歴史は修正される(上)

歴史・戦史

これは346回目。よく日本で、首相や閣僚が靖国神社参拝をすると、韓国や中国が「歴史修正主義」だとして猛烈な非難をします。日本が、北方領土返還を口にすると、ロシアは「日本は第二次大戦の結果という事実を認める必要がある」と非難します。わたしは歴史は修正されなければならないと思っています。これまでNOTEにも何度か書いてきたことと、重複することも多くなると思いますが、「まとめ」を兼ねて、書いてみました。

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これらの非難というものは、私に言わせれば「歴史歪曲主義」や「歴史捏造主義」ということになる。歴史は常に、勝者によって規定されるので、後年、かならず事実に基づくデータによって、「修正されなければならない」のである。

勝敗が決まった後というのは、勝者のイデオロギー(つまり、勝者にとって都合の良いタテマエ)が支配されがちであるから、当然、年月の経過とともにそれは科学的事実に基づき、修正されなければならないのだ。

ただ、それには時間がかかるのだ。たとえば、日本では弥生時代に大陸から農業技術が伝来して、稲作が始まったという固定観念があったが、すでにその前の縄文時代に始まっていた証拠が出始めているのだ。

ごく最近まで、稲作が始まったのは弥生時代の初め、年代でいうと紀元前4~5世紀と推定されていた。

ところが平成15年の国立歴史民俗博物館の報告によると、弥生時代の土器に付着している「ふきこぼれ」の放射性炭素を加速器質量分析法(AMS法)によって測定したところ、考えられていたよりも500年も時代をさかのぼるという結果が出たというのだ。

これが正しいとすれば稲作が紀元前10世紀ごろに始まったということになる。 この報告は考古学の世界を震撼させている。 紀元前10世紀から5世紀までは縄文時代晩期そのものであり、稲作の始まった弥生時代と縄文時代晩期が全く重なってしまう事になるからである。

考古学の世界で長い間信じられてきたことをもう一度検証しなければならなくなったため、この問題をめぐって考古学界はいまや大論争の渦中にある。

さらに、岡山県灘崎町にある彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から、イネのプラントオパール(イネ科植物の葉などの細胞成分)が大量に見つかり、灘崎町教育委員会が発表した。この時期のプラントオパールが大量に見つかるのは全国初という。イネの栽培をうかがわせ、これまで栽培が始まったとされている縄文時代後期(約4000年前)をはるかにさかのぼる可能性がある。

この議論は、縄文時代にすでに日本では稲作が始まっていたと主張するものだが、これで「だから日本はなんでも中国大陸から学んだのではない。日本はすごいのだ」というナショナルなことを言いたいためではない。事実はなんだったのか、という真に科学的な探求なのである。

歴史というものは、裁判ではない。よく歴史の審判というが、それは間違いである。裁判といい、審判といい、しょせんそれは「解釈」にすぎない。死刑判決一つそうである。時代によって、解釈が変わってしまう典型的なものが、この死刑判決だ。だれがどう解釈しようと勝手だが(イデオロギーにこだわるのであれば)、歴史が科学である以上、事実がなんだったかがすべてである。

だから、歴史は新しい事実の発見によって、常に「修正されなければならない」のである。あるいは、これまでイデオロギーが邪魔をして、「わかっていたのに、敢えて見ようとしなかった事実」をはっきりさせなければならないのである。中国や韓国が、日本を「歴史修正主義者」といって批判するが、冗談ではない。それが「歴史修正主義」だというなら、堂々と言おう。「あたりまえだ。歴史は、修正されなければならないのだ。きみたちこそ歴史捏造・改讒(かいざん)主義だ」と。

日露戦争から、大東亜戦争(第二次大戦)まで、日本が行ってきた戦争は、(さまざまな帝国主義的な側面があったのは事実だが)大きな流れとしては一貫していた。つまり、アジアを支配する白人国家からの、解放である。これも一面の事実なのである。

日清日露戦争までは、完全に自衛戦争であった(これは反論の余地もない)。前近代国家であった日本が、西欧列強と伍していくために、まずは独立自存を維持しなければ、アジアやアフリカのように植民地にされるという危機感があったからである。

そのためには、列強との緩衝地帯として最も重要なヒンターランド(後背地)であった朝鮮半島が、日本と同じように近代化し、独立自尊を確固たるものにしてほしかったのだ。

日本もいろいろ工作してみたが、まったくの無駄であることがわかり、そうこうしているうちに、どんどんロシアが南下してくる。そこで、明治政府は日清戦争を起こしたのだ。

中国への依存心が過剰な朝鮮半島をまず、中国の支配地から解放し、独立させることが目的であった。中国の植民地ではなく、属国だった朝鮮を独立させるのだ。1894年の宣戦布告書にも筆頭に、そう明記されている。

そして、清国に勝って朝鮮を独立させたはいいが、これがどうにもまともに近代化しようとしない(大韓帝国)。既得権層が政争に明け暮れ、まったく近代化が進まないのだ。

挙句の果てには、ロシアの力を頼む一派、清国にすがりつく一派、そして日本を利用しようとする一派(これが主として近代化路線の一派であった)など、外圧を利用することばかりを考えて、国内は混乱の極みとなり、農民一揆も誘発した。

この混乱に乗じてロシアがついに出てきたのである。これはたまらんということになって、国家予算の5倍という戦時国債をユダヤ人に肩代わりしてもらい、日本はこの侵攻を跳ねのけた。

これが1904年の日露戦争だ。どうにも近代化が進まない朝鮮半島に業を煮やして、ロシアの侵略を跳ねのけた後、とうとう朝鮮半島を保護国化した。かなり強引な合邦であったことは確かである。ただ、伊藤博文が主導していたことが、朝鮮にとってはまだ救いだった。近代化の後は、独立というシナリオも用意されていたからだ。

ところが、まったくそういう事情に疎い熱血漢の朝鮮人ナショナリスト・安重根によって、伊藤博文が暗殺されてしまったので、このもっとも理想的なシナリオは消えてしまった。歯止めがなくなったのだ。日本国内の大陸進出派によって、完全に大日本帝国に組み込まれてしまった。

このNOTEでもよく述べているが、朝鮮半島は植民地ではない。完全に日本である。もし首都を京城に置き、国号を「極東帝国」とでもしていたら、果たしてその後の韓国人は、「日帝の海外侵略」などと言っただろうか。当時、日本には利益収奪と、奴隷的使役を強制するような植民地は、一つも無かったのだ。百歩譲ってそれが「植民地」だったとしても、世界の「植民地」の常識からはかけ離れた、きわめて異質なものであったことは間違いない。

(続く)



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