韋駄天ハインツ ~電撃戦の急所

歴史・戦史

これは259回目。近代以降の戦争で、電撃戦と呼ばれるパターンが登場しました。この最高の名手が、ドイツのハインツ・グデーリアンだと言います。

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電撃戦の話だ。第二次大戦中、ドイツ陸軍には幾多の名将と呼ばれる人物がいたが、そのうちの一人、ハインツ・グデーリアンはとくに戦後、欧米で大変尊敬された軍人だ。その意味では、非常に稀有な例だろう。

ハインツ・グデーリアンは、第二次大戦で緒戦の大戦果に大きく貢献した、装甲師団(機甲師団)の発案者で、創設者で、実践者である。

第一次大戦後、ベルサイユ条約によって極端に軍事力が縮小・制限された中で、ハインツは幸い陸軍に残ることができた。第一次大戦中は、電信大隊に所属していたので、ここで後に重要となってくる無線技術に通じることができた。

(第一次大戦中のハインツ)

ハインツ2

ワイマール政府の元で、小規模となりながらも、ドイツ陸軍の再建に努めていたが、彼の発想は、時代を突出していた。戦車を中心とした電撃戦である。

戦車自体は、第一次大戦で英仏が開発して、戦場に投入した実績があるが、効果は限定的なものだった。アメリカのパットン(後の米戦車師団長・パットン将軍)も、戦車隊を率いて西部戦線に参加していた。

ハインツの発想は、戦車を歩兵に置き換えるというものではなく、戦車を中心に、急降下爆撃機・戦闘機の援護を備え、装甲車・自動車・バイクなど機動力のある機械化部隊というもので、歩兵の能力を格段と強化する目的だった。一般にこれを総称して、装甲擲弾(てきだん)兵と呼ぶ。すべてが1セットなのだ。

この発想は、歩兵重点主義のきわめて保守的なドイツ陸軍や、当時のどこの国の陸軍でも理解されず、受け入れられるものではなかった。これに目をつけて、ハインツにやりたいようにやらせたのが、ヒトラーである。

ハインツの戦術論は、重要な点がもう一つある。それは、通常、自軍の兵力をなんらかの工夫で強化した場合、それを敵の最強部分にぶつけるというのが、古来からの定石だった。これを覆した。

ハインツは、最高度に機械化で強化された装甲擲弾兵を、敵の最弱点に集中投入したのだ。この時代、すでに、国家総力戦になっていたから、国民皆兵による動員力は19世紀とは比較にならない規模になっていた。もはやそれは、万や、何十万という規模ではない。100万、200万という規模での野戦である。

したがって、敵の最強部分との死闘は、きわめて損害が大きくなる。ハインツは、まず敵の最弱点を一気急速に壊滅させ、敵の兵站や連携を遮断する。要は、まず手足をもぎ取り、敵の背筋などを切断する。最後に丸裸になった最強部を包囲殲滅させるのである。それには、敵の最強部が動きだす前に、目も止まらぬ速さで、手足をもぎ取る必要がある。それが、電撃戦であり、そのための機械化部隊なのである。

こうしたハインツの戦術論は、第二次大戦の緒戦で、信じられないほどの電撃戦の勝利を導いた。

1938年のオーストリア併合、39年9月のポーランド侵攻。そして、1940年のフランス戦では、グデーリアンの指揮する第19装甲軍団( 3個師団が主軸)が、ドイツ軍の「槍の穂先」として、アルダンヌ高原を走破した後、アミアンからダンケルクまで快進撃を行った。

(第二次大戦中のハインツ)

ハインツ

あまりの急速侵攻に、上層部からたびたび停止命令がでたほどである。後続軍団がついていけなかったのだ。また、ダンケルクの戦いでは、攻撃を禁止され、フランスから英国に渡海脱出する連合軍の「ダンケルクの奇跡」を目の前に見ながら、ハインツは何もできずに切歯扼腕するという屈辱を味わっている。

これは英国首相チャーチルが主導した、33万人に及ぶ英仏連合軍兵士の救出作戦(ダイナモ作戦)のことである。ハインツは、当時の状況からあっという間にこれを殲滅あるいは捕虜にすることが可能であったにもかかわらず、ドイツ軍上層部の命令が時期を逸したのである。脱出に成功した33万人の連合軍兵士は、後に北アフリカやフランスに上陸して、ドイツ軍を敗戦に追い込んでいくことになる。

ハインツは、この後、フランス南部で仏軍を壊滅。さらに、ユーゴスラビア侵攻、独ソ戦でも圧倒的な強さを見せつけた。とくに独ソ戦では、ミンスク、スモレンスク、そしてキエフで、ソ連軍を撃破し、その疾風怒涛の進撃から、「韋駄天ハインツ」と異名をとるようになった。原語は、「Scheller Heinz(急速ハインツ)」だが、これを「韋駄天」と最初に意訳した日本人は見事である。

モスクワ戦では、ドイツ軍の指揮系統が乱れ、グデーリアンが、連携する相手の第四軍クルーゲ元帥とソリが合わないなど、致命的な悪条件が重なった。また、日本軍のシベリア侵攻が無いと踏んだスターリンが、極東配備のほぼ全軍を欧州に振り向けたため、グデーリアンはヒトラーに「いったん作戦を中止して、後方に下がって、越冬すべきだ」と直接具申。しかし、これを嫌ったヒトラーは、グデーリアンを解任している。

国内に戻ったグデーリアンは、機甲師団の育成にいそしみ、後参謀総長に任命される。少なくとも、彼が参謀総長であった9か月間は、連合軍にとっても、またドイツ軍にとっても、戦時中における最大の損害を記録した時期でもある。ヒトラーの誤った戦略・戦術的命令をつぶしつつ、現実的な作戦を指導部に主張しつづけていた。ハインツの抵抗戦術は、連合軍にとっては最大の頭痛の種だった。

1945年に、ソ連軍が国境に迫ってくると、防衛戦略をめぐってヒトラーとの対立は頂点に達し、事実上、すべての役職から解任される。これが最後の彼の軍歴となった。

戦後は、連合軍からもその高潔な人格とたぐいまれな戦術論者としての実績から、各国で称賛され、招聘されては講義を行っている。戦争犯罪人として起訴すらされていない。

ヒトラーとの関係においては、ナチスを熱狂的に支持した経緯はない。しかし、自分の能力を認めてくれたヒトラーを、あしざまに罵るということもしていない。要するに、徹頭徹尾、政治には口を出さない生粋の軍人であったということだ。

ただ、ヒトラーが取り巻き連中に影響され、判断を誤ったり、前線視察をしなくなったことは批判している。同様に、ヒトラー暗殺を企てた反ヒトラー派の軍人に関しても批判している。ハインツ自身はどうかというと、戦時中、おそらくドイツ軍人としては、もっとヒトラーに対して直言した人物であろうと言われる。それゆえ、二度にわたる解任を味わっているわけだ。

ハインツは、ジープに乗り込み、前線の現場で直接指揮を執るというスタイルの野戦指揮官である。第一次大戦までの、指揮官が後方にいるというスタイルでは無かった。これも恐らく現代戦においては、ハインツが最初の先例であったろうと言われている。ロンメル将軍も、北アフリカの戦車戦で同じスタイルをとっていたことから、おそらくハインツのそれを踏襲したのであろう。

長々とハインツの人生を追ってきた。ことは戦争の話なのだが、新機軸によって構築された最強パワーを、敵の最弱部分(最強部分ではない)に集中して、敵の自由な選択肢を奪うというのが、電撃戦の急所だ。つまり勝負の勘所は、敵の主力を潰すことではなく、その手足をもぎ取ることだということを、このハインツの電撃戦は教えている。おそらく、このアプローチというのは、戦争のみならず、経営でも運用でも、もっと広い範囲の人間関係でも、いくらでも応用の効くノウハウだろう。



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