遅すぎた切り札

歴史・戦史

これは297回目。大戦末期、米軍を震え上がらせた、日本海軍の局地迎撃戦闘機・紫電改の話です。その抜群の格闘性能にもかかわらず、わずか400機しか製造されませんでした。

:::

太平洋戦争緒戦を飾った名戦闘機は言わずと知れた零戦だったが、昭和18年ごろから航空能力を大いに伸ばしてきた米軍機の前に、零戦は次第に陳腐化し、末期にはほとんど米軍機の餌食になっていたと言っても良い。

根本的な開発方針の改革がなされず、ひたすら零戦の成功体験にしがみついた結果、末期には太刀打ちできず、ただ特攻機に乱用され、いたずらに機体もパイロットの生命も消耗する悲劇に陥っていった経緯がある。

海軍は本土防衛の必要性を痛切に感じ、ようやくにして本土上空の制空権奪回を目的として、それを可能にする精強な戦闘機を欲したのは遅きに失した感がある。絶体絶命の中で、この新鋭機の開発命令が川西航空機に下された。(現在の、新明和工業=証券コード7224である)

すでに生産されていた紫電を大幅に改良して誕生したのが、紫電改である。名前こそ紫電「改」だが、まったく原型の紫電とは別物の新鋭機と言ってよい。その性能は、ちょうど零戦が極限まで軽量化することで空前の格闘性能を得たのに対し、紫電改の場合、エンジンパワーが零戦の2倍という、まったくの重戦闘機といってもよかった。

そのパワーは確かに、零戦とは比較にならないほど大きく、大戦末期最強の米空軍機、F6Fヘルキャットやマスタングが12.7ミリ機銃。紫電改は20ミリ機関砲。零戦が800馬力であったのに対し、紫電改はマスタングと同じ2000馬力であった。

強烈なパワーを備え、それまでの日本の戦闘機の欠点であった、防御力も大きく、分厚い防弾ガラスで搭乗員の生命を守る設計がなされていた。実質的に重戦闘機である。ようやくこの頃になって、日本も米国の戦闘機設計思想が取り入れられたわけである。

ただ、ベテランパイロットには不評であった。本土防衛という目的や、折からの燃料不足のため、局地戦闘機として迎撃用に設計されていたため、あまりにも航続距離が短かったのである。零戦はその軽量化によって、渡洋攻撃が可能なくらい長大な航続距離を誇ったが、紫電改はドッグファイトに集中できる時間がきわめて限られていた。

しかし、格闘性能では零戦など比較にならない。縦の旋回能力では、圧倒的に紫電改のほうが小回りが効いた。下から敵機を銃撃しながら、その上空にすりぬけ、一気に反転宙返りをして、今度は上空から銃撃しながら突っ込むという戦法では、零戦より遥かに小回りが利いたのである。これは自動フラップの採用によって可能になった新機軸だ。

また、そのパワーから、速度も最速に近かかった。紫電改とドッグファイトを経験した米軍パイロットたちは、一様にその速度ではまったく互角だったと証言している。戦後、紫電改の性能テストのため、後述する343空のパイロットたちが操縦して、米軍機の監視のもと航空移送した際、紫電改2機(武装解除されていたので、その分軽量化されていたが)の速度に米軍機がついてゆけず、完全に置き去りにしたという事実がある。

戦後、米国本土のライトフィールド空軍基地に移送されたその紫電改にハイオクタン燃料を使用して、米軍機と模擬戦闘実験が行われた。戦争中実戦配備された米軍量産戦闘機のどの種類も、1対1では紫電改には、何度演習を繰り返しても、どうしても勝てなかったという結果が出ている。

現在スミソニアン博物館に展示されている紫電改の現物の説明文には、「太平洋戦線で使用された万能戦闘機である」と解説されている。

海外や日本本土各地から、生き残った歴戦のエース級が四国松山に集められ、第343海軍航空隊(通称、「剣(つるぎ)」、あるいは「343空」)が結成された。生産された紫電改は、ほぼこの343空に供給された。343空は、その後、九州南部の鹿屋基地、さらに長崎の大村基地へと拠点を移動している。

ここで日本は、緒戦当時の零戦と同じく、最強の戦闘機と腕の立つパイロットの組み合わせを得たことになる。加えて、徹底的に改良が施された無線機を活用した編隊空戦法により大きな戦果を挙げることができた。

まだ試作機段階だった昭和20年2月17日から、硫黄島決戦の前哨戦(アメリカのジャンボリー作戦)において、米軍は航空機合計1200機を擁して波状的に関東上空に侵入しようとしたが、日本がその都度これを迎撃。

日本側は零戦48機が主力だったが、これに紫電改が7機合流している。この初日の空戦では、米軍機動部隊を撃退。紫電改は米軍機を4機撃墜。全機生還した。一方零戦は11機が未帰還機となっている。

この遅すぎた日本の切り札は、343空によって期待通りの大戦果を挙げている。昭和20年3月19日のこと。米空軍機160機に対し、紫電改56機で迎撃。これが本格的な空戦デビューといっていいようだ。ここでは、米軍機58機を撃墜。(諸説あり)

紫電改の迎撃を初めて経験したこのときの米軍爆撃機乗組員は、証言している。

「見事な朝焼けの中を、われわれはピクニックにでもいくような気分で、日本本土に接近していた。上空に戦闘機編隊が確認できた。先発攻撃隊が帰還途中なのだとのんびり構えていた。機影がグラマンによく似て見えたのだ。突然、偵察機からの無線で、『違う! 見ろ、ミートボール(日の丸)だ!』という絶叫が響いた。われわれB29爆撃編隊は、ただちに合計72門の機関砲で応戦した。まったく死角が無いほどの猛烈な弾幕の中を、零戦ではない、これまで見たこともない日本の戦闘機が、逆落とし(さかおとし)になって、真上から銃撃しながら突っ込んできたんだ。ほとんど彼らの顔が認識できるような距離まで接近するほどだった。考えられるかね。彼らは、とてもありえない確率に、命と技量のすべてを賭けて突っ込んできたのさ。あんな勇敢な奴らを見たことがない。」

その後は、本格的に本土防衛の任務につき、少数ながら343空の苛烈な抵抗戦が繰り広げられた。とくに、沖縄戦では彗星や銀河などの特攻機の護衛を務めている。しかし、先述通り、開発目的が本土防衛であったため、後続距離・時間に制限があり、最後まで護衛できず、中途半端に終わっている。

この時期、航空戦は安易な特攻出撃命令が常態化していたので、343空にもその指示がきた。343空側はこれに対してこう答えている。

「いいでしょう。航空隊司令官を筆頭に、全員でやりましょう。目覚ましい戦果を挙げてごらんにいれます。しかし、条件がある。この紫電改と歴戦の搭乗員に特攻を命令する以上は、海軍指導部の方々も参加されたい。後部座席にそれぞれ搭乗いただき、われわれ343空がどんな特攻をするか、その最期をとくと実見いただく。これが条件です。」

その後、中央からは二度と343空に特攻命令が伝達されることはなく、立ち消えとなった。

343空には、有名な撃墜王の一人である本田稔氏もいた。太平洋戦争を通じてほぼすべての戦闘機・爆撃機を操縦して、ほとんどの戦地を転戦してきた猛者である。通算撃墜記録は43機。

本田氏は、広島に原爆投下がなされたとき、確認されている限りでは、空からの唯一の日本人目撃者である。

当日、彼は紫電改で姫路から広島に接近。天気も良く広島城が見えてきたところで、いきなり機体ごと吹き飛ばされ、500mほど急降下したという。機体を立て直して前方を見ると、真っ白い火の玉のような光白い雲が上がり、その中心は赤みと黒みを帯びていた。ようやく高度を上昇させてみると、広島の街がなくなっていたという。

戦後、原爆投下をした爆撃機エノラ・ゲイの搭乗員たちが、一様に当日のこととして、日本の戦闘機が一機、エノラ・ゲイに接近してきたと証言しているが、本田氏は「わたしではない」と述べている。

「あのとき、わたし、爆撃機見てませんですしね。空中から爆弾が落とされたとは思っていなかったんですよ。下から爆発していたもので。」

その後長崎にも原爆投下となったため、343空では自ら特攻を計画した。それは、第三の原爆投下の情報が事前に察知された場合には、紫電改で爆撃機に特攻するという作戦である。この2番機に本田氏は志願している。2番機というのは、隊長機が特攻に失敗した場合に、間髪おかずに特攻する任務である。

終戦に際しては、当初天皇の処遇がはっきりしていなかったので、軍関係者が連携して天皇一家を匿う皇統護持作戦が計画されていた。343空からも志願者がこれに参加しており、本田氏もそうであった。

もともとこの志願者を募るにあたっては、終戦時、集団自決をしようという航空隊内での決議によって、自決の志願者が集められた。本田氏もその中にいたのだが、この集団自決志願の募集は、実は自決を目的とはしておらず、皇統護持作戦の参加者を決めるための「踏み絵」だったそうだ。結局、天皇制存続が決まり、作戦は取りやめとなった。

ちなみに本田氏は、戦後、航空自衛隊に入隊。パイロットの養成やテストパイロットを務める。1963年に退役。その後は三菱重工でテストパイロットを務めた。生涯の飛行時間は9800時間。その彼は、戦争中の最高の戦闘機は紫電改とマスタングP-51が日米戦闘機の双璧だとしている。

戦争末期(昭和20年実戦配備である)、流星のように現れては消えていった紫電改は、先述通り、終戦までの期間が短かったこともあり、わずか400機の量産にとどまった。

しかし、終戦間際の実戦投入だったという理由だけではない。川西航空機の製造工場が爆撃されたのである。昭和20年6月22日午前9時50分。B29爆撃編隊が、紫電改を製造していた川西航空機姫路製作所を襲ったのだ。播但線京口駅東にあった工場では、当時、動員で働きにきていた女子挺身隊120名を含む、中学生や近隣の住民ら、合計341人が死亡している。最後の切り札も、341人の犠牲とともにとうとう命脈を断たれた。紫電改を支えていたのは、生き残っていた歴戦のパイロットたちだけではない。この341人の犠牲が、紫電改という最後の栄光を支えていたのだ。

もっと早い段階、たとえば戦争中盤で、この最後の切り札・紫電改が、零戦並みの量産をされていたとしたら、かなり太平洋戦争の帰趨も変わったであろうと言われる名戦闘機だが、実戦配備から終戦までわずか半年ほどといい、わずか400機といい、あまりにも切り札の登場は遅きに失したと言わざるを得ない。



歴史・戦史