異界への招待

文学・芸術


これは、207回目。夏ですから、定番の幽霊のお話です。

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たとえば山は、娑婆(しゃば)と黄泉の国とを隔てる異界(いかい)だった。異界とは、人間が属するところとは異なる世界のことである。だから、古来、修験者や各種の宗教者は、こぞって山を目指した。しかも、それはつねに娑婆のすぐ隣に存在していたのだ。夜ともなれば娑婆でさえ、漆黒の闇に包まれた。怪というものは、日常に存在していたといってもいい。東日本大震災直後、私たちは省電力の名のもと、夜の街の電灯がちょっと減らされただけで、いかに闇が深いかを改めて思い知らされたはずだ。

いつの頃からか、私たちの社会は山をレジャーの対象と化し、本来、山が持っていた恐るべき異界への入り口だという認識は、希薄になっていった。生死を分ける剣術が、スポーツとしての剣道に変わっていったことと同じである。今、私たちは、かつて祖先が十二分に働かせていた五感を、十分に作動させているだろうか。便利さが、人間がもともと持っていた能力を、逆に退化させてはいないだろうか。

「霊」などという無駄なものには関心を持たない。ある意味、そういう精神的余裕すらなくなっている。見えないものには興味がなく、携帯で他人と始終つながっているようでも、実はそこで自己確認をしているだけのことだ。本当の意味で、他人には興味がない。ましてや、霊性など、あっちの世界である。

だから、死というものに対する認識や覚悟も、昔と違って、浅薄にして物理的な恐怖だけになってきてしまったと言える。死者への畏怖という感情は、相当欠落してしまっているようだ。たとえば、殺人現場に幽霊が出るといったような「不文律」は、いまや一部のマニアや少数派だけの「妄想」となってしまい、一般的な常識ではなくなっている。

しかし、警察でも調書が書けないような例が、ときどき発生している。ある刑事の話では、某所の峠で女が車の前に飛び出すという事例が多発。クレームが相次いだ。刑事は、3人の警官と張り込みをした。予定の時刻に、その女が現れた。4人は、無線で連絡を取り合い、全員が目視確認したところで、一斉に各所から飛び出して包囲した。4人のライトが女の顔を照らす。刑事が「すみません、お嬢さん。この時間にこんなところで、いったい何を・・・」とそこまで言いかけたところで、女はそれこそ煙のように消えてしまった。

4人とも茫然自失である。ライトは4人の顔ばかりを照らしている。そして、「このことはなかったことにしよう」ということになり、調書は書かれなかった。しかも、その場所近辺で、女が自殺、事故死した案件は過去、皆無であったという。4人は後日、自腹で坊さんを呼んで、そこの場所で供養をした。これは、警察関係者の実話である。

いずれにしろ、死者を畏怖するという「不文律」が壊れてしまったことで、現在はかえって不都合なことが発生してきている。殺人の加害者に対する法律が甘いということはともかくとして、昔なら、怨霊が黙ってはいなかった。加害者もそういう意識を持っていた。倫理的、法律的に加害者を追い詰めることができなくとも、怨霊には慄(おのの)くことが普通だった。

犯罪者たちの慄(おのの)きは、自身の罪がなせる幻覚か。それとも彼らは本当になにかを見たのか。そんな実例は、『刑務所の怪談~元刑務官が体験した怪奇事件簿』(坂本敏夫、PHP)にも詳しく書かれている。

日本人が古来、幽霊の物語に認めてきた価値というものは、科学的とか非科学的とかいう切り口ではなかった。もちろん、単なる怖さだけでもなかった。一言で言えば、死者の前では畏(かしこ)まるべきであるという、素朴な直感が背景にあったはずだ。

お寺は、怪談の宝庫だと思われがちだが、そうでもない。全国津々浦々の寺の数に比べて、おそらく怪異を経験している住職は、それほど多くないかもしれない。そうした怪談にめぐり合わせた住職の記録を集めた本が、『実録 お寺の怪談』(高田寅彦著、学習研究社)」である。メガバンクの支店長らが「助けてくれ」と一本の監視ビデオを持参して、お寺に飛び込んできた話。これを始めとして、実名・仮名混在で、ドキュメントが綴られている。

昔から、文豪たちも奇怪な現象に悩まされ、畏怖することがあった。彼らが克明にその事象を記録したものばかり集めた本もある。『新・あの世はあった 文豪たちは見た! ふるえた!』(三浦正雄・矢原秀人著、ヒカルランド)がそれだ。遠藤周作と三浦朱門の同時体験をはじめ、佐藤愛子の20年に及ぶ、一家と霊現象との地獄のような格闘生活。霊的なものを、まったく非科学的と切って捨てていた柴田練三郎や菊池寛の身も凍る恐怖。そのほか宮沢賢治、夏目漱石、新渡戸稲造、南方熊楠、佐藤春夫、小泉八雲、火野葦平、土井晩翠、小山内薫などが登場する。

いずれも、興味本位で恐怖を売りモノにする商業主義の本ではない。きわめて客観的なスタンスで書かれているから、胡散(うさん)臭さは微塵もない。現実的な世界にばかり生きている私たちだが、目に見えない世界に多少なりとも注意を払ってもいい時期にきていると思う。

とはいえ、実際に幽霊など見てみないことにはにわかには信じられないものだ。わたしも48歳になるまでまったく幽霊を間近に目撃するということが無かった。

が、それは突然やってきた。ラジオの周波数が合うのと同じようなものらしい。偶然なのか、必然なのか、その瞬間があったのだ。

恐らく、幽霊を見ない人というのは、見る必要が無いということなのだろう。だからそれでよいのだ。逆に言えば、見る人というのは、それが必要だということなのかもしれない。そう考えれば、見ようが見まいが、それ自体はさして重要な話ではない。

が、どちらの側にせよ、死者に対する畏怖、の気持ちは持ったほうが良い。生きた人間が世界の頂点に立っているのではない、という気持ちは、失くさないほうが良い。生きた人間より怖いものはない、とさえ言うではないか。その増上慢を戒める者は、死した者たち以外に、なにがあろう。

「野暮はおよしよ、粋がいい。おてんとさまが見てらあな。」



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