日本人とユダヤ人

歴史・戦史

これは38回目。一見、日本人とユダヤ人は縁もゆかりもなさそうですが、ユダヤ人の父系にしか伝わらないYAP遺伝子を集団で有するのは、チベット人、アンダマン諸島人、そして日本人だけだそうです。日本人男性の3分の1はユダヤ人と共通のYAP遺伝子を持っているそうです。ちなみに、わたしにはありません。

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どういうわけか、ユダヤ人は日本人が好きらしい。古来、特別関係が深かったわけでもない。考えられるのは、何人かの日本人が、危機にあるユダヤ人を多数救ったという歴史的な事実があるくらいだろうか。日本人は、とうに忘れた話でも、ユダヤ人は決して忘れてはいない。

戦前、ユダヤ人を救ったということで大変有名なのは杉原地畝(ちうね)だろう。第2次大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉浦は、ナチスの迫害によって逃れてきた欧州各地の難民に対し、外務省訓命を無視して、大量のビザを発給。およそ6000人を救ったとされている。多くがユダヤ人だった。「日本のシンドラー」と呼ばれる人物だ。

杉原は外交官である。やろうと思えばできる立場にあった。しかし、もっと「まずい立場」にいた人間だったら、どうだろうか。樋口季一郎は、戦前、満州はハルビンで特務機関長をやっていた。陸軍少将である。いうなれば、スパイの親玉だ。

1938年3月、ソ連と満州の国境に、同じくナチスに追われ、シベリアを延々と渡って極東に逃げてきた避難民がいた。国境の駅はオトポールという。後に、オトポール事件として、日独関係を大いに揺るがせる大事件の舞台となった。オトポールに殺到した避難民の多くはユダヤ人であり、折からの寒気と食料不足、病気で倒れる人々が続出していた。

満州国は当時、日本の傀儡(かいらい)だったため、日本の盟邦ドイツの顔色を伺い、避難民の入国をためらっていた。避難民たちの多くは、満州を通過して、上海や、南北アメリカへの亡命を望んでいたのだが、それに手を貸すとドイツが黙っていないということで、逡巡していたのだ。

樋口はユダヤ協会と交流があり、極東ユダヤ人協会の会長アブラハム・カウフマンと親しかった。 オトポールのユダヤ人窮状を聞かされた樋口は、部下の河村愛三少佐とともに動いた。

当時、満州鉄道総裁だった松岡洋右(後の外相、国際連盟脱退のときの全権大使である)に即日、独断で特別列車の要請をする。さらに、満州国に入国するビザの発給と、そこから外国への出国の斡旋を断行。

松岡も要請を受け、すぐに動いた。東亜旅行社(現在のJTB)が難民救済の緊急列車を続々とオトポールに走らせた。

一説には2万人と言われるが、実数5000人くらいのようである。有名な杉原千畝(すぎはらちうね)の「命のビザ」という話も、ユダヤ人救出だが、このオトポール事件の2年以上も後の話になる。

JTBの記録によると、この時点でソ連から満州に入国した避難民は460人前後。後のソ連参戦までの間に、4500人前後にまで増加している。そのすべてがユダヤ人だったわけではないだろう。またその救出人数も、数十人から2万人と諸説紛々であり、いまだに正確なところはわかっていない。

ただ現地の案内所の局員の回想録では、列車が到着するごとに避難民が殺到するので、4人の局員ではビザの発給手続きがとても間に合わなかったというから、相当の人数であったことは間違いなさそうだ。

この樋口の独断は、東京の軍本部で大問題となった。なにしろナチスからは、ユダヤ人を拘束して、ドイツに送るよう要請されていたからである。リッベントロップ外相から、オットー駐日大使を通じ、日本政府に猛抗議をしてきた。

外務省も、陸軍省も、樋口の独断専行を問題視し、関東軍にドイツの抗議書を回付した。

関東軍参謀長だった東条は、樋口を呼び出し、詰問した。樋口は、こう答えている。

「小官は、自分のとった行為を間違ったものではないと信じます。満州国は、日本の属国でもないし、いわんやドイツの属国でもない。独立した法治国家として、当然とるべきことをしたにすぎません。たとえドイツが日本の盟邦であり、ユダヤ民族抹殺がドイツの国策であったとしても、人道に反するドイツの処置に、我々が屈するわけにはいかない。参謀長、ヒトラーのお先棒を担いで、弱いものいじめをすることが、正しいと思われますか」

樋口は、後にこのときのことを回想して、『東條という人は、筋を通せば、話の分かる人だ』と述べている。

結果、東條は納得した。そして、ドイツの抗議に対して、「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と、これを一蹴している。東條というのは、こういう人物である。 国際連盟脱退という歴史的事件を起こし、日本の孤立化を決定的にしたイメージの強い松岡にしろ、この東條にしろ、一面的な見方で「悪のレッテル」を貼るのはあまりにも短絡的である。

さて、それから7年後、樋口は樺太、千島列島の防衛を担う第5方面軍の司令官となっていた。中将である。対米防衛戦に主力を傾けていたので、ソ連に対しては(不可侵条約もあった)手薄になっていた。終戦間際、ご存知のように火事場泥棒さながらにソ連軍が侵攻してきたのである。一般には、北海道を分割する案をソ連は要求していたとされていたが、近年ロシアで公開された文書から、北海道全島支配を企図していたことが明らかになっている。

樋口の所管である南樺太には8月11日に、千島列島北端の占守(しゅむ)島には18日に、大挙してソ連軍は侵攻してきた。樺太では邦人居留民がたくさんいたから軍民入り乱れての凄惨な状況となった。樋口は、大本営の戦闘停止命令も無視して、「徹底抗戦」を下令した。いわゆる、「8月15日からの戦争」である。

占守島では、とくに第11戦車隊が死闘を繰り広げ、21日にはソ連軍は3倍の戦死者を出して停戦を余儀なくされた。南樺太では救援が間に合わず、壊滅的状況となったが、その抵抗はすさまじく25日まで続いた。いずれにしろ、両地域での日本側の抵抗はソ連側の予想を超えたもので、スターリンの北海道侵攻は頓挫した。

以前からスターリンは、米トルーマン大統領に北海道の取得を要求していたが、これを拒否する米国側の回答は8月18日になされている。実際にスターリンが侵攻作戦中止を命令したのが22日であるから、4日もかかっていることになる。

スターリンとしては、9月2日に予定されていた、日本と連合国との降伏文書調印式までの間に、北海道占領の既成事実化が可能かどうか模索していたようだ。だが、18日の占守島でのソ連軍敗退と、南樺太占領が大幅に遅滞したことで、作戦継続は困難と判断したようだ。

おさまらなかったのは、当のスターリン本人である。樋口の徹底抗戦命令に激怒し、戦犯指定にした挙句、マッカーサーのGHQに対し、身柄引き渡しを要求した。樋口、2度目の危機である。今度は命がかかっている。

これを知ったのは国際ユダヤ人協会だ。彼らは、樋口の危機を知って(命の恩人とはいえ、よくあの混乱の中で樋口の動性をウォッチしていたものだ、と感心するが)、欧米の金融家を動員し、米国において猛烈なロビー活動を行なった。結果、米国政府が動き、マッカーサーはただちに樋口の身柄を保護。ソ連の要求を拒否したのだ。

現在、エルサレムの丘の「ゴールデンブック(黄金の碑)」には、「偉大なる人道主義者 ジェネラル・ヒグチ」の名が刻印されている。日本人の多くに知られることなく、あるいは忘れられてしまった一人の軍人の名だが、ユダヤ人は忘れてはいない。いや、ユダヤ人のほうが知っているというより、日本人が日本人のことをあまりにも知らなさ過ぎるのかもしれない。

杉原なら聞いたことはあるが、樋口の名前など聞いたことがない。文民なら良いが、軍人の話は敬遠する。そういった戦後の偏った風潮が、この国の国民の知識をいびつなものにし、客観的な思考を出来ないようにしている。外国人に聞かなければ、自分たちのことが分からないという私たちは、どこか間違った国の作り方をしてきたに違いない。ユダヤ人の日本人好きは、そんなことを教えてくれる。



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