中国という「世界」

歴史・戦史


これは257回目。中国という世界のことです。不思議なことですが、飛行機で一っ飛びでいけるお隣の国なのですが、意外なほどわたしたちはこの国のことを知りません。・・・

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昔、中国で長いこと仕事をしていたときに、驚いたことがある。中国には子守唄がないのだ。もちろん、革命後に、子守唄として作られたものはある。しかし、日本には古くから、いったい誰がつくったのかも分からないような「読み人知らず」の子守唄がたくさんある。中国には、それがないのだ。少なくとも、私が中国人に何度も聞いた限りでは、なかった。もしかしたら、多少はあったのかもしれない。意図的に捨てられた、のかもしれないが。

民族舞踊というものも、中国にはない。「京劇があるじゃないか」というが、あれは例外的だ。西洋のフォークダンスとか、日本の盆踊りとか、そういうものがないのだ。

かつて、ピカソが「芸術は進歩しない。ただ変貌するだけだ」と言った。自分の前衛的な絵画も、アルタミラにある原始人が描いた洞窟壁画も、芸術性の差はない、というのだ。しかし、中国にはそういう意味で、果たして芸術という概念があるのだろうか、とよく疑問に思った。

確かに、超絶な技術、技巧というものはある。それは間違いない。象牙の球体に見事なほどの彫刻をする。その中にさらに球体があり、これまたとんでもない精密な彫刻が施されている。さらにその中に、もう一つの球体があり、虫眼鏡で見ないとわからないくらいの精緻な彫刻が施されている。気が遠くなるような微細な技巧だ。

かと思えば、右手と左手にそれぞれ筆を持ち、同時に達筆な文を書いてみせる。上海雑技団のように、人間技とはとても思えないようなアクロバットを演じてみせる。こういった類において、中国は世界を圧倒するものがある。が、それらは芸術なのだろうか。少なくとも、ピカソが言った芸術の概念とは、およそ次元が異なった世界だろう。

そもそも、漢民族というのは、自分では演じない。異民族に歌わせ、踊らせ、それを飲食しながら愛(め)でたのだ。世界の真ん中に華が開いたという、大変な国名なのだから、当然のことだろう。立場が違うのである。その彼らには、もう一つ不思議なことがある。

どんな原始的な生活をしている民族でも、自分たちの国が誕生した神話というものがある。ところが、中国にはそれがない、のだ。これも中国という国家の概念そのものが、ひとつの“世界”にほかならず、生まれもへったくれもない、ということを意味しているのかもしれない。

私の知識が間違っていればともかくだが、正しければ、この漢民族を主体とした中国という世界観を持った国は、ただならぬ相手ということになる。およそ、近代国民国家の概念や文化性というものと相容れない、あまりにも異質なものを感じてしまう。手ごわいと言えば、これだけ手ごわい相手もないかもしれない。世界の常識から、あまりにもピントがズレまくっているのだ。なにしろ、一般的な民族国家(それが多民族国家であっても)や国民国家というものと、まったく次元の違う宇宙観を持った一つの“世界”なのだから。

そこには、わたしたちが考える、「国」という概念はない。だから赤い国境線も彼らにとっては、踏み破ることになんら道義的抵抗感もない。国際的なさまざまなルールも、彼らはさして順守しようという義務感もない。彼らの生存にとって、唯一最低限の価値観とは「中華」である、というただそれだけということになる。これはさすがに、話が通じないわけだ。

国際社会は膨大な質量を持ったこの「異邦人」を、正直もてあましている。国際社会がこれを制御できるか。それとも、世界が「中華」になるか。すでにわたしたちはこの究極の選択に迫られているようだ。



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