鬼神もまたこれを避く

歴史・戦史

これは274回目。その遺伝確率は世界人口60億分の1。いわゆる異能生物体。正式名称は、大日本帝国陸軍がその威信をかけて製造した、アンドロイド型決戦兵器。そう言っても、まったく過言ではないくらい、恐るべき兵士がいました。一騎当千どころではありません。1対1万人です。

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船坂弘という。若い年代には平野耕太氏の漫画「HELLSING(ヘルシング)」に登場するアレクサンド・アンデルセンのモデルとなったことでも知られる。

ときは、パラオのアンガウル島。この珊瑚礁に囲まれた、世にも美しい島は、日米兵士による血で血を洗う戦いが繰り広げられた。

1944年昭和19年9月11日、アメリカ軍はパラオに殺到した。隣のペリリュー島の玉砕戦は、はじめてアメリカ軍に、日本軍が持久戦で地獄の苦しみという痛打を与えたことで大変有名だが、このアンガウル島でも信じられないような抵抗戦が行われていた。

その日、アメリカ軍は、空母ワスプ発艦の急降下爆撃機ドーントレスによる空襲、および戦艦テネシーによる艦砲射撃を行った。アンガウル島を襲ったアメリカ海軍は、空母1、戦艦1、巡洋艦4、駆逐艦5。これに上陸部隊は、合計2万1000人という第81歩兵師団だった。

一方、アンガウル島防衛軍は、日本の第59連隊だが、主力のほとんどはペリリュー島、あるいはパラオ本島に移動しており、残存兵力はわずかに1250人。

最初の空襲と艦砲射撃で、本島司令部とはまったく連絡が不能となり、一切の指示を受けられない。ほとんど絶望的な状況である。

日本軍は、圧倒的な兵力差の中で敗退。島中央にまで米軍の進出を許した。日本軍は9月18日未明に、あらゆる火砲を動員して夜襲による反攻に踏み切る。いったんはアメリカ軍を島中央から海岸近くまで押し戻したが、夜明けとともに今度は戦車が来襲。午前10時ごろには、日本軍はほぼ壊滅した。

9月25日には、アメリカ軍は目標としてた地点を占領し、30日には事実上全島支配に成功している。

日本のアンガウル守備隊は、洞窟豪にこもって抵抗をつづけたが、10月19日に最後の斬り込みを行い玉砕。

このとき捕虜となった59人の日本兵の中に、船坂弘がいた。「不死身の分隊長」の異名を持つ。

(船坂弘)

船坂弘

米軍上陸に際しては、グレネード(擲弾筒)や、臼砲で、米兵を200人以上殺傷。この最初の水際作戦で中隊が壊滅したので退却。残存兵らと島北西の洞窟に籠城し、ゲリラ戦に移行した。

開戦3日目、船坂は左大腿部に裂傷を負う。しかも、米軍の銃火の中に数時間放置され、ようやく救護に駆けつけることができた軍医は、傷口を一目見るなり、「助からない」と判断。自決用の手榴弾を手渡して立ち去った。

しかし、船坂は死ななかった。彼は、日章旗で足を縛って止血。「夜通し這う」ことで洞窟陣地に帰り着き、翌日には歩けるまでに回復。 不死身の分隊長である。

船坂は、栃木出身。開戦の前の3月、宇都宮第36連隊に入隊。満州では、第59連隊第1大隊第1中隊に配属されている。このときの部下15人を、擲弾筒分隊長として率いている。

満洲時代から、剣道・銃剣術は有段者であり、とくに銃剣術に秀でていたようだ。専門は擲弾(てきだん=グレネード)だったが、一方では、中隊随一の小銃の名手でもあった。入隊以来、30数回の射撃に関する賞状・感状を受けており、銃剣術と射撃の二つを同時に授けられたのは、後にも先にも船坂だけだ、と言われる。

戦況悪化で、1943年3月、南方に転戦。アンガウル島に到着したのは、4月28日。5ケ月後には、米軍が上陸してきたのだ。

左大腿部に重傷を負っていたはずの船坂だが、なんと不思議と翌日には歩いていた。本人曰く、「どうも生まれつき傷が治りやすい体質らしくて」。

秦の始皇帝に仕えた宦官・趙高は、歴史に残る陰謀に踏み切るとき、怖気づく始皇帝の末子を叱咤した。「断じて敢えて行えば、鬼神もまたこれを避く」。しかし、その鬼神でさえ、船坂のその後の奮戦には、舌を巻いたはずだ。

洞窟陣地から出撃しては、島中央に進出した米軍と白兵戦を何度も繰り返している。絶望的な状況下でも、拳銃の3連射で3人の米兵を倒す。

さらに米兵から鹵獲(ろかく)した短機関銃で3人を一度に倒す。 このときすでに、左足と両腕を負傷した状態だったが、銃剣で米兵1人を刺殺。 さらにその銃剣を、短機関銃を手にしていた米兵に投げつけ、見事に顎部に突き刺して殺害。

とうとう最後には、腹部に重傷を負って「這うこと」しか出来なくなり、「もはやこれまで」と自決用手榴弾の信管を抜くも不発だった。鬼神のほうが、むしろ震えあがっていたようだ。

戦友も次々と倒れ部隊壊滅するが、死ぬ前にせめて敵将に一矢報いたいと、なんと重傷の身で、米軍司令部への単身斬り込み、肉弾自爆を決意する。実に、1対1万人である。

その前に、自分の傷口に群がる蛆(うじ)虫をなんとかしようと、拳銃の火薬をつかって焼き殺すが、自身あまりの激痛に失神。半日間死線をさまようが、船坂は復活する。

あまりにも悲壮な状況なのはわかりきっているのだが、ここまでくるともはや、笑いしか出てこない。この男は、本当に不死身なのだ。

船坂は、覚醒すると、決意新たに手榴弾6発を身体にくくりつけ、拳銃1丁を持って夜間、這い続けて前哨陣地を突破。4日目には米軍指揮所テント群に20メートルの地点にまで潜入に成功。

ちなみにこの段階までの負傷は大小24箇所。 ネット上の調べによると、概ね以下の通りであった。

・左大腿部裂傷・左上膊部貫通銃創2箇所
・頭部打撲傷・左腹部盲貫銃創
・右肩捻挫・右足首脱臼・火傷
・全身20箇所に食い込んだ砲弾の破片

船坂は、米軍指揮官らが指揮所テントに集合する時に突入すると決めていた。当時、米軍指揮所周辺には歩兵6個大隊、戦車1個大隊、砲兵6個中隊や高射機関砲大隊など総勢1万人が駐屯していた。

舩坂はこれら指揮官が指揮所テントに集まる時を狙い、待ち構えていたのだ。ジープが続々と司令部に乗り付けるのを確認すると、船坂は、右手に手榴弾を握り締め、左手に拳銃を持ち、全力を絞り出し、立ち上がった。

突然、茂みから姿を現した異様な風体の日本兵に、発見した米兵もしばし呆然として声も出なかったという。米軍は激しく動揺。 それはそうだろう、ゾンビのようなものである。

ところが、残念ながらたちまち銃撃されて、クビを貫通して意識を失った。当然、米軍は戦死と判断したが、一応野戦病院に担ぎ込まれた。

米軍医は、船坂が拳銃を握りしめてはなさない指を一本一本解きほぐしながら、「これは日本の侍だけができる、勇敢な死にざまだ。」と述べていたそうだ。

ところがどっこい、船坂はまだ生きていた。3日後には意識を取り戻したのだ。情をかけられたと勘違いし、周囲の医療器具を叩き壊し、急いで駆けつけた憲兵の銃口に、自分の身体を押し付け「撃て! 殺せ! 早く殺すんだ!」と悪態をつく。そして顔面蒼白の米兵たちを尻目にさんざん暴れまわった。

この船坂の大騒動は、アンガウルにいる米兵の間でまたたくまに「伝説」と化した。 敵ながら勇気を称えられ「勇敢な兵士」と誰もが呼ぶようになった。

数日後、すでに陥落していたペリリュー島の捕虜収容所に身柄を移される。船坂の、「1対1万人」という最強伝説は、すでにペリリュー島まで伝わっており、要注意人物の筆頭に挙げられる。

しかし船坂の戦いは、まだ終わらない。瀕死の重傷なのに収容所から抜け出すことに成功。 この時、極度の栄養失調に加え出血多量により、両目はほとんど見えていない。

にもかかわらず、1000メートルも潜んで行って日本兵の遺体から抜き取った火薬を集めて、米軍弾薬庫を爆破。 爆破後に収容所に戻り、何食わぬ顔で翌朝の点呼に参加。

もちろん米軍は徹底的な捜査をしたが、弾薬庫が吹き飛んだ原因は判明しなかった。 仕方がないので米軍の公式記録には「原因不明の爆発」と記録される。 しかし、あの「勇敢な兵士」以外に考えられない、と誰もが思っていた。

その後も、2回にわたって飛行場を炎上させることを計画するが、同収容所で勤務していたF.V.クレンショー伍長に阻止され失敗。

とうとう、船坂の暴れように耐えかねた米軍は、船坂を捕虜収容所から追い出し、各地の捕虜収容所を転々とする。グアム、ハワイ、サンフランシスコ、テキサス。そして、1946年に無事帰国。

実家に帰ってきたが、すでに死亡したとされ位牌まであった。 村の人々は幽霊ではないかと噂し、しばらくの間疑いの目で見られる。 「個人の戦闘記録」としては唯一、戦史叢書に載せられている猛者中の猛者である。

元アンガウル島米軍兵であったマサチューセッツ大学教授のロバート・E・テイラーは、戦後舩坂宛ての手紙の中で、「あなたのあの時の勇敢な行動を私たちは忘れられません。あなたのような人がいるということは、日本人全体の誇りとして残ることです」と、讃辞の言葉を送っている。

戦後復興の中、戦争での強烈な体験から弘は、この眼で見てきたアメリカのあらゆる先進性を学ぶことが、日本の産業、文化、教育を豊かにすることだと思ったそうだ。そこで、書店経営を思い立つ。

船坂は渋谷駅前の養父の書店の地所に、僅か一坪の店を開き、帰って来た戦死者としての余生を書店経営に費やす。後に、これが日本初の試みであった全館書籍販売という、「本のデパート・大盛堂書店」の創設となっていく。

(渋谷スクランブル交差点、大盛堂書店)

大盛堂書店

印税のすべてをつぎ込んで、遺族たちと連絡しあい、遺骨収集、パラオへの援助など精力的に活動。「生きている英霊」と呼ばれる。

2006年2月11日、満85歳で腎不全で逝去。鬼神も、ようやく鬼籍に入った。



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