コードネーム『桐(きり)』~(4)日中和平工作の軍人たち
これは324回目。いよいよ、『桐工作』です。日米開戦直前から、敗戦間際まで、ぎりぎりの交渉が続きます。
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今井は、『桐工作』に没頭した。1939年12月に始まった極秘工作である。この年の7月には、ノモンハン事変が起こっている。ソ満国境で日本軍が、ソ連軍と全面衝突に入ったのである。
一般に、ノモンハン事変というと、日本軍がぼろ負けという話になっている。実際、全滅する部隊が相次いだし、日本軍指導部は予想以上にソ連軍が強力であることに脅威を覚えたのは事実だ。
しかし、近年のロシア公文書公開で、実は当時ソ連軍は、日本軍より多くのダメージを受けていたことが判明しており、当時の日本軍はその状況を入手できていなかっただけのことだということが、わかってきた。実質的にはソ連軍は、圧倒的な機甲師団を有していながら、敗北したのと同じだったのである。日本軍は、その事実にまったく気づいていなかったのだ。
いずれにしろ、当時の陸軍は、ソ連恐るべしという強迫観念にとらわれ、日露戦争以来一貫して仮想敵国・ソ連(ロシア)という方針を撤回し、戦争目標を中国や南方へと方向転換していくことになった。
ますます、日中戦争は和平から遠のきかねない状況である。今井は同年12月末、蒋介石夫人・宋美齢の弟・宗子文との接触を開始した。宋子文も、蒋介石政権を支えた四代財閥の一つだ。
翌年の会談では、正式な和平会議の前提を論議している。日中両国が私的使節を派遣し合い、予備会談を持つという決定にまでこぎつけた。
今井は、これを閑院宮参謀長、畑俊六陸軍大臣に報告し、さらに昭和天皇へと上奏がなされた。結果、参謀本部と陸軍省は、この工作を『桐工作』と命名し、予備会談を開催。今井武夫大佐ら3人を代表として、香港に派遣。中国側と会談が行われた。
香港での会談では、満州国の承認問題を巡って紛糾した。蒋介石・汪兆銘、そして日本側代表との三者会談による和平交渉という日本側の要求は、その後の会談や相互の連絡の応酬の結果、最終的に中国側が主張した「満州承認問題と支那における日本軍駐兵問題は、和平交渉の癌であり、日本側が譲歩しない限り、和平実現の見込み無し」という回答に至った。日本は、このとき、満州を絶対確保する一方で、支那からは全軍撤収することで、譲歩すべきだったのである。
第二次近衛内閣は、とくに陸軍大臣だった東条英機が激しくこの中国の回答に反発。このため、政府はいったん、この『桐工作』の中止を決定。
今井らはまだあきらめない。そこで、その後も、「汪兆銘・蒋介石政権の合作」「非併合・非賠償」「中国の独立」をベースに、繰り返し条件提示をしながら交渉を続行した。
しかし、蒋介石は、中国本土への日本軍の防共駐屯(中国共産党を潰すため、支那に日本軍が駐屯し、蒋介石軍を支援する)に断固反対。一方、東條英機陸相も、日本軍の無条件撤退に断固反対。
日本側が、あくまで支那領土であったモンゴルや華北地域への日本軍駐兵に固執したのは、蒋介石の背後にいるアメリカが、華北地域の共産化の危機を認識しており、日本軍駐屯による共産軍撲滅を理解するだろう、という期待があったためだ。
日本軍首脳部の、この状況認識の甘さが、『桐工作』を頓挫させた一番大きな要因だと言える。日本軍としては、中国がやがて共産化されてしまうことや、アメリカと開戦することは、最も避けたかった事態である。このへんは、戦後一般に知られている日本陸軍首脳部の唯我独尊的なイメージと、かなり異なる。つまり、日本陸軍首脳部は、中国の共産化を防ぐために駐兵にこだわったことが、逆に蒋介石の態度を硬化させ、さらには対米開戦を招くという皮肉な結果になったわけである。
『桐工作』は失敗した。太平洋戦争がはじまると、今井は歩兵第141連隊長として、フィリピンに出征。バターン半島攻略戦で、要衝を奪取する大金星を挙げ、投入旅団内で唯一の賞詞を受けている。
このとき、有名な「バターン死の行進」事件が起こっているが、今井の連隊にも、参謀辻正信が発したという、通信連絡が入った。今井の連隊が捕獲した1000人余りの米兵捕虜の、全員処刑命令であった。
今井は、「参謀は、気でも狂ったのか」とこれに抗命。「そのような重大な命令を、無線電信一本で送ってくるとはどういうことか。正式な文書で命令書を出してほしい」と反駁。結局、正式な命令書は届かなかった。証拠を残さないということであろうか。当然、今井は辻の命令に不信を抱く。
大いに不安を抱いた今井は、そこで、独断専行する。捕虜全員を武装解除させたのち、解放したのである。逃亡を許したのだ。明らかに、軍法違反だが、それ以外に選択肢はないというのが、今井の軍人としての矜持(きょうじ)だったのであろう。
陸軍上層部には、何を言い出すか、なにをやりだすか、見当もつかない妖怪がいる、と心底疑念を抱いていたのだ。これは一連の対中和平交渉で、ことごとく軍内部や上層部から横槍が入って、頓挫させられた苦い経験から来たものだ。
フィリピン占領後、今井は本国に返され、後、再び支那派遣軍に戻っている。総参謀副長、兼中国大使館駐在武官(陸軍少将)となる。1944年8月である。
終戦が近づく。あと1年で日本はポツダム宣言を受諾することになる、というこのとき、今井は敗色濃くなってきた戦況にかんがみ、中国との単独講和を早急にでも行い、連合国を切り崩すことを画策した。
終戦1ヶ月前、今井は軍服を脱ぎ捨て、中山服(中国服)に変え、敵地の河南省に潜入し、中国側の前線司令官・何柱国大将と最後の和平交渉を行った。大本営はこれに狂喜したが、ときすでに遅かった。敗戦である。
1945年8月、日本の無条件降伏後、岡村寧次支那派遣軍司令官の指示を受け、8月21日に、中国側が指定した湖南省に赴き、何応欣(かおうきん)総司令官らと、停戦交渉を行った。蒋介石の片腕、何応欣は、日本の陸軍士官学校第28期卒業生である。
(何応欣)
9月9日、南京で行われた支那派遣軍の投降式に出席。その直後、何応欣総司令官は、「今井少将は、戦犯ではない」と声明が発せられた。1年半、今井は南京に残留し、総連絡班長として、日本軍将兵の復員や、中国側から戦犯指定を受けた軍兵たちの援護活動に従事。日中戦争すべての後始末をした。
200万人とも言われる、在中国の日本軍将兵の引き揚げは、ソ連に侵攻された満州とはまったく異なり、比較的スムーズに行われたと言える。これは、今井が蒋介石や何応欣をはじめ、多くの中国側指導者たちと懇意であったことが、非常に大きく影響していることは間違いない。
家庭的には大変不幸な人であった。妻きみ子との間には、3男2女をもうけ、大変な子煩悩だったようだが、このうち3人に先立たれ、とくに次女の病死のショックは高齢になってからの出来事で、そこから立ち直れず、1982年6月12日、84歳で逝去。墓は多磨霊園にある。
後日談だが、2009年平成21年には、何応欣総司令官の長女と、今井の三男・長女が、今井の出身地長野市で初めて対面したそうである。
盧溝橋事件以来、敗戦に至るまでの約10年間をざっと振り返ってみた。その都度、日中和平を真剣に模索する軍人たちが、氷山の一角だけでもこれだけ出てくる。
それぞれの工作にかかわった、すべての軍人や民間人を挙げていくと、驚くほどの人々が必死に活路を開こうとしていたことがわかる。これらのあらゆる努力を無にしたのは、一体誰で、何だったのか。
もちろん、政府であったり、反対派の軍人や財閥であったりもしたろう。が、根本的には国民の無知と、それこそポピュリズムが最大の要因である。煽ったのは、朝日新聞などメディアや、有識者と呼ばれる妖怪たちである。これら妖怪の扇動に、まんまと乗せられた日本国民というものは、日露戦争以来、日本人はアジア人としての矜持を失っていたのである。一言でいえば、傲慢になったということに尽きる。
日本が悲劇に陥ったこの10年間というものは、すでにその30年前、日露戦争に勝った時点で、すでに病理が始まっていたと考えるべきだろう。
支那派遣軍の風紀紊乱を徹底的に綱紀粛正で正そうとした岡村寧次大将は、一方では自軍に初めて、慰安所を設置した将軍でもある。「日清日露戦争以来、皇軍の風紀は筆舌に尽くしがたいほど乱れ、悪化している」と嘆いている。その結果が、窮余の一策である慰安所の設置だったわけだ。
夏目漱石が、『三四郎』の中で、夜行列車で主人公と同席した乗客に言わせた一言は、恐ろしいほど的確な予言である。主人公は、駅頭で日露戦争勝利に沸く群衆を見て、「ロシアに勝ちましたね」というと、相席となった乗客は、冷たく一言「日本は滅びますね」とつぶやいている。それが、その後の日本のすべてを物語っている。
突き詰めれば、一体、明治維新とは何だったのか。わたしたちは、第一次上海事変から敗戦までの10年間をざっと見てきて、その原点であった明治維新そのものの意味を、もう一度考えなおしたほうがいいのかもしれない。