用兵の基本

歴史・戦史

これは407回目。

正攻法の戦術論というものがあります。クラウゼヴィッツの戦争論です。掲題の絵は、アウステルリッツの戦いで、ナポレオンが投入したイスラム教徒たちのマムルーク騎兵隊(後の外人部隊につながる系譜)の攻撃の様子です。

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古来、用兵には古典的なパターンが知られていた。包囲戦、陽動戦、奇襲戦、斜線陣形攻撃等々。19世紀になると、これに鉄道という輸送手段の発達が加わったことで、いわゆる電撃戦というパターンも生まれた。第二次大戦後は、新たにゲリラ戦という劇的な戦闘様式の変化も現れた。しかし、いずれも基本は同じだ。これらのうち、もっともオーソドックスな用兵が、三段攻勢によって成るものだ。

この三段攻勢が、理論的に構築されるようになったのは、18世紀のプロイセン(現ドイツ)の軍人、カール・フォン・クラウゼヴィッツが残した『戦争論』によってである。

(クラウゼヴィッツ)

後世、多くの軍人たちによって近代戦術のバイブルとして読み継がれた名著が『戦争論』だが、その中には、攻勢限界点や勝敗分岐点など、さまざまな戦術ロジックが網羅されている。一般によく知られている、「攻撃は最大の防御にして、その逆もまた真なり」という名言もこの著作が原典である。

クラウゼヴィッツがこの、近代戦術論のバイブルを書き上げることができたのは、実際に生涯にわたって、ナポレオンと夥しい戦いを繰り広げることができたためである。優秀なプロイセンの陸軍首脳、グナイゼナウやシャルンホルストといった将軍たちのもとで、各戦線に参加し、実地で徹底的にナポレオンの戦術を生涯にわたって研究し尽くした。敗戦に次ぐ敗戦の中で、そこからクラウゼヴィッツは、ナポレオンの近代戦術論のエッセンスを抽出し、用兵の記念碑的大著を表すことができたわけだ。

ナポレオンが行った幾多の戦勝パターンのうち、最も完成度が高いとされているのが、即位からちょうど一周年記念にあたる1805年のアウステルリッツの三帝会戦である。オーストリア皇帝フランツ二世、ロシア皇帝アレクサンドル一世が参加したので、三帝会戦と呼ばれる。

(アレクサンドル一世)

実は、このときナポレオンが見せた、いわゆる三段攻勢は、株式投資などの基本戦術に通じるものがある。というより、同じである。

ポイントは、威力偵察(あるいは、陽動戦)を分散して行い、長い戦線のうちどこが最終的に勝敗の分かれ道になる決勝点かを見極め、そこに兵力を集中し突破する。あとは、分断された敵を、各個に撃破・殲滅する。このような、段階を踏む。

投資に置き換えれば、分散投資をして、どれが強いのか、含み益を伸ばしてくるのか、それを見極める。そこに、どんどん資金を寄せていき、最終的にはこの主力銘柄を売り抜ける、ということにでもなろうか。

もちろん、陽動戦は、いわゆる「罠」「偽計」であるから、投資運用の世界には当てはまらないが、分散投資ということは、もろに当てはまる。ちなみに陽動戦というのは、威力偵察の段階で、なかなか敵の弱点(その戦闘の決勝分岐点)が定まらない場合に、言わば「ひっかけ」を弄することで、敵の弱点を露呈させるということだ。あるいは、偽計によって、敵を誘導し、敵に弱点をつくらせてしまうということだ。

聞けば、簡単な話なのだ。だが、実際の戦争でも、また投資でも、この基本の戦術をうまく完遂することは、意外に難しいのだ。分散投資(威力偵察)の段階で、思わぬ異変や展開がこまかく続出するので、心が千々に乱れがちになる。その結果、大局の判断を誤り、自滅に追い込まれてしまうのが普通だ。

ここで、ナポレオンが見せた、生涯最高の芸術作品とさえ呼ばれた、アウステルリッツの圧勝パターンを実際に見てみよう。

(現在のアウステルリッツ)

1805年時点で、ナポレオンの率いる「グランダルメ(大陸軍)」は、総動員可能兵力で35万人だった。このうち、アウステルリッツに進出したのは7万3000人と言われている。一方、オーストリア・ロシア連合軍は8万5000人という。数的に劣勢というのが通説だったが、近年の詳しい研究で、おそらくほとんど全動員数では互角で、8万人前後ではなかったか、とされている。また、主力の歩兵に限っていれば、フランス軍のほうが多数であったという研究結果が出てきているようだ。

12月2日、午前5時。早朝より、この地方特有の濃霧に戦場予定地は覆われていた。ゴルトバッハ河をはさんで、東に連合軍、西にフランス軍が布陣していた。すでに、中央のプラッツェン高地には、ロシア軍主力が陣取っており、明らかに仏軍が不利な陣形であった。

ナポレオンの配置は、右翼(地図では一番下のほう)、テルニッツ村とゴルトバッハ河を前にしたダヴー将軍の軍団が、数的にもきわめて少なかった。連合軍は、ここを仏軍の弱点と判断した。しかし、これはナポレオンの罠(陽動戦)にほかならなかったのだ。

連合軍の主導権を握っていたロシア軍部は、仏軍のこの弱点と目される右翼(南翼)を一気に粉砕しようと図った。仏軍の脆弱さが確認されれば、仏軍左翼にも攻勢をかけることで、仏軍全体を包囲殲滅する方針だ。

(会戦前の布陣)

左の赤が仏軍。右の黄が、連合軍である。

ところが、ロシア軍の総司令官だったクトゥーゾフ元帥(隻眼の名将である)は、反対した。この仏軍の布陣が、ナポレオンが自分たちを陽動戦に引きずり込む罠ではないか、と疑っていたのだ。ふだん、戦場で居眠りばかりしているクトゥーゾフだが、さすがにナポレオンの意図を、布陣を見ただけで見抜いていた。

(クトゥーゾフ元帥)

残念ながら、ロシアのアレクサンドル一世はこのクトゥーゾフの懸念を退け、作戦計画通りに包囲殲滅戦を下令した。

クトゥーゾフ元帥の懸念は、包囲戦を展開することにより、自軍の中央主力が占領しているプラッツェン高地が、手薄になることだった。そして、ナポレオンの狙いは、まさにそこだったのである。連合軍がこの陽動的な布陣に、引っかかるかどうか、だったわけである。

(ロシア軍近衛兵)

夜明けとともに、次第に濃霧が晴れてきた。連合軍の主力は、中央のプラッツェン高地から兵力移動を繰り返し、自軍の左翼を強化。仏軍右翼のダヴー軍団を圧迫し始めた。もともとダヴー軍団は4千300人しかいない。4万の連合軍の波状攻撃で、次第に後退を余儀なくされ、沼沢地帯を通過した。仏軍の戦線は、次第に凸型になり、右翼までの兵站が伸びきった。

(ダヴー軍団を圧迫する連合軍主力)

ダヴー軍団の遥か後方には、仏軍全体の補給基地があったから、連合軍はこのダヴーを撃破すれば、仏軍の補給も抑えることができる。連合軍主力はどんどん攻勢を強めて、ダヴー軍団を押しまくった。しかし、ダヴーは以前も詳しく書いたが、仏軍最高レベルの名将だった。圧倒的多数の連合軍を一手に引き受け、継戦しながら見事に時間稼ぎの後退戦術を実施した。

一方、仏軍の左翼にも、連合軍はバグラチオン元帥4万が攻撃を開始し、仏軍左翼のラヌ軍団1万3000人と激突。ランヌ軍団は優秀な軽騎兵を主力としており、バグラチオン軍の攻撃を、数度にわたって撃退することに成功している。

この間にも、連合軍の中央主力はプラッツェン高地から南に展開・移動し、仏軍右翼ダヴー軍団への圧迫を強めていった。クトゥーゾフ元帥は、再びロシア皇帝に、自軍の中央が空白になる、と警告したが、勝利を確信していたアレクサンドル一世は聞き入れなかった。

午前8時。濃霧が晴れてきた。連合軍の中央プラッツェン高地(高度10-15mのなだらかな丘陵である)が、手薄になったのを確認したナポレオンは、予測済みの事態を得て、主力のスールト軍団に、高地への強襲を命令。すでに、中央に集結していたその他の予備軍(主に胸甲騎兵を中心とした各種騎兵集団)の援護を得て、仏軍は主力のほどんどを、プラッツェン高地奪取に振り向けた。中央での戦闘開始は8時45分だった。このときナポレオンは副官に言った。

「この戦争は、ただ一撃で決まる」

(フランス軍近衛兵)

この時点で、戦線は南北4kmにわたる長いものとなっていた。北翼では、ランヌ軍団が、4倍近いバグラチオンの猛攻に耐えていた。南翼では、意図的とはいえ、わずか4300人のダヴー軍団が、連合軍の主力のほどんどを引き受けて、猛戦しながら後退していた。そこで、仏軍の総力を結集した中央で、突如、プラッツェン高地強襲が始まったのだ。

(仏軍の、プラッツェン高地強襲)

狼狽した連合軍は、ダヴー軍団圧迫に向けていた中央主力のうち、移動が遅れていた部隊を引き戻し、強襲をかけてきた仏軍主力に抵抗。一度は押し返された仏軍だったが、スールト軍団のサンティレール師団とヴァンダム師団の死に物狂いの銃剣突撃で、ついにプラッツェン高地は仏軍の手に落ちる。

にわかに劣勢となった連合軍は、ロシア皇帝が近衛騎兵を投入。ナポレオンも、これに対して近衛擲弾兵とマムルーク騎兵隊を投入。多数の騎兵同士が激突する結果となった。この騎兵戦で連合軍を退けた仏軍は、完全に中央突破に成功。午前10時である。左翼(北翼)のランヌ軍団と、右翼(南翼)ダヴー軍団を、敵の背後から挟撃することで、友軍を支援する格好になっていった。ダヴー軍団はこの段階で、突如として逆襲に転じている。ナポレオンによる総攻撃の命令である。

(大勢が決した時点での、ナポレオンと仏軍首脳)

この仏軍が連合軍の両翼を各個撃破に入ると、挟撃された連合軍兵士はパニック状態に陥り、壊滅した。

(各個撃破に入る仏軍)

午後2時には、ほぼすべての戦線で大勢は決していた。仏軍と連合軍の被害は以下の通り。

●仏軍:
戦死1305人
負傷6940人
捕虜573人
軍旗1本喪失

●連合軍:
戦死15000人
捕虜20000人
砲180門
軍旗50本喪失

ナポレオンの圧勝だった。これでナポレオン即位一周年で、フランス帝国を潰そうとした英普墺露による対仏大同盟は瓦解した。

(フランスの胸甲騎兵-現在も当時と同じ)

このアウステルリッツの会戦は、長くその後戦史の典型的な完勝パターンとして、現在まで各国の兵学校で学ばれている。しかし、なにも血を流す戦争だけではなく、おそらく経営でも、投資でもパターンは同じである。まずは、定石をきちっと覚えるということだ。定石が身に付いたら、それはもはや定石ではなくなる。本能と化すからである。それこそが、定石(型)を学ぶということの、本質的な意味なのだ。



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