戦争を知らない大人たちへ

歴史・戦史

これは266回目。70年代、学生運動が盛んな頃、「戦争を知らない子供たち」という歌が流行りました。彼らを含めて、日本人の大半が戦争を知らない大人たちになっています(わたしを含めてです)。予期せず降りかかった火の粉が、それも致命傷になりかねない火の粉のとき、わたしたちは手が大やけどをするのもいとわず払うでしょうか。そのまま黙って致命傷を被るのでしょうか。それを改めて問いかける話です。

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憲法改正を巡って、この何も知らない大人たちは、どうしても観念的な護憲と改憲の議論に終始しがちだ。それは致し方ないことだが、知らなければ知らないで、事実だけでも認識しておく必要がある。

しかも、こちらがやったことは盛んにメディアなどでは糾弾の材料にされるが、一方的にやられたことは、どういうわけかほとんどメディアにのぼることが無い。偏向報道である。

ここに紹介するのは、終戦間際(そして終戦後も)、日ソ不可侵条約を破って侵攻してきたソ連軍に対して、徹底抗戦した士官学校候補生たちの話だ。関東軍首脳部が、早々に降伏交渉を決め、在留邦人を事実上見殺しにする一方で、最前線では文字通り人間の盾となっていった学生たちの話だ。

長崎に原爆が投下された昭和20年8月9日、この同じ日にソ連軍の侵攻が始まった。満州では、精鋭部隊や中核となる武器弾薬がすでに南方戦線へと根こそぎ移送されてしまったので、戦闘能力としては往年の関東軍の威武は失われていた。

8月10-11日、ソ連と国境を接する、満洲北西部・興安総省がソ連軍の空襲を受け、都市機能はほぼ壊滅。興安街に在住していた日本人千数百人が、興安総省の浅野参事官の指揮の下、関東軍の保護を求めて移動を開始。避難民たちは、この関東軍と合流する予定であった。

(興安省)

興安省

この避難民の集団は、三班に分かれていた。第一班、第三班は、8月10日午後から避難を開始したが、第二班の避難開始は11日の午後だった。この丸一日の差が明暗を分けた。第二班一行は興安駅の隣の葛根廟(かっこんびょう)駅から汽車で新京に向かう計画で、葛根廟駅に向けて歩いた。

(興安と葛根廟、満洲の地図)

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この千数百人のほとんどが、女性と子供の避難民の隊列であった。14日、午前11時40分ごろ、行動隊が葛根廟(かっこんびょう、ラマ教の寺院)の丘陵付近まで到達したところで、侵攻してきたソ連軍戦車14両と、トラック20台に分乗した歩兵部隊に遭遇。

(現在の葛根廟~水岡ゼミ巡検報告 葛根廟 2009年9月3日)

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(当時の葛根廟)

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※当時の葛根廟は、戦後の文化大革命(1968-78年)で破壊された。現在の葛根廟はその後に、再建されたものである。

浅野参事官は、即座に白旗を掲げて交渉しようとしたところ、その場で射殺された。生還者の話によると、浅野参事官は襲撃してきた先頭の戦車に対し、「われわれ一行は非戦闘員だ。女と子供が大半だ。撃たないでくれ」と叫びながら走り寄った。

参事官は東京外語ロシア語科出身で、日本語とロシア語で話しかけていたという。そこからパニックが始まった。ソ連軍は、避難民に対して攻撃を開始、機銃掃射が行われ、戦車で隊列をなぎ倒し、戦車後方にはキャタピラに巻き込まれた死体がちぎれて宙を舞った。

戦車は互いに無線で連絡し合っていたらしく、十数輌が規則正しく順ぐりに浅野集団をめがけて稜線を下り、反転してはまた丘を登り銃撃を加えた(生存者目撃談)。

2時間余りの虐殺の後、トラックから降りてきた歩兵隊が、息のあるものを一人一人探して殺し始めた。この時点で、まだ多くの生存者がいたが、その一部は深い濠に身を隠したものの、結局ここも皆殺しとなった。

この濠というのは、地元のモンゴル人たちが、砂嵐のときなどに身を隠すバンカーの役割があり、幅2-3m、深さ5-7m、長さ10mくらいのものだ。

虐殺を生き延びた大櫛戊辰氏「蒼空と草原 殺戮の草原 葛根廟巡礼記」によると、この虐殺の現場の一つとなった濠の戦後の写真を紹介している。近年この事件の検証作業が進んでおり、民間団体が現地でGPSによって確認したところ、問題の濠が特定されているようだ。

(問題の濠)

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この葛根廟事件の生き残りは、この時点では百数十名だったとされている。現地の廃屋に逃げ込んだ女性の集団もあったが、ソ連兵に夜通し輪姦された挙句、殺害されている。奇蹟的に生き延びたものは、たいてい夥しい死体に紛れて、息を殺していたものばかりだ。

不幸なことに、葛根廟事件の場合、避難民たちが合流する予定であった関東軍部隊は、すでにこのとき南転して撤退した後だった。

その後、自決者が相次いだことで、実数の把握は困難である。現場から逃亡に成功したものもいるが、ほとんどは現地の暴民に身ぐるみはがされ、蹂躙されるケースが多かったと推察されている。

もちろん中には、窪地に隠れていた女児を、中国人夫婦が「おいでおいで」をして助けて、その後養女として育てあげ、後年、大学まで出したというケースもある。いわゆる残留孤児である。この女性の場合には、文化大革命で養父母が「日本人を育てた」ということで、筆舌に尽くしがたい迫害を受けたようだが、こういう良心的な中国人もいたことは事実だ。が、圧倒的に少ない。

たいていは、負傷している親は殺され、身ぐるみ剥がれ、子供はそのまま拉致されて、日本人の男の子は300円、女の子は500円で売られた。当時の日本兵の月給が15円から25円くらいであるから、およそ「日本人の子供の物価」水準というものが想像つく。

この葛根廟事件は、ソ連側の公式記録には、事件そのものはあったと確認されているが、虐殺したのは関東軍でありソ連軍ではない、ということになっている。関東軍が、自決を強要したというのである。

が、この葛根廟事件ではあきらかに、関東軍はすでに合流地点から去っており、現場に存在していなかったのである。存在していないものが、自国民に自決を強要できようはずもない。ソ連側の公式記録によると、ソ連軍はむしろ、避難民を保護しようとしていたのだ、ということになっている。当然、国家としての謝罪もない。

この葛根廟事件のようなケースは、満洲のあちこちで数多く発生しており、いかに戦力低下が著しかったとはいえ、関東軍が本土決戦なみの覚悟で邦人59万人の保護のために総力戦で戦っていたら、戦死者は激増していただろうが、それでも一般居留民のこのような目を覆うばかりに無残な結果は無かったはずだ。

終戦時の満洲では、東安省鶏寧県哈達河(現黒龍江省鶏西市)に入植した開拓団1300名がソ連軍機械化部隊の攻撃を受けた。追いつめられた結果、8月12日、麻山(現鶏西市麻山区)付近で約400名の日本人が集団自決した麻山事件が起こっている。

興安街付近では、東京荏原開拓団が匪賊暴民に襲撃されて、約400名が殺害された事件、仁義仏立開拓団がソ連機甲部隊の一斉射撃や暴民の襲撃によって600名以上が殺された事件などもおこっている。大規模、小規模を問わず、こうした非武装在留邦人が各所で悲惨な境遇に陥っている。

なぜこのようなことが起こったのであろうか。関東軍中枢は、ソ連軍の侵攻開始時期が昭和20年秋以降であろうという希望的観測に拠っていたことが一番大きい。そのため、8月初頭からソ連が侵攻を開始した時点では、致命的に防衛戦準備が遅れていたのである。

しかも、6日後に日本が無条件降伏をした後、そもそも対英米蘭そして中国に対しての戦争は終わっても、ソ連に対してまで降伏をする法的合理性は無かった。

ソ連は日本と、中立不可侵条約を結んでおり、この時点でソ連は破棄していたが、有効期限は翌年1946年4月25日だったのだ。この点は、当時、ソ連のモロトフ外相も認めている。

だから千島列島の占守島でも、内蒙古でも、現地日本軍は8月15日以降も対ソ抵抗戦を行っている。日ソ不可侵(中立)条約を一方的に破って侵攻してきたのは、ソ連のほうであり、日本には非は皆無だからだ。

関東軍首脳部は、一部の徹底抗戦派を除き、終戦と同時にほぼ対ソ戦を放棄したようなものであったから、内蒙古や、千島、樺太の現地軍の方針と覚悟が決定的に違う。首脳部が、中国における戦犯容疑から免れるために、ソ連と早い段階から妥協しようとする意図があったと疑われるのも無理はない。日本の帝国陸軍は、戦う必要の無かった日中戦争を戦い、対米戦を戦い、絶対に戦わなければならなかった日ソ戦を放棄したことになる。軍隊の名折れとはこのことだ。

しかし、関東軍指導部が居留民保護にも積極策に打って出ようとしなかったのとは無関係に、前線部隊は徹底抗戦している。このことは特記しておかなければならないだろう。

これは、関東軍首脳部による組織的な抵抗戦ではなく、完全に各個における自衛の戦闘、それも避難民を一日でもソ連軍から引き離すための犠牲打となることを目的とした人間の盾さながらであった。

さらに特筆すべきは、百戦錬磨の精鋭将兵を根こそぎ南方戦線に引き抜かれ、新兵や戦闘未経験者が多く、実践能力的にはかなり劣化していた関東軍前線部隊にもかかわらず、交戦前に混乱状態に陥った部隊は皆無であった。

例えば第5軍は、絶望的な戦力格差があるソ連軍と交戦し、大打撃を被りながらも、1個師団を用いて後衛とし、2個師団を後方に組織的に離脱させ、しかも陣地を新設して邀撃の準備を行い、さらに自軍陣地の後方に各部隊を新たに再編して予備兵力となる予備野戦戦力を準備することにも成功している。これは、最前線において、非常に優れた指揮の下で円滑に遅滞戦術による後退戦が行われたことが伺える。

また既存陣地(永久陣地及び強固な野戦陣地)に配備された警備隊は、ほぼ全てが現地の固守を命じられていた。これは後方に第二、第三の予備陣地が構築されておらず、また増援が見込めない為である。そのため後退できない日本軍の警備隊は、圧倒的な物量作戦で波状攻撃をかけるソ連軍に対して各地で悲愴な陣地防御戦を行い、そのほとんどが担当地域で壊滅することになった。

ここで注目すべき点は、戦闘力が寡弱な中隊・小隊であるにも拘らず、事前に防御すべき守備線を捨てる部隊が一つもなく、帝國陸軍発足以来の敢闘精神を発揮し、その戦闘開始以前において個人的に離隊した兵士が一人として見当たらないことである。

このことは、関東軍最前線部隊の名誉のためにも、銘記しておかなければならない。

しかし、各所で壊滅していく最前線部隊の横では、逃げ遅れた居留民たちが、急迫するソ連軍による容赦ない無差別殺戮と暴行により、多くが命を落としている。しかも、暴徒と化した中国人により、開拓団まるごと死滅してしまったようなケースもある。先述の葛根廟事件はその氷山の一角に過ぎない。

葛根廟事件と相前後して8月13日に起こった磨刀石(まとうせき)の戦いを書く。関東軍首脳たちが、早々と保身のためにソ連軍との交戦を放棄しつつあったころ、最前線では、文字通り肉弾戦が行われていた、その一例である。

牡丹江省にあった関東軍石頭予備士官学校は、生徒数3600名、教官は半数が尉官か見習い士官という陸軍の予備士官学校である。ソ連軍のソ満洲国境侵犯の連絡を受け、石頭予備士官学校は、全力で抵抗戦に臨んだ。

3600名の生徒は2組に分けられ、歩兵砲、機関銃隊1600名は、荒木連隊長の指揮下に、残り1600名は学校長小松大佐のもとに、東京(トンキン)城に布陣した。みな、19歳から20歳の青年たちである。

これに対して東京(トンキン)城方面に向けられたソ連軍は、航空部隊や戦車部隊を含めて約50万の大軍。歩兵銃の弾もろくにない、重機関銃の弾薬さえも欠乏している石頭予備士官学校の生徒たち3600名がこれを迎え撃った。

支給された爆薬は、ランドセルくらいの大きさで、中にはダイナマイトがびっしり詰まり、30cmくらいの導火線がついていた。いわゆる「急造爆雷」である。

その先にマッチ棒を3本、木綿糸でしっかりとくくりつけた。敵戦車が接近したら、マッチ棒をすって点火させてから、爆薬を抱えたまま全力疾走で突っ込むのだ。

点火後、3~4秒で爆発する。これを「対戦車肉迫攻撃」といい、略して「肉攻」と呼んだ。

生徒たちが無蓋貨車に乗って、石頭駅から牡丹江駅につくと、周辺は避難民でごった返していた。8月11日正午過ぎのことである。軽装の邦人の渦だ。着の身着のままで避難したものが多い。避難民は、満州を南下する列車を待っていたのだ。

牡丹江で、第五軍から命令が生徒たちに伝達された。一部を磨刀石に派遣。小林部隊の指揮下に入り、ソ連軍戦車の侵入を阻止。主力は液河の東方台地を占領して、複廓陣地を構築すべし、というものだった。

(士官候補生たちが向かった、磨刀石~代馬溝)

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生徒たちはまたここで大きく分かれ、一部750名が、猪股大尉の指揮で磨刀石に向かった。ソ連軍機甲師団を迎え撃つのである。

(磨刀石駅)

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磨石刀に到着すると、生徒たちは次から次へと貨車から降りた。そこにソ連軍機が襲来し、機銃掃射を始めた。生徒たちの中には、ばたばたと倒れていくものが続出した。

吉備少尉(実家は、横浜の旧家で、鮮魚店を営んでいた)は、銃弾の中、生徒たち全員を降ろすまで、貨車にとどまり誘導していたが、ついに直撃されて戦死。この空襲で、生徒12名も死亡している。

その後、猪股大隊は磨刀石の主要道路中心に蛸壺(たこつぼ)を掘り、後背台地に観測所、後方に砲兵陣地などの構築を急いだ。

翌12日、ソ連軍部隊は隣の代馬溝駅に到着。夜営に入った。猪股大隊の第七区隊では、若槻見習士官(区隊長)が生徒たちに召集をかけた。生存者の記憶によると、次のように静かな口調で言ったという。

「敵戦車群は、本日、代馬溝に入った。そして、今夜は夜営する模様。これを奇襲攻撃する為、私が長となって挺身斬込隊を編成する。もとより、生還は期し難い。今日限り、私が命を預かる事になる。希望者は申し出ろ。」

すぐ、谷口進一候補生が手を上げて「七区隊全員が希望します。」と言うと、間髪入れず、全員が「おーっ!」と声を出して一歩前に出た。

区隊長は、「よし、有難う。しかし、人数に制限がある。俺が選ぶ。」と言って、若槻隊長は1人1人と対面し言葉を交わし、そして30名を選んだ。(隊長を含む)

人選に漏れた生徒たちが、自分も連れて行ってくれと懇請したが、若槻挺身隊長が言ったそうである。

「俺達30名は、代馬溝で敵を攻撃する。残った者は、この磨刀石で戦ってくれ。どこで戦おうと、国に報ゆる道は1つだ。磨刀石を頼む。」

挺身隊は出発した。昭和20年8月12日、夜10時ごろだと生存者は記憶している。

若槻挺身隊は、線路ぞいの小径を進んで行ったが、無情にも夏の夜が明け、攻撃開始前に敵に発見され、集中砲火を浴びた。 挺身隊は後退せず、ソ連軍の機甲師団に突撃をして、全員29名が戦死した。( 1名、命令により報告に戻った。)

(若槻挺身隊が進んだ道)

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つい昨日まで、ペンをもって学窓にあった候補生たちである。磨刀石に終結した彼ら候補生たちの任務とは、関東軍前線部隊が後方に、最後の防御戦をすべき複廓陣地を構築するまでの、死の抵抗戦である。国境付近から避難殺到してきている在留邦人たちを、無事南下させるまで、急迫するソ連軍を阻止する、言わば身代わりの防波堤である。

8月13日、代馬溝方面からの一本道を、向こう正面からソ連軍戦車は地鳴りを上げて近づいてきた。それに対して、道の両側に掘った蛸壺から 爆雷を抱えて候補生が飛び出していった。

戦車が近づくと、次々と「先にゆくぞ」と叫んで、敵戦車に突入して行った。またひとり、小さな体で四角い爆薬の包みをかかえて飛び出していく。一瞬、ものすごい閃光がひらめき、白焔が戦車をつつむ。そして、またひとり・・・

(手前の磨刀石駅に通じる一本道=肉攻の道がはっきり見える)

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戦車隊は、先頭車列の戦車が炎上して走行不能となるや、後ろからどんどん道路脇に突き落としては、進撃してくる。

ソ連軍は、この「肉攻」に気づき始めた。一人の候補生が爆雷を抱えて戦車の前に飛び出し伏せた。戦車が3m手前で急ブレーキをかけ、間一髪で爆発を免れたが、候補生の半身は血しぶきを上げて20mほど上空に吹き飛んでは、もとの地面に落ちた(生存者の目撃談)。

これは地雷ではなく、「特攻」であるとソ連軍もわかったのだろう。道の両側を火炎放射器で焼き始めた。13日の午前11時過ぎ頃と思われる。次々と肉攻が繰り返され、後方からの砲撃と、候補生の重機関銃隊の応戦で、ソ連軍戦車隊は大混乱に陥りいったん後退した。

そのうち、敵戦車群は全砲火を大隊本部後ろの山の上に集中した。何百発もの砲弾が集中したので、短時間で山の形が変わってしまった。山頂には、味方の砲兵の観測班が出ていた、短時間で全員戦死した。 たった1門あった味方の15榴弾砲は、観測班をつぶされ機能しなくなってしまった。4km後方にあった砲兵陣地も、ソ連軍の自走砲の集中砲火をあび、破壊されてしまった。

(日本軍の砲撃用観測所があった駅裏の山頂)

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上級指揮官が相次いで斃れたため、梅津眞吾中尉が途中から残兵の指揮を執った。敵戦車に果敢な奇襲攻撃をかけたが、ついに陣地は戦車に蹂躙され、死傷者続出の事態となった。

梅津中尉は、もはや組織的な戦闘は不能と判断し、生存者を集めて、後方の山中に入り、脱出した。8月15日、掖河の本隊にたどり着いたときは、磨刀石出撃時に750名いた猪俣大隊の候補生は、わずかに105名になっていた。

実戦経験のない、候補生だけの部隊でこれだけの敢闘をして見せたのである。各所の関東軍前線部隊は、間違いなく、予想を遥かに超えた善戦をしたことは間違いない。しかし、首脳部の楽観とそれによる組織的な作戦の準備不足、そしてなにより、首脳部が戦後処罰を慮ったがゆえの弱腰が、むざむざ関東軍を最大限に生かすことをしなかったのである。

わたしたちは、戦争を知らなさすぎるのである。われわれがおめでたいほど平和なこの国に今生きてあることは、なにゆえ可能だったのか。知らないでは済まされない事実に、わたしたちはあまりにも無頓着すぎるのである。

わたしたちがここにあるという奇蹟に思いを浸し、また往く年を送り、来る年を新たな思いで迎えよう。今年も年末まであと2月余りとなった。

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