歴史は修正される(下)

歴史・戦史

これは348回目。日中戦争から太平洋戦争までです。

:::

さて、泥沼の日中戦争から、太平洋戦争に発展していったわけだが、最終決戦は日米の戦いである。中華民国など軍事的には敵ではなかった。ただ長期化は免れなかった。

日本陸軍でさえ、泥沼の中国戦線から手を引いて、対米戦に備えたかったのだが、ことごとく日中和平交渉は、日米政権奥深くにまでソ連のコミンテルンの工作員が大量にはびこっていて邪魔をし、一つとして成果を見ることなく、対中戦争を続行しながらの対米戦に日本は引きずり込まれた。

それでもわずかに、蒋介石・中華民国相当と和平の可能性はあったのである。それは、満州を除く、漢民族居住地域から日本軍が撤兵するという条件だった。これを、最後の最後まで日本は受け入れることがなかったのである。

それは、ソ連という共産主義の脅威が北から迫っていたからだ。満州国だけでは、日本の自存自衛は確保できず、内蒙古・華北地域での少なくとも日本軍駐屯(植民支配や傀儡国家建設とまではいかなくても)だけは絶対に必要だと、日本軍は考えていたわけだ。そのため、この地域からの撤兵という判断ができなかったのである。そしてここに大きな考え違いがあった。アメリカも、共産化に対する防波堤としての日本を、尊重するに違いないという考え違いである。

それは、中国の(そして世界の)共産化を、アメリカだって恐れている「はずだ」という認識が日本軍に強かったからである。その認識が間違っていたのだ。当のアメリカ(ルーズベルト政権)はすでに、ソ連の世界的な工作機関であるコミンテルンによってがっちり固められいたという事実を、軽んじていたのだ。これは、在米大使館からほぼ正確な、ルーズベルト政権の事実上の赤化現象というものを報告されていながら、これを重視しなかったことに大きな誤断があった。

一方、日米開戦を主導したのは中国商圏から日本をたたき出したいアメリカである。在米日本資産の凍結、日系人の強制収容所入り(ドイツ系にさえしなかったことだ)、そして対日貿易禁止といった強硬措置を相次いで行い、日本を挑発したのは、アメリカである。

真珠湾攻撃の5か月前にすでに日本本土空爆計画にゴーサインを、ルーズベルト大統領が行っていたのは事実である。対米戦に限ってみれば、明らかに自存自衛の戦争であった。日本は、中国に実質的な米空軍(日本本土爆撃用)が中華民国空軍に偽装されて編入され始めたのを見てとって、真珠湾への先制攻撃を決めた格好になる。

この日本の自存自衛のための戦闘という解釈は、後に日本の占領軍最高指揮官となったマッカーサー元帥が、終戦後、帰国後して米連邦議会での証言ではっきり言っている。

「日本は絹産業以外には、固有の天然資源はほとんど何もないのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い。錫(すず)が無い、ゴムが無い。それら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。もし、これらの原料の供給を断ち切られたら、1000万から1200万の失業者が発生するであろうことを日本人は恐れていた。したがって、彼らは戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてだったのことだったのです。」

また、戦争中アメリカの外交政策立案にかかわっていた外交官ジョージ・ケナンはこう述べている。

「アメリカは日本の勢力を支那大陸、満州、朝鮮から駆逐したことで自分たちの目標を達成したかに見える。しかしその結果アメリカは過去半世紀にこの地域で日本が直面し、対処してきた問題と責任を日本に代わって引き受けなくてはならなくなっただけだ(共産主義拡大という問題に対する防波堤という責任)。」

両者の言っていることは、同じことである。つまり、日本は日清戦争以来、第二次大戦に至るまで、基本的に自存自衛のための戦争を行ってきただけのことで、これはどこの国にも認められている権利を行使しただけのことだというわけだ。

しかし、中華人民共和国の満州併合も、チベット侵攻も、北朝鮮の38度線突破も、すべて侵略であり、日本が行ってきた自存自衛のための戦争とは似ても似つかないものだということはあきらかである。

太平洋戦争は、本来大東亜戦争である。日本は、アメリカという強敵と戦争しなければならない羽目に陥り、万事窮して建てた旗は、「大東亜共栄圏」つまり、アジアから「白人勢力を駆逐する」というものだった。

それが、どこまで日本の政権にとって誠実なものであったかはともかくとして、そこにしか戦争遂行をする大義名分、正当性は無かったのである。

「自存自衛」では、スローガンとしては国民を奮起させるにはこころもとない。もっと積極的なインパクトを求めて、「大東亜共栄圏」というアジアの解放を旗印にしたのだ。アメリカとの戦争に、万が一にも勝利することは無い、と東条英機首相ですら思っていた戦争に突入したのである。

その動機は、「自存自衛」のための、大博打であると同時に、敗れたとしても歴史にその意義を刻み込む大義を掲げたといってもいい。つまり、日露戦争に勝利したとき、そのニュースを聞いてアジア中の人が、生涯の感動を覚えた、あの感動を呼び起こすことに日本は賭けたといってもいい。あの孫文でさえ、狂喜乱舞したのである。

インドの初代首相ネルーは、日露戦争のことを、子供への手紙で、こう書いている。

「アジアの一国である日本の勝利は、アジアのすべての国に大きな影響をあたえた。わたしは少年時代、どんなにそれに感激したかを、おまえによく話したことがあったものだ。たくさんのアジアの少年少女、そしておとなが、おなじ感激を経験したのだ。小さな日本が大きなロシアに勝ったことは、インドに深い印象を刻み付けた。日本がもっとも強大なヨーロッパの一国に対して勝つことができたならば、どうしてインドにできないといえようか。インド人はイギリス人に劣等感をもっていた。ヨーロッパ人は、アジアは遅れた所だから自分たちの支配を受けるのだと言っていたが、日本の勝利は、アジアの人々の心を救ったのだ。」

孫文はこう述べている。

「ヨーロッパの文化は進歩し、科学も進歩し工業生産も進歩し、武器もすぐれているし兵力も強大で、わがアジアにはとりえがないと考えた。どうしてもアジアは、ヨーロッパに抵抗できず、ヨーロッパの圧迫からぬけだすことができず、永久にヨーロッパの奴隷にならなければならないと考えたのであります。――きわめて悲観的な思想だったのであります――ところが、日本人がロシア人に勝ったのです。ヨーロッパに対してアジア民族が勝利したのは最近数百年の間にこれがはじめてでした。この戦争の影響がすぐ全アジアにつたわりますとアジアの全民族は、大きな驚きと喜びを感じ、とても大きな希望を抱いたのであります。「日本がロシアに勝ってからは、アジア全体の民族は、欧州を打ち破ろうと考え、盛んに独立運動を起こしました。すなわち、エジプト、ペルシャ、トルコ、アフガニスタン、アラビア等が相次いで独立運動を起こし、やがてインド人も独立運動を起こすようになりました。即ち日本が露国に勝った結果、アジア民族が独立に対する大いなる希望を抱くに至ったのであります」

ビルマの独立運動家、バー・モウはこう述べている。

「私は今でも、日露戦争と、日本が勝利を得たことを聞いたときの感動を思いおこすことができる。」

驚くべきことに、インドの遥か田舎の村々ですら、赤ん坊に日本の海軍大将(トーゴー)の名前をつける人が相次いだ(これは、フィンランド、トルコでも同じ現象が多発した)。

のちにノーベル賞を受賞する平和主義者のインド詩人・タゴールが、対馬海峡において、ロシア・バルチック艦隊が日本の連合艦隊に撃滅させられたというニュースを聞くや、ベンガル地方の田舎にある学校構内で学生たちを率い、にわかづくりの戦勝行進を行ったりもした。

西欧列強の大国・ロシアに、ちょんまげの時代からわずか40年という日本が、完全勝利したというニュースは、世界の歴史を根底から突き崩すインパクトだったのである。これは、ガンジーや、統一ベトナムのホー・チミンも、みな同じである。

タイの歴史教科書では、日露戦争についてこう書いてある。

「中国とロシアに対する日本の勝利は、ヨーロッパの植民地下にあるアジアの国々に影響を与え、小さな国のアジア人も、白人の大国ヨーロッパに勝てるかもしれないという確信をもたらした。この勝利はアジア諸国に影響を与えただけでなく、日本は自国の威力に自信をつけた。」

インドネシアの歴史教科書でも、アジアでの反応を次のように書いている。

「日本のロシアに対する勝利は、アジア民族に政治的自覚をもたらすとともに、アジア諸民族を西洋帝国主義に抵抗すべく立ち上がらせ、各地で独立を取り戻すための民族運動が起きた。」

一時的に、確かに往年の植民地主義にふらついたこともある。(対中政策)しかし、対米戦争では日本は、否が応にもこの日露戦争当時の「原点」に回帰せざるを得なかった。それが、大東亜共栄圏である。

紆余曲折はあるだろう、時代遅れの帝国主義(もはや新たな植民地候補地域が無くなっており、欧米自身がお互いの支配地の取り合いを避けようと思い始めていた)を残していた日本は、第一次大戦以降、この時代の変化を正確に、そして深刻に認識してはいなかったのは事実である。その甘さが、満州国建国以降、太平洋線戦争に至った日本の中の大きな原因であった。

しかし、帝国主義国同士は戦わない、という不文律を破ってでも、中国の巨大な商圏を獲得しようとして出てきたのがアメリカだ。相手が悪かった。日露戦争以来、ずっと日本はアメリカに不義理をしてきたのである。積年のうらみつらみ(満州の権益を分かち合おうと言うアメリカの申し出を、日本が拒否したのである)から、日本に本土空爆計画を進め、結果日本に先手必勝の真珠湾攻撃に踏み切らせたのである。

日本にとって太平洋戦争(大東亜戦争)は、ここにいたって、公式にアジア民族解放の戦となり、その本音は自存自衛であった。

一方、アメリカにとっては英米仏蘭というアジアに植民地を持つ国々に加勢し、あわよくば中国市場を独占しようとする、それこそ往年の帝国主義政策そのものだったといっていい。もちろんその裏には、アメリカをそう仕向けたスターリン・ソ連が放った膨大な数のコミンテルン工作員の意図でもあった。

歴史は、修正されなければならない。この間の事情はともあれ、結果がすべてである。太平洋戦争によって、たった一つのことだけがはっきりしている。欧州列強はアジアにおけるすべての植民地を失ったという事実である。

大東亜戦争というものが、なんのための戦いであったかは、いろいろな「解釈」がある。それはどうでもよい。事実はたった一つであり、歴史にしっかり刻んで永久保存しなければならないのは、日本は戦争で破滅した代わりに、アジアの独立自存という期待に答え、それを果たした、ということだけである。

解釈はいろいろあるだろう。勝手に言っていればよい。しかし、事実はたった一つであり、だれもこれを否定できないのだ。歴史は、必ず修正される。



歴史・戦史