ロスト・ジェネレーション

歴史・戦史

これは381回目。『失われた世代』と呼ばれるものがあります。古くは、第一次大戦に、20代を迎え、それまでの価値感が全崩壊してしまった世代です。今、日本でも『失われた世代』と呼ばれる人たちがいます。だいたい40代前半の方々でしょうか。

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だいたい、一世代というものを、10年単位で区切ってみよう。まずひとつの世代というものは、その前の世代(十年上の世代)に対して、アンチ(反)になる傾向がある。と、わたしは勝手にそう思っている。社会人としての「反抗期」だ。

とくに前の世代がとんでもない社会環境の悪化を招いてしまっていた場合、そのアンチ度というものは膨張する。

ここでは、人間を「かたまり」で論評することの危険性を踏まえて書く。たとえば、九州人はこういう性格だが、東北人はこういう性格だという場合、一般的な傾向としては言えるかもしれないが、個々の人間に落とし込んでいったとき、あまりにも個人差があって、アテにならないということだ。

大阪人は納豆が嫌いだという通説も、概論としてはそうかもしれないが、現実にわたしは納豆大好き大阪人を何人も知っている。そういうことだ。

わたしもよくここで、日本人とはとか、韓国人とはとか、いろいろわかったようなことを書いているが、それとて概論に過ぎない。個々の日本人や韓国人は、まったくそれに当てはまらないというケースは、あまりにも多いのだ。

この「かたまり」で語ることの危険性、乱暴さというものがつきまとう話だから、それを前提に読んでいただきたい。

アメリカで、ロスト・ジェネレーションと呼ばれたのは、第一次大戦における大量の犠牲により、伝統的な価値が音を立てて崩壊してしまうのを、目の当たりにした世代である。

親世代が持つヴィクトリア期のモラルに対して冷笑した世代である。第一次大戦という、未曾有の大殺戮を経験した彼らは、社会と既成の価値観に絶望し、生きる指針を失い、社会の中で迷った世代である。

アメリカではヘミングウェーや、フィッツィジェラルド、フォークナーなどが代表的な『失われた世代』の作家だ。

ヘミングウェーの著作、『日はまた昇る』や、『武器よさらば』はその典型だ。

多くは、浅いアメリカ文化を見捨て、欧州大陸へと出奔した。アメリカ経済絶好調の『Roaring Twenties(咆哮する二十年代)』を、冷ややかに、海の向こうから蔑視する者も多かった。

20代の青年期を第一次大戦に蹂躙され、戦死し、生き残ったが社会生活に支障を来たす負傷者も多かった。40代に当たる1930年代には世界大恐慌に遭遇し、50代を第二次大戦に翻弄されるという、言わば「貧乏くじ世代」であった。

翻って日本において、今、このロスト・ジェネレーション世代のことはつとに話題になる。

1990年のバブル崩壊から、約10年間の期間に就職活動をした人たちのことだ。つまり、1970年~1982年頃に生まれた世代がこれに該当する。

彼らはバブルの残像を知りながら、学卒時に就職氷河期を迎え、グローバル化や新自由主義経済が加速させた「格差社会」の中に投げ出される。その数は、2千万人弱。

雇用機会を均等に与えられなかっただけでなく、長期のデフレ経済不況下にあって、非正規から正規雇用、再就職といった再チャレンジの道も閉ざされた。

90年のバブル崩壊と、その後の長期デフレ経済というものは、「第二の敗戦」とも称されるが、戦争ではないから戦死者こそゼロであったが、精神的ダメージは、敗戦なみの大きさだったと言える。

その意味では、アメリカのかつての「貧乏くじ世代」と似てなくもない、

2008年の金融危機による「派遣切り」の被害者も、非正規雇用者が多いこの世代に集中した。

上の世代からは、内向きで覇気がないなどと批判されがちだが、インターネット世代でもある彼らは、家族・地域・会社といった伝統的共同体とは別の「見えない他者」との緩やかな連帯を求める傾向が強い、と評される。

日本の世代をざっくり言えば、70年代前半に学卒として社会人となった人たちが、戦後生まれの団塊世代の中心である。1947年~1949年生まれの人たちだ。

わたしのように、その直後、80年代初頭に社会に出た世代は、圧倒的な数の団塊世代に対して、まったくの少数派で、アンチ団塊という傾向があるかもしれない。わたしの世代は、1950年代(昭和30年代前半)生まれの世代である。若干、1960年代初頭生まれまでも含んで語られるようだ。

このわたしの世代は、どうもどこの部類にも入らないのだ。微妙に前後の世代と、重なるような重ならないようなところに位置している。そもそも、圧倒的に人口が少ない。少数派世代なのだ。

団塊世代には頭を押さえつけられ(一生、出世できない世代と呼ばれた)、不愉快な思いを強いられ、後から押し寄せてくる多くの1960年代生まれ(新人類世代)の、意味不明な世界観に当惑しと、およそ、どっちつかずのところにいるのが、昭和30年代前半生まれのわたしのような少数派なのである。

『新人類世代』というのは、社会を構成する一員の自覚と責任を引き受けることを拒否し、社会そのものが一つのフィクション(物語)であるという立場をとるとされた。サブカルチャーが一気に盛り上がっていったのは、この世代のときだ。

そしてこの後来たのが、『失われた世代』である。完全にインターネット世代といっていいだろう。

第二次大戦直後と同じく、未曾有の「敗戦」と、最悪の経済環境の中で、社会に飛びだった彼らは、正直「不遇」の人生を強いられたといっていい。

では今の『失われた世代』は気の毒な世代なのだろうか?

どうもそうではないかもしれないのだ。

先日、1月25日の日経新聞、有名な『大機小機』というコラムにはこんなことが書いてあった。

『就職氷河期世代(いわゆるロスト・ジェネレーション世代だ)』は、現在も不本意に、不安定な仕事に就くなど、厳しい生活を強いられている人が少なくない。

世代別の消費動向を40代前半の時点で比較しても、収入の少なさや不安定さから、実質消費支出率が、その上の世代に比べて、5-10%超も低いという試算結果もあるという。

ところが、である。一方で彼らは、日本経済の将来を担うスーパースターを最も多く排出しつつある世代でもあるというのだ。

たとえば、「フォーブスジャパン」で2019年における日本の長者番付トップ50を見ると、その大半はたしかに65歳以上の高齢者(多くは団塊の世代)である中、40代前半がすでに5人もランクインしているという。

これは、売り手市場だった80年代末から90年代初頭に社会に出たバブル世代(多くは新人類世代)のランク入りがゼロであったのとはあまりにも好対照である。

まだランク入りこそしていないが、日本のベンチャー企業の旗手たちの中でも、ロスト・ジェネレーション世代は中心的な存在になっていることは間違いない。

コラムも言っている。世代を平均像だけで語るのはバランスを欠くと。しかし、ごく一握りのスーパースターにすぎないと片付けず、なぜこれら「割りを食った」ロスト・ジェネレーション世代の中で、スーパースターが次々と誕生したのかということを、真剣に考えるべきだと。

まったくそのとおりだろう。年寄り(わたしを含めて)が、だらしなさすぎるのである。

常に、国家や民族を駄目にするのは、若者ではない。年寄りだと相場は決まっているのだ。ロスト・ジェネレーション世代は、そうした過去の世代に静かに、そして冷ややかに「アンチ」を訴えているのだ。



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