祟りはあるか~四谷怪談の謎

怪談


これは、231回目。四谷怪談のことを書こうと思います。言わずとしれた、有名な「お岩さま」の話です。かかわる場合、お岩さまにお参りしないと「祟り」があると言われてきました。これを書くにあたっては、わたしはお参りをしていませんが、幸いなことに、於岩稲荷(四谷左門町の寺社二つ)の御朱印をいただき、御影守りもいただいているので、なんとか助かることができるでしょうか? やや不安ですが。

:::

ここに日頃から不思議だと思っている二つの謎がある。

一つは、「お岩さま」と呼ばれる女性は、田宮又左衛門(下級武士)の娘だったが、実在の「岩」という女性は、いわゆる良妻賢母であったとされている。どうも、田宮家では、代々女性は「岩」と名乗っていたようである。だから、複数の「岩」が存在する。

田宮家に婿養子に入った伊右衛門とお岩は、仲睦まじい夫婦だったが、身分が低く貧しかったため、お岩は単身で富裕層の屋敷に奉公に出ていた。

奉公先で岩は身を粉にして働き、近所の稲荷神社に「一日も早く夫と暮らせますように」と参拝を続けていた。真面目な働きぶりが屋敷の主人に評価され、夫伊右衛門は出世の取り計らいを受けることができた。

この結果、夫婦は元通り同居できるようになり、生活も豊かになったという。岩はその後も稲荷を信仰し続け、自宅に社を建立した。この社が地域住民の信仰の対象となり、今も続く田宮神社の元となったのではないかと考えられている。

田宮家の過去帳によれば、二代目伊右衛門の妻で、1636年3月29日に亡くなった女性に「得証院妙念日正大姉」の戒名が贈られているが、この女性が岩であるとされている。

このような経緯の女性が、どういうわけで復讐と怨念の塊のような亡霊として世に知られるようになったのかといえば、劇作家・鶴屋南北が「東海道四谷怪談」を著したからにほかならない。

南北が「東海道四谷怪談」を書き上げたのは、「お岩さま」の死の200年後である。南北が生きた元禄年間に実際に起こった事件をベースに、「お岩さま」を捏造したというのが実際のところのようだ。

なぜ、南北はこの「お岩さま」を選んだのであろうか。ここが一つ目の謎である。これは近年よく言われる解釈だが、南北のような一般人からすれば、武士階級というのは実に不愉快な存在であった。

ともすると歌舞伎などの演目では、この武士階級を揶揄し、侮蔑するような内容が、大ヒットをしたのである。これは江戸市民たちのストレス解消の最大の方法でもあった。

考えられることは、南北がこの「のり」で、しかも武家の良妻賢母の鏡のような女性をモチーフにして、地獄に突き落とし、その周囲の武士階層を恐怖のどん底に陥れる筋立ては、「当たる」と読んだのではないだろうか、というのだ。

これはかなり説得力のある、南北の創作「動機」と言えそうだ。だから、あの「東海道四谷怪談」と実際に歴史に登場したお岩さまとは、まったく縁もゆかりもない話だということになる。

もともとこの「東海道四谷怪談」は、同じ元禄時代、世の中を騒然とさせた「赤穂浪士討ち入り」とセットである。「東海道四谷怪談」は、「赤穂浪士討ち入り」の外伝として創作されている。

元赤穂藩の浅野家家臣で討ち入りを誓った赤穂浪士の一人であったという設定だ。伊右衛門は、お岩さまと親しくなり、討ち入りから脱落。その後は吉良家の家臣・伊藤喜兵衛の孫娘お梅に気に入られて、邪魔になったお岩さまを毒殺しお梅と祝言を挙げてしまう。一方では、旧赤穂藩士が吉良家に討ち入り、復讐を果たす。一方では、お岩さまが亡霊となった伊右衛門を憑り殺し、復讐を果たす。こういう「からみ」になっているのだ。

さて、南北が武士階級を舞台上でさんざんひどい目に遭わせることで、江戸市民の溜飲を下げたというのはわかる。ではもう一つの謎だ。「祟り」である。

このお岩さまにまつわる祟りは、上演当初から延々と現代にまで語り継がれているのだ。一体これはどうしたことだろうか。

大変有名な逸話の一つを、ここで紹介しておこう。撮影現場でセットの柱が倒れたとか、大八車の車輪がひとりでにはずれたとか、そういう話は枚挙にいとまがない。役者の目が腫れたという話はもちろん、撮影中に泊まった旅館で鏡を見たらお岩さんの顔が映っていたとか、そういう話も、ほとんど映画の撮影がおこなわれるたびに記録されてきたが、その類である。

白石加代子さんという舞台女優がいる。昭和41年に、彼女自らお岩役を岩波ホールで演じたことがあった。

上演中の怪異はほかのスタッフたちの身にも起こったが、ここでは主に白石さんほかの出演者のことに絞る。

ある時、彼女はスタッフたちと五人で寿司屋へ入ったが、まずお茶が六人分運ばれて来て、続いてすしも六人分来た。店の人に注意すると、
「あら、もう一人、女性がいらしたんでは ? 」という返事だった。
その後も食べ物屋に入ると、一人分多くお茶や料理を出されるということが何度も起こった。

白石さんの舞台が始まると、いよいよおかしなことが起きた。彼女が幽霊となって宙吊りで飛ぶシーンで、全く覚えがないのに、着物のすそが、ぐっしょりぬれていた。

次に、伊右衛門がお岩さまを裏切って縁組みする伊藤家のお梅役の女優の右手、更に左手が、はれて来たが原因不明だった。

更に、伊右衛門に謀られて、お岩さまに間男(まおとこ)するあんまの宅悦(たくえつ)役の俳優の右の頬がはれて来た。お岩さまの頬のはれと同じ部分だ。そして彼はそれだけでなく、右手をケガして、しかも自転車に乗っている時に転倒する事故を経験した。ただの転倒事故ならば、本人の不注意ということもあろうが、違っていた。

宅悦役の彼が言うには、自転車で走っている時に、突然女の人が飛び出して来た。だが、すぐあたりを見回したにもかかわらず、その女性の姿はどこにもなかった。

また、役者本人直接ではないものの、伊右衛門役の中村扇雀(当時)の付き人のお母さんが、舞台初日の前日に急死するという不幸があった。

すべて一つ一つは、多少不可解なことがあるかもしれないが、偶然や見間違い、勘違い、大げさ、そういった話で済むかもしれない。この種の話で問題なのは、「見た」「聞こえた」といったような事実などではない。タイミングである。それも連続的に発生しているというこのタイミングの集中性というものは、どうにも不可解だ。

白石加代子さんのケースでは、芸人に死亡者は出ていない。「軽い」ほうである。しかし、直撃を受けて死亡した例も多い。その代表的なのが、一龍齋貞山である。

怪談噺(ばなし)を得意として戦前から於岩稲荷の参拝を欠かさなかった貞山は、晩年に「なぜか」その習慣を止めてしまい、幾つかの災難を経た後に脳溢血で倒れてしまう。

当時(昭和41年)、上野の本牧亭では玄関先に真打ちの名前を書いた小田原提灯を吊していたが、その中で「一龍斎貞山」と書かれた提灯だけが風もないのに落ちる。

スタッフが気付いて掛け直しても、いつの間にかまた落ちている。一回の興行のうちに四回も落ちたので、これは尋常ではないという話になった。

このとき貞山の容態が悪化し、彼は息を引き取る。同門の一龍斎貞水の講談では、四度目に提灯が落ちた時に亡くなったとされている。こういう業界であるから、どこまで話を「盛っているか」は不明である。

近年の例では、1980年代、日本の3人組女声コーラス・グループで「シュガー」というのがあった。

このうちモーリ(毛利公子)は、バンド解散後、タレントとしてラジオのリポーターなどを中心に活動。1988年6月に結婚後も仕事を続けていたが、第一子の出産直前に常位胎盤早期剥離による羊水塞栓症を発症し29歳で死去(胎児も死産となった)。

モーリは他の二人とともに、バンド解散直前に、テレビ番組の企画で、それぞれ怪物に扮する仕事があった。モーリが扮したのは、お岩さまだった。

番組中のワンコーナーだったということもあって、業界慣例になっていた於岩稲荷への参拝はしていなかった。

解散後、ラジオ番組で「今、眼帯をつけてるんです。眼の周りが腫れてきてえ・・・」とリスナーに訴えていた。

モーリは以前から交際していた男性と結婚し、第一子を妊娠。子供は順調に育ち、1990年4月16日が出産予定日だったが、直前4月6日に突然気分が悪くなり、日本医科大病院の救命救急センターに搬送されたが、母子ともに死亡。

直接には、羊水が母体に逆流するというケースが死因だったが、あまりにも突然であるのと、その前にお岩さまにまつわるエピソードがあったことから、祟りの例としてよく語られている。

こうした事例は、それこそ南北の初演以来、大変な数に上る。ここで二つの謎がまた生まれる。

一つ目は、どういうわけか、「東海道四谷怪談」を題材にしたあらゆる種類の演目に、かかわった「芸人」たちばかりが、祟られているという事実である。歌舞伎役者、舞台俳優、本業は俳優ではなく、それが歌手であろうと落語家であろうと、この演目を題材としたものにかかわった「芸人が」ことごとく「やられて」いるのである。

そこには、四谷の於岩稲荷に、事前にお参りしなかったからだ、という共通項が存在する。

もう一つの謎である。で、あるとするなら、なぜ、「東海道四谷怪談」創作の張本人である鶴屋南北は(周囲には、さまざまな死亡事件が多発していたにもかかわらず)、74歳まで当時としては大変な長寿を全うしているのか。これはあまりにもおかしい話である。

これはあくまで都市伝説だが、一説によると、「お岩さま」の祟りというものは、鶴屋南北がしかけた「呪い」ではないか、というのがある。

鶴屋南北という人物は、三代目鶴屋南北の娘と結婚したという経緯がある。26歳のときで、恋女房だったようだ。

しかし、まったく目が出なかったのだ。さまざまな劇作家の名人に師事しているが、30年にわたり、下積み生活が続いた。ついに、49歳のときようやく立作者となれた。翌年大ヒットを飛ばしており、8年後の57歳にして、ついに女房の父の名跡を継いで、四代目・鶴屋南北となる。ここから、非常に遅い「大南北」の傑作が世に出て行くことになる。

「東海道四谷怪談」は、「仮名手本忠臣蔵」と合わせて初演されている。二日にわたる長丁場で、それぞれ前半後半に分け、時系列に合わせて上演されたのだ。このとき、鶴屋南北は70歳である。この5年後に南北は死んでいる。

祟りがあったとすれば、真っ先に矢表に立って、即座に死んでもよかったはずの南北が、初演後5年も生きたというのは、納得できない。

この説によると、どうも南北はあまりにも長い下積み時代、才覚ある彼の実力や能力を見いだせず、あるいは知っていたがゆえにチャンスを与えなかった、当時の歌舞伎業界全体に対する、曰く言い難い怨念のようなものを、深く、長く持ち続け、「東海道四谷怪談」創作には、その果てしない怨念を込め、呪いを掛けたのではないか、というのだ。

その呪いが、具体的にどういう仕掛けになっているかは、当然南北しか知らない。しかし、南北が天寿を全うし、この演目に関わったおびただしい演者や関係者が、200年以上にわたって不審死を遂げて来たという事実がある。歌舞伎を中心に、今で言えば芸能界そのものに、とてつもない呪いの連鎖を仕掛けたのではないか、というのである。

もしこの世に「祟り」なるものがあったとして(あるのだ。それはほんとうに事実である。)、この仮説が正しいとすると、お岩さまの祟りとは、実は鶴屋南北の世紀を超えた「呪い」のせいだ、ということになる。さて、真実はいかに。



怪談