日本語はどこから来た?

文学・芸術

これは182回目。これまで日本人のルーツを書いたことがありました。その続編のようなものです。ポイントは、日本では文化といえば、なんでもかんでも大陸から朝鮮半島経由で入ってきたという「常識」ばかりがまかり通っていますので、これはやはり考えなおしたほうがいいだろう、とそう思うのですが。いかがでしょう。

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たとえば、唐辛子だが、まるで朝鮮半島の独壇場のように思われているが、ありえないのだ。なぜなら、唐辛子は南方原産である。いつ、朝鮮半島に現在の唐辛子が入ってきたかというと、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時だと言われている。日本軍が、負傷・食中毒の滅菌薬として使用していたのが、朝鮮半島で定着していったという。17世紀である。このへんは以前もNOTEで書いたような気がする。

実際、キムチのような朝鮮半島の代表的料理が、記録としてレシピが確認される最古のものが、1766年に刊行された農業書「増補山林経済」だ。キムチ(それまでは白キムチ)に初めて唐辛子が使用された例が紹介されている。これが確認できる最古の例である。18世紀であるから、意外にキムチの歴史は浅いのである。

ことほと作用に、先入観や定説というのは、まず疑ってかかる必要がある。

日本語というものは、他民族の重層構造で成り立っているだろうということは容易にわかるので、大陸発朝鮮半島経由の文化伝播というものを、否定するものではない。が、それ以前に、原初の段階では南方からのほうが圧倒的に多いのである。

それは、黒潮という文化伝播のスーパーハイウェイがあるからだ、荒れる東シナ海を超えるのは、大変危険である。実際欧州からの梅毒の感染経路は、明確に大陸伝播より、海路を伝播したほうが早かったことが、立証されている。

言葉もそうである。人間の移動であるから、大陸からより南方からの方が速かったはずなのだ。

遺伝子的には、これまでNOTEでも取り上げて書いてきたが、縄文人が日本人の祖先であるとして、このDNAはアイヌ人が一番近く、ついで琉球人が近い。そしてその次に位置している近似値は、本土人、いわゆる本州を中心とした現在の日本人である。

実は、このDNAは、アイヌ人、琉球人、本土人の違いに関していえば、ほとんど誤差の範囲でしかない。要するに同じ種だということが言える。

とくに重要なのは、人類発祥の段階までさかのぼった場合、もっとも古い男系のDNAのタイプが、このアイヌ人・琉球人・日本人にはあるということだ。アジアではこの、最古の部類の男系のDNAタイプは、チベットと、インド洋沖のアンダマン諸島にしかない。それと日本だけなのである。朝鮮半島・中国大陸には、ほぼ皆無といっていい。つまり、日本人と朝鮮・大陸人は、まったく種が違うということを意味している。

さて、遺伝子的にはそうなのだが、そうはいっても大陸からも、たくさんの弥生人(多くは、朝鮮半島ではなく、沿海州・満洲、モンゴル、さらに以北地域)が流入してきたのは間違いない。

漢民族も朝鮮民族も確かに入ってきていた。彼らが漢字なども伝えられたことは事実だろう。しかし、それ以前に、日本には「やまとことば」が存在していたわけで、これも、南方、それもさまざまな南方種族の渡来があったから、一様ではない。ただ、はっきりしていることは、漢字が入るより前に、日本語の祖型がすでに形成されていたという事実である。

かなり時代が下ってからも、非漢民族・非朝鮮民族とはまったく違う文化の影響を受けている部分がある。それが、以前ここでも書いた、ひらがな・かたかなである。あたかも、これが漢字を書きくずしてつくられたという、定説がまかり通っているのだが、ヘブライ語(ユダヤ語)のそれと比べたら、同じ発音の文字を並べたとき、まるで同じであることが、素人でもわかる。

その一致は、偶然の一致にしては、あまりにも多すぎるのだ。とりわけ、八幡・稲荷など、日本にあっては圧倒的に多い神社というものは、このユダヤ人(おそらくは、ネストリウス派の原始キリスト教集団)がもたらしたものであり、ひらがな・かたかなも彼らの伝播によるものだろうと、推察されるわけである。漢字を取り崩してつくられたというのは、後講釈でそうなされただけだという可能性が高い。

さらに、原始日本語(漢字伝来以前)が、南方から渡来したものであろうという仮説に関して、このNOTEでも書いているので、覚えておられる方も多いだろう。驚くべき一致点が多いのだ。

そこで、今回はさらに、その南方語との一致点・類似点を書き連ねてみようと思う。過去紹介したものは、できるだけ重複しないようにしようと思っている。

ちなみに、ここで言う南方語というものは、モン・クメール語(現在のカンボジア語)、マレー・インドネシア語、タイ語、ベトナム語、シャン語、ビルマ語などである。

また日本語の中でも南方かどうか、という点でいろいろ意見がある。一般的に、琉球語というものは日本語である、という前提にたってものをいうことが多いので、どうしても日本本土から琉球に言葉が普及していったと思いがちである。が、話はあべこべである。

琉球が先なのだ。琉球から日本列島に「日本語の祖型」が拡大していったと考えるのが妥当なのだ。その意味で、琉球語が、原初日本語に近いのであって、その後の本州の日本語は、その亜流にすぎないことになる。

なぜ、琉球語と本州日本語とではかなり違いがでてきたのかというと、その後大陸からやってきた弥生人たちによって、文化が混濁したためである。琉球には、とくに大陸北方のツングース系の言語が、まったく流入していないので、原初の形のまま残ったと考えられる。

アイヌはアイヌで、話は別なのだが、これはまたの機会に書こうと思う。いずれにしろ、文化は、南から北へと伝播したのだ。ちなみに、アイヌは、琉球と遺伝子が非常に近いものの、おそらくさらに北方から古代に入ってきた公算が高い。つまり、琉球と同じく、最古の人類の男系DNAを持っている別の集団が、北から入ってきた可能性が高いのである。)だから、言語形態が、現在の日本語や琉球語とは違うのである。

琉球語は、日本語の母語であるから、同じ系統なのだが、アイヌ語は、日本語とはまったく共通項が無い。骨相学的にも、コーカソイド(白人)系の形質が多くみられ、日本人とはその意味では違う。が、遺伝子的には、どちらも人類最古の男系DNAを持っているという点で、唯一の、そして決定的な共通項があるというのが、ミステリーである。

残念ながら、アイヌ語はほぼ絶滅に瀕している言語であり、大変残念でならない。残ったアイヌ人を中心に、残そうとする努力も行われているが、なにしろ人口が少ないので、どうにもならないようだ。

アイヌのことは、また別に書くとして、ここでは南方語である。漁労民族学の側面から、古代日本に入ってきた南方人の典型は、原マレー人と、モン・クメール人であるという仮説がある。

たとえば、古代日本人の宗像系海人族と、綿津見系海人族だが、前者は原マレー人、後者はモン・クメール人であるというのだ。潜水漁と突漁の違いということらしいが、ただこの二種は、フィリピン、台湾、琉球と経て日本本土に流入してくる数千年の間に、かなり混交しているであろうから、一概にばっさり分けることも危険である。

重要な点は、それぞれがばらばらにやってきて、最終的に日本本土で混交したというよりも、渡来の過程で、どんどん混交を進めていった可能性のほうが高いのである。

この後入ってきたと推察される、ビルマ・チベット人や、安南人(ベトナム人)、タイ人などもそうである。純粋な形で日本に渡来したケースはむしろ少なかったのではないか、と思われる。

この原初日本人というものは、「いれずみ」という特殊な風習を持っていた。奈良朝時代にはすでに亡くなっていたが、古事記その他には、古代日本人にあったこの「いれずみ」を奇怪な風習のことが、克明に解説されている。そして、当時、この「いれずみ」のことを「目割(まさき)」と呼んでいた。

この「マサキ」あるいは「サキ」「サク」だが、南アジアは、なんとマダガスカルにいたるまで、広範囲に共通語として使われている言葉で、まさに「いれずみ」のことである。囚人に課す刑罰以外、朝鮮民族や漢民族には、一般的に「いれずみ」を施したような風習は無い。(お歯黒も、南方由来の習俗である。大陸には無い)

この古代南方渡来人の、衣服に関しても、日本化したものに決定的なものがある。今ではほぼ絶滅してしまったが、男の「ふんどし」と女の「腰巻」である。この二つは、現在でも南方アジアから、南洋島嶼民族に一般的にみられる衣装風俗である。

この二つが、大陸漢民族や朝鮮民族には皆無であったことからしても、日本人とはまったくの異人種であるということがわかる。

住居に関しても、決定的に日本が南方系であることを示すものがある。「千木(ちぎ)」である。今では一般的な住居、古い農家でもこれはなくなってきているが、未だに残っているものとしてわれわれが現実に見ることができるのが、神社である。

千木(ちぎ)は、千木は屋根の両端で交叉させた部材である。南方では、未だに一般的にこの建築様式が用いられているが、古来から現在まで、漢民族・朝鮮民族には皆無である。

装飾品でも決定的なものがある。「勾玉(まがたま)」である。古代中国の装飾品には、玉(ぎょく)はあるが、日本のような勾玉はいまだに一つも見つかっていない。おまけに中国の玉は、軟玉だ。日本の勾玉は硬玉である。この硬玉は、アジアではビルマ、雲南、チベットにあり、中国や日本には原産されていないのである。ビルマやチベットから、古代に南方経由で渡来した人たちが持ち込んだとしか、考えられないではないか。

ちなみに、「曲がる」という言葉は、クメール語では、「マンカンで」ある。ビルマ語系の山岳カチン族語では、「マガ」である。

そして、モン語では、石のことを、「トマー」と呼び、クメール語では「タマ」である。つまり、「勾玉」というのは、(クメール語では、マンカン・タマ)「曲がったタマ」という意味になる。

発音という観点でも面白い指摘がある。平安朝時代、まだ日本語が統一されいたかどうかも、はっきりしない状態の中で、各地には何百・何千という方言というものが存在していたと推察される。もともとは、南方人や大陸から来た人たちが、それぞれ母語としてつかっていたものが、混交していったものの、それでもまだ一つの言語にはまとまっていなかったのであろう。

言語学者の研究では、平安朝時代、なんと日本には当時87の発音があったという。しかし、その後統一化されていった日本語において、もし朝鮮・漢民族系が支配階級であり、多数派であり、文化の主流であったとするならば、なぜ現在、韓国人・朝鮮人や中国人は、「濁音」が発音しにくいのか、説明がつかない。なぜ日本語は、かくも、濁音が多いのか、まったく説明ができない。

かつて、台湾にいたころ、台湾人のご老人からこんな話をきいた。「わたしは、小学校時代(大日本帝国時代である)、先生(日本人)から、よく注意されたことがある。うどんと言えないのだよ。どうしても、うろんになってしまう。どの発音ができなくて、往生したもんさ。」きわめて流暢な日本語で話されていたが、彼によれば、子供の頃、「うどん」が言えなかったというのだ。

ご老人は、わたしとあったときには、見事にうどんと呼んでいたが、そういう苦労があったらしい。つまり漢民族や朝鮮民族が日本文化の支配者で、主流派だったとしたら、なぜ、日本人はこの濁音が得意なのか、まったく説明がつかないということなのだ。

言語で一番古いものの一つに、男女の性別というものがある。古来、日本ではヲ(オ)と、メである。男(ヲ)と女(メ)だ。

この発音の種別は、漢民族・朝鮮民族にはない。南方語は、ほとんどヲとメである。ビルマのヴュア語では、ヲは男を指し、ミは女を指す。男の子はタヲ、女の子はタミである。この場合、正確には、オではなく、あくまでヲだという点は重要だ。また、メだが、ラオス語、タイ語、ベトナム語は、母という意味になる。ビルマでは、雌犬(めすいぬ)のことは、キブ・メである。

日本では、男の名に、行雄(ユキヲ)や、昭夫(アキヲ)といって、ヲをつけるが、もともとこれはオではなく、ヲである。のちに、オに置き換えられてしまったが、本来はヲである。

東大寺に残る、女奴隷(奴婢)の名前がいくつか確認されているものがあるが、当然姓はなく、名前だけである。それは、鮑目(アワビ・メ)、秋女(アキ・メ)、黒女(クロ・メ)、絹女(キヌ・メ)と、みな女(メ)がついている。

このように、日本語の祖型には、たくさんの南方渡来語が混じっているが、出身地によって、実はばらばらである。先述通り、彼らが混交しながら、渡来してきた可能性が高いので、途中でずいぶんと変化しているかもしれない。

残った言葉と、消えてなくなった言葉もあるはずだ。たとえば、「血(チ)」だが、ベトナム、タイ、あたりでは、チはまったく別の言葉で、ほとんど近似値がないのである。唯一、クメール語だけが、「チム」と言う。

ところが、ちょっとずれて、ビルマに入ると、血はチである。まったく日本語と同じなのである。おそらく、血はビルマ語が日本では定着して残ったということらしい。

これまで、とくに現在の東南アジア諸語と日本語との近似値を比較することが多かったが、冒頭で述べた、遺伝子的にもっとも近い、アンダマン諸島・ニコバル諸島、そしてチベットなどとの言葉の近似値はどうなのか、というと、今回はしょっているものの、実は多いのである。

たとえば、花(ハナ)だが、アンダマン・ニコバル諸島では、もろに「ハナ」と呼ぶ。

最も古い形質の言葉ということでは、実は隠語がもろにそうである。尾籠(びろう)な話で恐縮だが、「おちんちん」のような例である。

なかなかこれは、すごいのだが、なにしろあたりをはばかる言葉ばかりなので、非常識そのものが歩いているようなわたしでも、さすがにここでは書けない。一番面白いのが、女性器の表現の比較であり、これはぶっとんでしまうくらい同じなのだが、一応割愛しておく。

この「ちん」だが、東南アジアから、マダガスカルに至るまで、チン、アチン、チンチン、シンシンといったさまざまな発音で使われている。ただ、なんとなく似ている気はする。一方で、まったく違う系統の表現もあるのだ。「ホコ」に通じたと考えられる、パク、バク、バーク、カンパク、タパク、カパクなどの表現だ。「ハク」「パク」「バク」がどうも共通している。もしかすると、「ホコ」の原型がこれかもしれない。「チン」と呼ぶ種族と、「パク」と呼ぶ種族が混交していくうちに、「ちんぽこ」になっていった可能性もあるが、これは何とも言えない。

ただ、そのものずばりというのもある。古い日本語で、男性器のことを「まら」と呼んだ。今では死語だが、現在のマレー人はいまだに「マラウ」と呼んでいる。

時間に関する概念も、古代日本語と南方語は近似値がある。時間帯の一番基本語は、朝と夕である。ちなみに、古代日本語では、夕は「ユプ」「ユフ」と呼んでいた。

次は朝だ。チベット・ビルマ語系のカリ・ナガ語では、アサンである。夕のほうは、クメール語のユプ、サンタリ語のアユプ。

気象天候の基本語の一つ「雨」はどうだろうか。琉球語ではアミだが、アンダマン・ニコバル語でもアミである。

農業関係でもある。沢(サワ)と言う言葉は、もともと田んぼのことである。マレー人、ジャワ人はいまでも田んぼのことを「サワ」と呼ぶ。

農業とくれば、虫に話が及ばないわけにいかない。「ムシ」は、クメール語では、そのものずばりで「ムシ」なのである。

文法と言う観点でも、非常に南方語と日本語は似ている点がある。とくに、この文法では、ビルマ語が近い。たとえば、日本語の「あなたの息子」は、ビルマ語の一種、シンポー語で、「ナ(あなた)・ナー(の)・ニンシャ(息子)」と、まったく助詞がついていて、語順も同じである。

しかも、同じくビルマ語の一種、アンガミ語では、「ナ」は日本語の「の」と同じく、「ノ」になっている。つまり、「山田の家」という言葉をアンガミ語で言うと、「ヤマダ・ノ・キ(家)」となるのだ。

この助詞の存在ということでは、韓国語・朝鮮語もそうなのだが、発音が別系統なのだ。ビルマ語のさまざまな方言に残っているものの多くは、「わたしは」の「は」のように、主体につける主格の「は」が、そのもずばり「ハ」なのである。ただ、発音で、日本語が「わ」と言うのに対して、ビルマ方言ではあくまで「ハ」なのである。

もっといえば、方向を示す「~に」の「に」だ。ビルマ方言では、「ここ・に」は、「バゲト・ニ」といい、同じ「二」である。

この助詞という存在自体、驚くべき近似値だが、その使い方によって発音が同じというのは、驚異的である。たとえば、「~を」の「を」だが、「わたしを呼んで」を、ビルマ語方言で言うと、「アン(わたし)・ヲ(を)・ボバイナー(呼べ)」となる。このわたしを意味するアンだが、アだと考えれば、もともと古代日本語は、わたしのことを「ア(吾)」と呼んでいたのだから、まったく同じになってしまう。ほかにもある、「~へ」の「へ」は、ビルマ語方言では、「べ」である。

ここで現代標準ビルマ語ではなく、ビルマ語方言の言葉を多く引用しているが、方言のほうが標準語より、はるかに原初の祖型を残しているからである。

調べれば調べるほど、どんどんあとからあとから近似値が出てくる南方語だが、なかなかこれは近似値の列挙にとどまるので、学界では「とんでも説」として、簡単にかたづけられているのが現状だと、以前も書いた。

人間、一度大陸から文化がやってきたという固定観念と、定説が出来上がると、その弟子、またその弟子と世代が変わっても、この常識を根本からひっくり返す度胸がなかなか出てこないものだ。定説は覆すために存在する。



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