6月の銃声、8月の砲声

歴史・戦史

これは258回目。判明している史実では、3400年前から今日まで、世界で戦争がなく平和だった期間はわずか268年だそうです。

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イラクのシャニダール洞窟に葬られた男性ネアンデルタール人は、5万年前に槍で傷を受けて死んだ人だったと推測されているようだ。殺人か事故かは分からないが、人が人を殺した最古の証拠だということになる。

12,000 – 10,000年前頃(後期旧石器時代末)のナイル川上流にあるジェベル=サハバ117遺跡では、幼児から老人までの58体の遺体が埋葬されている。これらのうちの24体の頭・胸・背・腹に116個もの石器が残っていた。また骨に突き刺さった状況の石器も多い。この遺跡は農耕社会出現前の食料採集民の戦争の確実な例とされているという。

ナポレオン戦争によって、いわゆる国家総力戦の原型がつくられ、それは第一次世界大戦で、決定的となった。第二次世界大戦では犠牲者の数は、2倍に膨張するに至った。

ナポレオン戦争( 1815年で終結)から、ドイツ帝国統一を巡る普仏戦争( 1872年)までは、兵器の進歩は飛躍的になっていったものの、実戦における戦術は、まだたぶんに中世の騎士道的な習慣を残しており、歩兵の密集隊形で前進して射撃し合い、至近距離になった段階で銃剣突撃による白兵戦に突入するというパターン(戦列歩兵という)が繰り返されていた。銃の連射・速射が可能になり、機関銃までが登場してきたにもかかわらず、この戦闘パターンはそのままだった。このため、犠牲者の数はどんどん増加していった。しかし、戦術の抜本的な変化は見られなかった。

幸か不幸か、普仏戦争以降、欧州ではめずらしく大規模戦争は皆無となり、その平和な時代は、第一次大戦( 1914年)まで40年余りも続く。そのため、戦場の悲惨さは記憶の彼方に追いやられ、パリを中心に花開いたベル・エポック(古き良き時代)を人々は謳歌した。

文学、絵画、舞踊、音楽、医療、科学が20世紀につながる揺籃期として、まさに円熟した帝国主義末期の微妙にして、危うい力の均衡を保っていたのだ。

この頃、パリの社交場ムーラン・ルージュでは、ロートレックの絵で知られるサラ・ベルナール、ジャヌ・アヴリルなど、当代きっての女優・踊り子・歌手が、その名花を競っていた。その中に、後の第一次大戦で有名になる二重スパイ・マタハリもいた。

(サラ・ベルナール)

ベルエポック

(ジャヌ・アヴリル)

ベルエポック2

爛れたような世紀末の雰囲気は、そのまま20世紀初頭に引き継がれ、永遠に続くかに思われた。が、それはビスマルク(ドイツ帝国首相)などによる、複雑怪奇な軍事同盟が十重二十重に交わされた、奇蹟のような外交関係によってかろうじてなりたった均衡であり、つねに一触即発のリスクは潜在していたのだ。

ドイツでは、いったん戦争が始まった場合に備えて、参謀本部がシュリーフェン・プランを完成させていた。特秘事項であるはずの作戦計画そのものが、欧州中で有名になってしまっていたこと自体、実際には「戦争は起こらない」という漠然とした楽観論が蔓延していたことを示している。

これに対抗するべく、フランスでも対ドイツ戦を想定した作戦計画、プラン17の準備にいそしんでいた。各国とも、この平和な40年間に、遠方で起こった戦争(ボーア戦争1881年、米西戦争1898年、日露戦争1904年など、23回の戦争が世界中で勃発していた。)を観戦し、自国の防衛戦略と軍備増強の糧としていた。

第一次大戦は、普仏戦争以来、欧州ではひさしぶりの大規模戦争となったが、先述のように、人々の記憶にあるナポレオン時代の、騎士道精神に彩られたロマンチックな姿が想像され、両陣営の首脳部・国民共に戦争の先行きを楽観視する傾向があまりにも強かった。

多くの若者たちが、戦争の興奮によって想像力を掻きたてられ、「この戦争は短期決戦で終わるだろう」「クリスマスまでには家に帰れるだろう」と想定し、国家宣伝と愛国心の熱情に押され、こぞって軍隊へと志願した。

結局、第一次世界大戦はナポレオン的な攻撃による短期決戦を目指して、両勢力が約2000万という大兵力を動員したものの、塹壕と機関銃による防衛線を突破することができず(これは日露戦争の203高地ですでに予見されていた)、戦争の長期化と大規模化が決定付けられることになる。

この第一次大戦が、一発の銃声によって勃発したことは知られている。1914年6月28日、オーストリア(墺)=ハンガリー(洪)二重帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺された。サラエボ事件である。

当時、墺洪二重帝国(ハプスブルグ家)は、隣国で膨張しつつあったセルビア(スラブ系)を脅威に感じていた。領内にボスニア・ヘルツェゴビナというセルビア系スラブ人居住地区を抱えており、セルビア人たちは、バルカン半島のスラブ系による統合国家を熱狂的に望んでいた。この後ろにはもちろんスラブ系の盟主・ロシア帝国がいた。文字通り、「バルカンの火薬庫」であった。ビスマルクは1898年に亡くなる直前、「馬鹿なことが起こるとしたら、バルカンだ。」と懸念を遺していた。

セルビア主義青年・プリンチッペが放った銃弾は、大公夫妻を死に追いやったが、墺洪帝国内のボスニアを独立させ、同じセルビア人のセルビア共和国と併合を目指す、大セルビア主義の熱狂的信奉者だった。彼は、ボスニア出身のセルビア人だ。しかも、暗殺という強硬策に出た最大の理由は、彼が肺結核に罹患しており、長くはないという認識が本人にあったためだろう。

実際、彼は、未成年者であったため、死刑は免れ、懲役20年の判決を受けた。後、第一次大戦終結まであと数ヶ月というときに、監房で病死した。自分が放った一発の銃弾が、1000万人の命を奪う未曾有の大戦争に発展するなど、想像だにしなかったに違いない。

この6月の銃声から、オーストリアとセルビアの戦闘が始まるわけだが、この段階では、まだ各国政府および君主は開戦を避けるため力を尽くしている。そこに、さまざまな謀略と誤解、連絡の不徹底、甘い判断など、あまりにも不幸な事実がどういわけか偶発的に頻発している。結局、もともと各国が「あるはずのない」戦争計画の自動プログラム発動と連鎖を止めることができず、瞬く間に世界大戦へと発展していくことになる。

ドイツが最終的に、シュリーフェン・プランを発動し、総動員令を発したのが8月1日である。同時に、ドイツ軍はベルギーに侵攻を開始している。ドイツによる突然の挑戦に直面したフランスは、即座にプラン17を発動。総動員令を同日発した。

6月の一発の銃声は、8月の砲声に変わっていった。誰も望まず、誰も起きないと楽観視していた戦争、それも誰も想像だにしなかった悲惨な大戦争の幕開けである。同じような状況が、今世界に無いと一体だれが言えるだろうか。

この第一次世界大戦の開戦に至る経緯については、実に様々な分析がなされているが、直接の開戦理由は、未だにはっきりしていないのである。サラエボ事件はほんの端緒に過ぎず、それまでの欧州諸国の間にあった数多の要因がすべて絡み合い、まるで市場のプログラム売買のように、ほとんど自動調節機能を失ったまま、勝手に進行していったイメージすらある。

当事者たちの判断が、すべて悪い方向に向かっていったとしか思えないような展開である。その果てに起きた戦争と言うこともできる。極端なものとしては、すべては偶然の産物でしかなかったという意見すらある。

はっきりしていることは、国家指導者達はみな不思議なくらい楽観的で、開戦間際まで状況が破滅的であることを理解できなかったということだ。そして、気が付いた時には止める術がなかったのだ。

また主な通信手段がすでに電報だったため、本国の指導者たちと外交官や軍人たちの間には暴走と様々な過誤も生んだ。軍隊指導者は自ら、あるいは事前の戦争計画に拘泥して「自国の置かれた外交的立場」などお構いなしに、まさに自動的に総動員体制へと突入していったのだ。

1914年6月28日のサラエボ事件の後、戦端が開かれたのは、オーストリア(墺)=ハンガリー(洪)二重帝国とセルビア王国(戦後、ユーゴスラビアになっていく)の間であった。これにロシア帝国が、同じスラブ系のセルビアを支持して戦争に参加。ロシアはオーストリア=ハンガリー帝国とオスマン帝国を排除して黒海への進出を虎視眈々と狙っていた。1853-1856年のクリミア戦争の雪辱である。

ドイツ帝国は、ロシアが二重帝国と開戦したセルビアを支援するために、総動員令を発したことから、この解除を要求。ドイツのウィルヘルム二世と、ロシアのニコライ二世は、英ビクトリア女王(すでに亡くなっていた)を介して従兄弟同士であった。もっと言えば、英ジョージ5世も、そうである。つまり、世界の半分以上を支配していた三人の君主は、いとこ同士だったのだ。

1905年の日露戦争が終わったころのことだが、ウィルヘルムとニコライは、それぞれお互い相手の国の軍服に扮して、ツーショットの写真でおさまっているくらいの間柄だ。これが、戦争に突入したのである。

もっとも英ジョージ5世と、露ニコライ2世は大の仲良しだったが、独ウィルヘルムは、エゴイスティックな特異性格もあって、二人からは嫌われていたようだ。(ウィルヘルムの父王自身が、息子のことを、芸術や本などに何の興味持たず、その言動はぞっとするような冷たさを持っていると、評している。)

こんな君主の人間関係がまだ外交に大きな影響を与えていた時代だったということも、すべてが悪い方向へ向かっていく一つの伏線にはなっていただろう。実際、ジョージ5世とニコライ2世は、大戦のころにはさまざまな事件の発生で、大のドイツ人嫌いになってしまっていた事実がある。

さて、ドイツからいちゃもんをつけられたロシアは、一瞬ひるんだ。ニコライはその性格の弱さ(若いころから、ウィルヘルム2世に、背中をこづかれるなど、弱いものいじめの対象となっていたくらいだ)から、応じる動きを見せたが、硬化したのはロシア軍部である。いったん動員解除をしてしまうと、再び動員する場合に時間がかかることを懸念し、総動員を強行した。まったく意味不明である。これをみてドイツも総動員に踏み切っている。(ここに、暗躍した謀略があったのではないかと言われる理由がある)

実際には、ドイツはこのバルカン半島でのローカル戦争に参加する直接の理由が皆無といってよかったのだ。しかも不可解なことに、ドイツがロシアに攻め入るならわかる。同盟国の墺洪二重帝国を支援するためだ。

が、「予定」通り、まったく戦争の口実も、きっかけも、直接的な紛争も無かったフランスに全軍突入したのである。これまた意味不明である。(ここにも、裏で謀略があったのではないか、という理由がある)

ドイツ参謀本部が作成していた戦争計画シュリーフェン・プランは、原則としてドイツが戦争を余儀なくされる場合、東西(東のロシア、フランス)で同時に戦端を開いてはならないというものだった(ニ正面作戦回避の原則)。そして、全力を西部戦線に投入し、電撃的にパリにまで進行し、フランスの降伏を実現する。

ロシア軍が仮に、ドイツ東部に侵入してきても、これは無視。ベルリンが陥落しても、全軍はあくまで西部戦線に投入すべし、というものであった。フランスが戦争から脱落すれば、その段階で、今度は全力で東部戦線に取って返して、ロシア軍を撃破するというプランである。

したがって、本来無視すべきロシアとの戦端が開かれようとしている危機にあって、まったく戦争勃発の理由の無い西部戦線で、(しかし計画通り)ドイツは、まるで「見切り発車」的にいきなり全軍を投入し始めたのである。ベルギーに対して、通過許可を求めて拒否されると、一気に侵攻を開始したのだ。ほとんど軍部の、機械的な暴走といってもいい。

そもそも、大戦の発端となった墺洪二重帝国にしてからが、皇帝もまたハンガリー首相も、セルビアとの開戦には反対であった。とりわけ外務省がこれを無視して宣戦布告へと突入していった経緯がある。

イギリスとフランスにいたっては、正直寝耳に水であった。ドイツに宣戦を布告されたため、止むを得ず応戦したといっていい。オスマン帝国もロシア帝国に挑まれる格好になったため参加。イタリアは墺洪二重帝国との間で、トリエステ地方及びチロル地方の領土問題でもめていた。これを「未回収のイタリア」問題という。この奪回に、この戦争を好機と判断して参戦している。

ドイツ参謀本部のシュリーフェン・プランは、大戦前から欧州中で知られていたから、フランスはいつそれが発生しても対応できるように、準備万端整えていた。それでも、ドイツ軍の攻撃は凄まじく、大戦の序盤であった1914年9月、一時はパリ東部のマルヌ河畔(パリ中心部までわずか50km)まで迫るも、これが限界到達点となり、押し返された末に、英仏・独軍のいつ果てるともわからない泥沼の塹壕戦に陥っていくことになる。

この塹壕戦が、とんでもない消耗戦となったことはご存知の通りで、中盤の天王山と言われたソンムの戦い( 1916年7月~11月)では、英仏・独軍両方で。100万の犠牲者を出すとんでもない惨状となった。初日の7月1日、それまで五日間続けられた大準備砲撃ののち、イギリス兵は朝七時半、朝霧のはれた快晴のなかを塹壕から出て、 無人地帯を前進。 イギリス軍総司令官ヘイグは、歩兵は砲撃で破壊された敵陣地を歩いて占領するだけだと楽観していた。

ところが、ドイツ軍は攻撃を予想し、深い塹壕に砲撃を避けて待ちかまえていた。 イギリス兵は肩をならべ、横一列で前進した。砲弾で穴だらけになった戦場で、30kgちかい背嚢を背負っている。ドイツ兵は、この光景をあきれながらみていた。あるドイツ兵はこのときの様子を回想して、こう書いている。

「英国兵たちは、まるでピクニックにでも出かけたようにのんびりと歩いてきた」

結果はいうまでもない。

機銃掃射の前に、イギリス軍はこの一日で死傷者六万人を出し、攻撃がほぼ失敗に終わると認識されるのに、ものの20分もかからなかった。英軍は参加した兵士の半数、将校の四分の三を瞬く間に失ったのである。 これはイギリス軍が一日にこうむった損害では、後にも先にも最悪の記録となった。5ヶ月に及んだソンムの戦いで、英軍の得た勝利とは、前線をわずか30km押し返しただけのことだった。

発端はどうあれ、この無意味なほどの消耗戦が長期化してくると、前線の兵士たちはもちろん、各国の戦争指導者たちの間にも、尽きせぬ疑問を感じざるをえなくなってくる。一体われわれは何のために戦っているのか。これほど、戦争目的が明確でなかった戦争もめずらしい。ただのセルビア人の自治を巡る局地紛争のはずだったのだ。

大戦勃発に関して、唯一英ジョージ5世は、独露のなし崩し的な戦闘突入を回避させるだけの立場にあった。彼は、人間的にはしっかりした頼りがいのある、身持ちの良い人物だったが、国際戦略にはとにかく疎かった。

ジョージ5世は、結局戦争回避の努力を何もせず、英国は先述のようにドイツに宣戦布告することになる。開戦の日、彼は日記に「結構暑く風雨あり。」と記しているだけだ。しかし、彼は自分自身と英王室を守ることにかけては抜け目がなかった。ロシアが後に大戦から脱落し、革命勃発。大の仲良しだったニコライが英国亡命を求めた時、ニコライが英国人に好かれていないことからこれを拒否し、ニコライを見殺しにすることになる。( 1918年、ニコライ2世と皇后、1皇子、4皇女全員が、赤軍によって銃殺された。)

このように、第一次大戦の発端というものは、およそ回帰可能点は、いくらでもまた、どこにでも存在していたのである。細かいことは割愛しているが、このほかにも夥しいほど、連絡ミス、勘違いや誤解、独断専行、たんなる自尊心などによって判断が曲げられてしまう、といったような開いた口がふさがらないような事実が確認できるのだ。

問題のポイントは、先入観による過大な楽観論、すべてが機械的に行われてしまうことによる責任の所在の希薄化、ということにでもなりそうだ。

この、開戦の経緯があまりにも不可解な第一次大戦だが、終局はこれまた呆気ないほど意味不明な幕切れだった。ドイツ帝国の自壊作用である。それも、無謀な攻撃命令に対する抗命が発端だった。

大きな流れで言えば、要するに主演者たちが、あいついで脱落してしまうという結末だったのだ。まず、ロシアが革命勃発で、戦線から最初に脱落。もともとのセルビア問題に端を発した段階では、ロシアの総動員令こそが開戦に拍車をかけた大事件だったはずだが、その張本人が脱落してしまったのである。

ドイツ帝国は、さすがに国内に厭戦機運が蔓延していたが、東部の脅威が無くなったことから、西部戦線で最後の大攻勢を試みた。もともとシュリーフェン・プランというのは、「徹底的に左翼(ドイツの西側、対フランス戦線)を強力ならしめよ」という原則であり、ドイツ東部にロシア軍が侵攻してこようと、ほうっておけ、という方針だったはずだ。

ところが、思った以上にロシアの動員が迅速であったため、まだ西部戦線で決着がつかない序盤戦で、早くもロシア軍はドイツ東部になだれ込んできてしまったと言うことは、先述した通り。あわてたウィルヘルム二世は、本来であれば作戦通り、皇室をベルリンから西部へ移動すればよいだけのはずだったところ、東部戦線を支えるよう軍部に命令をした。

結果、西部戦線に全力を傾注して、フランスを短期決戦で敗退させるというシュリーフェン・プランは、貴重な二個師団を東部戦線に引き抜かれてしまったこともあって、頓挫してしまったのだ。かつて、シュリーフェン将軍が最も危惧した、「二正面作戦は、ドイツが必敗する」という原則が、現実のものとなった。

従って、その厄介なロシアが戦線から離脱したことはドイツにとって願ってもない最後のチャンスだった。ドイツ軍は、最後の力を振り絞って、1918年3月21日、英仏軍の間隙をつく格好で前線を突破。再びパリ東方100kmにまで到達し、開戦以来初めて、砲撃射程にパリを捉える地点を確保した。

3門のクルップ製超大型列車砲がパリに183発の砲弾を撃ち込み、多くの市民がパリから脱出。これはドイツ人の多くが勝利を確信した最後の瞬間であった。

これに対して、英仏軍はそれまでばらばらの指揮系統で作戦行動に出ていたものを、初めて統一を図ることにした。パリ中のタクシーを総動員して、兵員輸送を行い、ドイツ軍の予想を超える機動力を発揮して反撃。ドイツ軍を後退させることに成功した。

そこに合計120万人の米軍が新たに英仏軍に参加してきたのだからたまらない。もっとも、米軍は、100年前のナポレオン戦争当時の戦術、つまり、密集隊形による正面攻撃に固執した。50年前に彼らが行った南北戦争でもそうだったのだ。例の「戦列歩兵」である。

すでに4年間の、悲惨な塹壕線を経験していた英仏・独軍からみれば、狂気の沙汰、と言えるような戦術だった。結果、米軍はとてつもない犠牲者を出すことになった。(このことが、後に、懲りた米国民をして、第二次大戦に参戦しないという世論を形成させていくことになる。ルーズベルトが大統領になれたのも、欧州大戦には不介入という公約があったためだ。これを破って、彼は第二次大戦に参戦していったが。)

墺洪二重帝国(以下、二重帝国とする)も、ひどい有様になっていた。大戦序盤、あろうことかセルビア軍に敗退するというとんでもない失態を演じていたのだ。二重帝国は、多重民族国家であったため、軍内部でも統一言語がなく、近代化にそもそも遅れていた。ドイツの支援がなければ、到底戦争継続も不可能な状況だった。名門ハプスブルグ家の軍事力というものは、無力に近いということが露呈してしまったのだ。

ロシアが戦線から離脱したことで、連合国はドイツが全力で西部戦線に再び仕掛けてくると容易に想像できた。このため、二重帝国をドイツから引き離す工作を試みている。連合国は、二重帝国との単独講和を持ち掛けたのだ。ところがこれがドイツに露呈して頓挫した。二重帝国とドイツとの関係は、一気に冷却した。

すると、二重帝国のほうが連合国に歩み寄って、単独講和を試みた。ところがこれは、今度はフランスが暴露して頓挫した。これではあまりにも損耗の激しいこの無意味な戦争を終結させたいのか、それとも継続させたいのか、まったくわからないような疑心暗鬼が、双方の間に生まれることとなった。

しかし、もはや二重帝国は、戦争継続能力を失っており、帝国内の諸民族が勝手に独立を宣言し始めてしまい、帝国そのものが事実上、解体してしまったのだ。とうとう最後には、ハプスブルグ家自体が、「国事不介入」という声明を発し、無責任にも政権を投げ出してしまう始末だ。

残ったのは、ドイツである。米軍の参戦を得た連合国はいっせいに反攻に転じ、1918年8月の大攻勢では、ついに全戦線で突破することに成功。ドイツ国内では、すでに4年にわたる国家総動員的な戦時体制で、国内経済は破綻に瀕していた。ドイツの敗色は一気に深まった。

しかもロシア革命の影響もあって、国内に社会主義的なセクトが、各地で勃興し、革命機運が高まってきていた。政府と軍は、乾坤一擲の決戦に打って出るという無謀な賭けに出ようとした。それが命取りだった。

要するに敗北が決定的になってきたため、「できるだけ講和交渉を有利に持ち込むために、英国海軍に最後の出血を強いるべし」、ということで、自滅必至の艦隊出動を命じたのである。(戦艦大和の自滅的艦隊特攻に似ている。)ウィルヘルムハーフェン港のドイツ残存艦隊が、単縦陣で出港すれば、港外に待ち構えている横隊の英国艦隊の十字砲火で、蜂の巣になることは火を見るより明らかだった。

この必敗壊滅が確実な作戦命令に対し「冗談ではない」と激昂したのが水兵たちで、1000人が蜂起。これがきっかけとなって、全土で革命状態が勃発するという事態に至った。1918年11月10日、ドイツ皇帝は退位して、オランダに亡命。帝政は崩壊し、ドイツ軍首脳部は終戦交渉のテーブルにつくことになる。11日にドイツは休戦協定に調印する。

開戦の経緯にしろ、終戦の経緯にしろ、もっとずっと複雑な予想外の展開があったのだが、ざっくりと流れを示すとこういうことになる。

ドイツの軍人には、ルーデンドルフ参謀総長がいまいましげに吐いて捨てたように、「われわれは匕首で後ろから刺されたのだ。」という意識が強く残った。つまり、革命運動さえ起こらなければ、そして国家総動員をさらに徹底していれば、けして負けはしなかった、という意識だ。この、「気がついたら、負けたということになっていた」という、不透明な戦争終結の経緯こそが、後の第二次大戦への導火線にほかならない。

戦争というものは、第二次大戦のドイツのように、確信犯的に開始される場合もあれば、日本のように追い詰められたと思って開始する場合もある。どちらにしても、原因や動機ははっきりしている。

しかし、第一次大戦のように、せいぜい小競り合い程度の局地戦までで、とても総力戦を行うような意図なく、誰も望んでもいないにもかかわらず、「気がついたら、えらいことになっていた」ということが、有るということだ。決定的な原因や動機というものが、無いのである。

その意味では、それが明確な第二次大戦よりも、意味不明の火蓋を切った第一次大戦のほうが、われわれにとってはむしろ、問題性が深刻である。

誰もけして望まず、とても予想もしなかった事態は、いつもわれわれのすぐ後ろに息を潜めているのだ。一寸先は闇、とはよく言ったものだ。



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