写真を超える真実

歴史・戦史

これは295回目。以前、「ピクトリアリズム」のことを書きました。絵画が限界に達した19世紀末から20世紀、とってかわった写真が、真実と芸術性を追い求めて悪戦苦闘する経緯でした。

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とうに、絵画は抽象化が行き着くところまで行き着いてしまい、どこまでが自己完結的な絵画で、どこからポスターやデザインなのか、訳がわからなくなってきている。

それもそのはず、絵画というものは(彫像もそうだろうが)、形を壊していったとき、最終的に残るものは作者の内的イメージ、印象だけになってしまうのだ。鑑賞する側は、作者の内的感動にアクセスするのに必要な「形」が失われているから、直観と霊感でしかアクセスできなくなっている。それが現代絵画の現実だといっていい。

つまり、鑑賞する者への優しさや配慮が、金輪際無いのだ。私に言わせれば、そんなものは「日記」と変わらない。だから、インテリアや装飾デザインとしての芸術性は高かったとしても、もはや自己完結的な絵画としての芸術性は、現代美術には無い、とすらわたしは思ってしまう。

だから、絵画はやはり最低限の形が無ければならない、とわたしなどはかたくなに信じている。そういう意味では、誰でも知っているミレーの「晩鐘」などは、その写実主義絵画の頂点をなす名作だろうと思う。

(ミレー「晩鐘」、1855-57年)

200101図表1

ミレー自身カトリックであり、この作品には宗教的雰囲気が濃いにもかかわらず、キリスト像やマリア像、十字架と言った、宗教画にはお約束のモチーフは一つも描かれていない。絵の依頼者が非常にリベラルなプロテスタントだったらしく、その依頼者の意向が反映されているとも言われるが。

この絵は言うまでもなく、晩鐘(アンジェラスの鐘)が鳴り響き、それを合図に農民夫婦が手を休めて、祈りを捧げる様子を描いたものだ。

ミレー本人によると、祖母の思い出を描いた作品だと述懐している。

「かつてわたしの祖母が畑仕事をしているとき、鐘の音を聞くと、いつもどのようにしていたか考えながら描いた作品です。彼女は必ずわたしたちの仕事の手を止めさせて、敬虔な仕草で、帽子を手に、『憐れむべき死者たちのために』と唱えさせました。」

正確には、アンジェラスの鐘が鳴るときに唱える祈りは、「・・・天にまします聖母マリア、罪びとなる我らのために、今も、そして臨終のときも祈りたまえ」というものらしい。

かつて、まだ写真技術が勃興期であった時代、その写真より、はるかに真実を伝える感動をキャンバスに表現した例もあったのだ。

このような農民夫婦(1889年カタログには、農夫とその同伴者となっているが)がジャガイモを収穫している作業の途中、こんな瞬間が日常のようにあっただろう。

写真で撮ってしまえば、それまでの情景だ。が、あまりにも普通に繰り返される日常の中の、気高い敬虔さと荘厳さを、写真が切り取ってきた例はない。ミレーだけが、キャンバスに描き切ったのだ。だから、今も世界中の人から愛される名画となっている。「絵が残る」とは、そういうことだ。写真に撮れれば、はるかに事実に近いはずだが、なぜこの「晩鐘」が残ったのかといえば、絵だから残ったのである。

それも、写真にお株を奪われることになる写実主義・リアリズムの絵画に、そうした感動を呼ぶ作品が意外に多いのだ。写実にして、写実にとどまらず、真実が見事に描かれているからだ。

ロシアの絵画芸術というと、すぐにカンディンスキーといったようにソ連時代の前衛絵画ばかりが頭に浮かぶ。しかし、やはり写実主義の名匠がいる。イリヤ・レーピンだ。

レーピンが遺した感動的な絵画には、とくに有名なものに二つある。一つは「ヴォルガの船曳」だ。

(レーピン「ヴォルガの船曳」、1873年)

200101図表2

「船曳(ふなひき)」というロシアの最下層労働者たちの主な仕事は、川の流れに逆らって、つまり上流に向かって、帆船を引っぱっていくことだった。ふつう、彼らは、全長30〜50メートルの平底貨物船を引いた。これは、秋と春の季節労働であった。

人々がこの仕事に就いたのは、お金がどうしても必要だったからだ。この絵を見ると、奴隷的な搾取に見えるが、彼らは奴隷ではない。給料は支払われたし、仕事の効率を上げるための、同業者の組合もあった。

絵の右上に、蒸気船が見える。すでにそういう時代なのだ。しかし、彼らは船を曳いている。それは、安かったからにほかならない。

だから、帝政時代の圧政を批判した絵画であるとかいう解説は、間違っている。ただ、貴族たちの瀟洒な別荘が立ち並び、優雅な有閑生活が繰り広げられているヴォルガ河の対岸がある一方で、こちら側ではこのような過酷な労働が行われているその対称性に、レーピンは絵筆を突き動かされたのだ。

実際、レーピンはロシア革命前にフィンランドに拠点を構えたが、革命後、ソ連から帰国を促されたものの、帰ることはなかった。政治的主張がかれの絵画にあるとは思えない。

この絵は、人夫らの様子を的確に描写するため、数十にも及ぶスケッチを行っている。この絵に描かれた人物は、すべて実在のモデルがいる。先頭にいる人物は、カーニンという元破門僧だという。列の中に、一人だけ、表を上げた色白の人物がいるが、彼は少年である。このモデルたちはほぼ全員、この作品が完成して間もなく、過酷な労働のせいであろうか、他界しているようだ。

同じレーピンの作品の傑作に、「トルコのスルタンへ手紙を書くザポロージャ・コサック」というのがある。

(トルコのスルタンへ手紙を書くザポロージャ・コサック、1885年)

200101図表3

この絵の背景は、ずっと昔にさかのぼる。露土戦争(ロシア・トルコ戦争)。黒海に近いドニプエル川下流の地ザポロージャに、ウクライナ・コサックが本営を置いていると、トルコが攻めて込んできた。

激戦のさなか、敵のスルタン、トルコ皇帝が「降伏して臣民になれ」と勧告してきたのに対し、誇り高いコサックたちの怒りは爆発。さっそく返事を出すことになった。

ところが、コサックのアタマン(頭目)は字が書けない。いつも通り書記に口述筆記を頼む。それをみんなで寄ってたかって、面白おかしく、罵詈雑言。「ああ書け、こう書け」と言いたい放題の様子を描いたものだ。

「おまえらが悪魔の糞を喰らおうと、こっちの知ったこっちゃねえ。だがな、俺たちを支配できるなんて考えは、金輪際持つなよ。このブウブウ屁を垂れる肛門のロバ野郎め。肉屋の野良犬ふぜいが!」

以下、延々続く下品きわまりない罵詈雑言に周りの仲間が腹を抱えているという情景。

独立不羈の血気盛んなコサックの面目躍如たる様子が、見事に活写されている。

この作品は発表後たちまち人気を呼び、レーピンは本作以外に二点のヴァージョンを描くことになった。コサックらしい自由闊達さとユーモア感覚、豪胆さと仲間意識、そうしたものへのレーピンの強い共感が、われわれ観る者を魅了してやまない。

こうした珠玉の写実絵画が現に存在し、時代を超えて感動を呼んで来た事実を垣間見るに、実は結局写真は絵画を超えることができないのではないか、とすら思ったりする。写真は写真で、その瞬間を切り取る凄みがやはり真骨頂なのだろうか。そして、絵画は実はまだ死んではいないということなのかもしれない。

レーピンはイタリアやフランスに遊学しており、当時急速に広がっていった印象派には組しなかった。影響はみられるが、あくまで写実にこだわったのだ。時代遅れとなりつつあった写実主義だが、その後の印象派や、前衛絵画を圧倒する感動を、レーピンが遺している以上、流派や技法など、実はまったくどうでもよいことなのかもしれない。



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