側は波にさらわれた日本の村民の救助も行っており、川路ら幕府側代表たちに深い感銘を与えている。

幕府は、西伊豆の戸田(へた)に回航し、そこで修理するようにと便宜を図ったので、プチャーチンたちは伊豆半島を西へ回航したのだが、運悪くシケに遭い、沈没。こんどは、日本人村民たちがロシア人たちを全員救助している。

彼らは戸田に滞在し、日本人を指導しながら突貫工事で代船を建造。プチャーチンは「ヘダ号」と名づけている。このとき、中断していた交渉がまとまり、ついに日露和親条約が締結されている。

この間に、吉田松陰のペリー艦隊への密航事件が発生している。それを教唆したのは、師の佐久間象山であるということで、松陰(自首)のほかに、象山も逮捕された。

江戸町奉行所では国禁を犯したということで、死罪も検討されていたが、佐久間と親交のあった川路が阿部正弘に軽い処分で済むように直訴した。この結果、阿部の横槍が入り結果的に、象山も松陰も二人とも死罪を免れている。(後年、幕府内の政権交代で、井伊直弼大老就任により、安政の大獄が断行。松陰は蟄居していた萩からわざわざ引きずり出されて処刑されたことは、ご存知の通り。)

川路は幕臣であるが、非常に交流が広く、佐久間象山のほか、間宮林蔵、藤田東湖、江川太郎左衛門(英龍)、渡辺崋山らと親交が深かった。

その意味では、勝海舟と通じるものがあるが、勝が幕府などくそくらえと思っていたのに対し、川路は最後まで幕府に殉じたという点で、決定的に異なる。その上、川路は人の悪口を言わなかった。勝は、さんざん明治に入ってから、言いたい放題で、川路のことを「あれは、成り上がりの最たるものだからね、こすい男だったよ」とさんざんな物言いである。あまり、わたしはこういうのは、好きではない。人品が疑われる。

1858年、安政5年にプチャーチンは再び来日。こんどは神奈川に入港。芝愛宕下の真福寺に滞在し、ここで日本側と交渉をおこなった。

再び激論が交わされた。北方領土交渉についてである。はじめプチャーチンは、「択捉(エトロフ)島までは日本領で、以北の諸島はロシア領。樺太は全てロシア領である」と主張したが、川路が日本側の樺太調査の歴史を紹介して反論し、結果的には択捉島までが日本領で、樺太については国境を画定しないことで合意。

ここで、初めて、日本とロシアの北方領土は樺太を除いて「確定」したのである。・日露修好通商条約の締結だ。このときプチャーチンは、江戸城で将軍家の世子徳川慶福(後の将軍・家茂)に謁見し、本国に帰国している。

川路は、難敵・アメリカとの交渉も行っていた。本人が上洛して、朝廷から日米修好通商条約の承認を得ようとしたが、失敗。その為、弟の井上清直が、朝廷の承認が無いままに、独断で米総領事タウンゼント・ハリスと調印を強行している。

このとき川路の弟・井上清直は、同僚の岩瀬忠震とともにハリスと談判したが、大老・井伊直弼に、「やむを得ない場合は、条約調印をしてよいか」と確認している。井伊は「その場合は致し方ないが、できるだけ引き伸ばすように」と指示している。しかし、井上・岩瀬両名は、ハナから即刻の調印を目指しており、これを「調印許可」とみなして、ハリスの元を訪れると、その日のうちに調印した。

いかにも、開国強硬派である。このことが、天皇の認可を得ていない(川路が天皇の説得に失敗した)ということで、「違勅」とされ、後日、井伊直弼暗殺「桜田門外の変」を引き起こす。川路・井上兄弟は、ある意味、彼らの本意とは事違えたとは言え、明らかに後の革命(維新)へと、一気に歴史の道を開いたことになる。

川路・井上兄弟の本意は、不平等条約であろうとなんであろうと、とにかく当時の国際法に照らしたまともな条約提携関係を成立させることにすべてを賭けることだった。その意味では、討幕側の現状認識からかけ離れた武力による攘夷論など、ほとんど無謀以外のなにものでもなかった。利権と法が、国家の独立を守るのだという信念があったからだ。討幕派が、利権と武力が、国家の独立を守るのだという認識と、百八十度異なる。どちらにも確かに、理はあった。

忘れていけないのは、こうした川路ら有能な幕臣たちが、身命を投げ打って、列強と交渉し続け、曲がりなりにも武力によらない、交渉に基づく外交関係を築いたことによって、日本は当時の中国やアジア諸国と違った運命を辿ることを得たという事実である。

彼らが、維新前にすでに列強との間に、「まともな」条約関係を築いていたからこそ(条約を結ぶということは、独立を認めるということである)、維新政府はこれを継承する形で、内乱にもかかわらず、列強の直接武力介入を回避できたのである。

このとき、川路らのような硬骨漢が幕臣に揃っていなかったら、討幕や明治維新どころではない。たちどころに、半植民地になっていたであろうことは疑いない。ぎりぎりの水際で、一片の領土の割譲も治外法権租界も許すことなく日本国の国権を承認させた川路たち幕臣たちの踏ん張りが、日本を維新後の独立国家へと導いたことは誰も否定できないだろう。このことを、従来の討幕史観というものは、軽く見すぎているのである。

その後、川路を推していた老中・阿部正弘が急死。井伊直弼が大老として登場してくると、いわゆる一橋派(後の将軍・徳川慶喜)と目されていたこともあって左遷。不遇をかこった。

井伊直弼も、断固たる開国派であったが、政治と派閥というものは、どうしてもこういうときに有能な人材を切り捨ててしまうことになる。井伊はご存知のように、苛烈な討幕派浪士の弾圧に乗り出し、安政の大獄で有為の人材を抹殺することになる。

川路は、文久3年、1863年には勘定奉行格・外国奉行に復帰させられるが、名ばかりで、ほとんど慶喜関係の御用聞きのような役回りばかりだったようだ。これが非常に不満で、病気だと言って、4ヶ月で辞任。

嫌気がさして引退したわけだが、怒りが高じたのだろうか、脳卒中で倒れ、半身不随となる。信頼していた弟の井上清直も死ぬなど、不幸続きとなった。

慶応4年、1868年、官軍の江戸総攻撃の予定日だった3月15日、割腹の上、ピストルで喉を打ち抜いて自決した。享年68。記録に残っている限り、日本のピストル自殺第一号である。

その日、勝海舟と西郷隆盛との会談で、江戸城の無血開城が決定したことを知らず、川路は逝った。

一説には、半身不随のため、戦の足でまといになることを恥じたとも。また一説には、実は江戸開城の報を知っており、滅び行く幕府に殉じたとも。また、ピストルを最終的に用いたのは、半身不随のため、刀ではうまく死ねないと判断したからだろうとも言われる。

かねてからの愛読書に、山田風太郎の「人間臨終図鑑」という連作がある。その中の川路聖謨の章では、次のように書かれてある。

「彼は、要職を歴任したとはいうものの、べつに閣老に列したわけでもなく、かつ生涯、柔軟・諧謔の性格を失わなかったのに、みごとに幕府と武士道に殉じたのである。徳川武士の最後の花ともいうべき凄絶な死に方であった。」

思い返せば、その後明治維新以降、日本とロシアはきわめて不幸な戦争をし、その後もソ連との間には、けして記憶から拭うことのできない悪夢も経験してきた。が、もし時計の針を戻すことができれば、日露の親睦関係というものを持続させられなかったであろうか。

川路らがプチャーチンと交渉していたころ、そしてそのロシアへの親近感というものがまだ生きていた明治序盤のころ、さらにロシアが共産主義によって粗暴極まりない国家になる前のあの頃、まだ日露戦争を回避する道はあったのかもしれない。

日露戦争の回避があれば、そもそもロシア革命が起こらなかったかもしれない。ましてや日中戦争もかなりの確率で避けられていた可能性が高い。

討幕、維新、富国強兵、世界大戦と、ひたすら坂の上の雲を追い求めるだけが、国家の歴史ではあるまい。川路らが選択しようとしたシナリオの先には、別の選択肢もあったのではないか、とそう思う。

余談だが、プチャーチンはロシアへ帰国後、日本と条約を結んだ功績により、1859年に伯爵に叙され、海軍大将・元帥に栄進。1861年には教育大臣に任命されるが、大学を中心とする学生運動や革命運動を弾圧したために、政治家としての評判は芳しくないようだ。

1881年、明治14年には、日露友好に貢献した功績によって、日本政府から勲一等旭日章が贈られている。2年後に死去。80歳であった。日清戦争の9年前のことである。日露戦争より遥か前に亡くなっていたことは、むしろ幸いかもしれない。

プチャーチンの死から4年後、孫娘のオリガ・プチャーチナ女伯(ロシア皇后付名誉女官)が伊豆・戸田村を訪ね、プチャーチンの遺言により、当時の村民の好意に感謝して、100ルーブルの寄付をしている。

今の日本の官僚には、川路のような気骨があるだろうか。そう信じよう。



文学・芸術