命がけのリストラ~反逆の武士道。
これは54回目、デフレ時代に限らず、不況下では人員整理が行われる。リストラというのは、一見、命のやりとりをするわけでもないのだが、状況によっては、本人も家族も路頭に迷い、場合によっては一家心中まで引き起こす。やはり、雇用というのは大切だ。
実際、武士の時代、リストラは命がけであった。江戸時代初期、島原の乱の後に熊本は細川家で起こった家臣誅戮事件の例を挙げよう。
森鴎外の小説に「阿部一族」というのがある。これは、事件当時の隣人が書き残した覚書きなどをベースにして書かれた小説だ。鴎外は、明治を過ぎると、まったく創作小説を書かなくなり、史実のみを書いた。それでも、事実はどうも「阿部一族」に書かれているものとは違うようだ。
小説では、おおむねこういった内容になっている。
阿部弥一右衛門は、豊前・豊後にいた豪族だった。優秀だったので藩主・細川忠利(ただとし)に士分として取り立てられた。忠利の熊本入りしている。郡奉行として1500石の知行取りにまで栄達。
しかし、もともと細川氏の家臣でなかった阿部弥一右衛門は、もとから細川氏に仕える家臣たちから妬まれる。『祖父の代から仕えているのに、俺は500石。阿部は1500石。』といった感じだ。
寛永18年・1641年3月17日、細川忠利は病死。忠利の領地は、忠利の嫡子・光貞(のち光尚(みつなお)に継承された。忠利も、また光尚も、「殉死を禁じる」旨を発布していたのだが、結局、19人の藩士が殉死した。
弥一右衛門は、忠利から生前、直接「殉死してはならぬ」と申し渡されていたが、次々と殉死者が続出していく過程で、藩内では非難・中傷を受ける羽目になった。「あれだけ、目をかけてもらったあいつが、殉死しないでのうのうと生きている。」というやつだ。
とうとう、弥一右衛門は殉死するが、これがまた、主君の命令に背いたということでとがめられた。先代の一周忌の法要で、弥一右衛門の嫡子(ちゃくし)・権兵衛は、髻(まげ、もとどり)を切るという振る舞いに出る。これが前代未聞の不敬とみなされ、捕縛され、罪人として縛り首になる。一族は、自宅に立て篭(こ)もり、藩の追手を迎え討ち、妻子もろとも全滅する。
このあらすじだが、違うのは、その理由である。鴎外は、おもに武士道の名誉にかかわる問題として、この殉死というものを取上げている。相当、乃木陸軍大将が、明治天皇崩御・大葬の際に殉死した事件に、大きく心を揺さぶられて書いたようだ。
ところが、史実は、後の研究によると、どうもそうした名誉の問題というよりも、もっと現実的な話らしい。
要するに、忠利によって出身に関係なく、能力がある者をどんどん取り立てられていった過程で、阿部一族はいわば肥後藩・細川家中において新参者であったわけだ。それが栄達して、古くからの家臣団は面白くなかった。
それだけならよい。ところが、江戸時代も島原の乱を過ぎると、名実ともに平和な時代となり、戦(いくさ)が無くなった。折りしも、戦国時代の金銀バブル時代がはじけたあとだけに、経済も金融も収縮に収縮を続け、究極のリサイクル社会へ向かっていた最中だ。
細川家では、猛烈なリストラを始めており、光尚の代になってそれは鮮明化した。阿部一族に限らず、誰しもその煽りを受けて動揺したわけだが、阿部一族はとくに1500石という大きな俸禄を受けていただけに、石高が小さい古参の家臣団からや、とくに怨嗟のまなざしを向けられていた。
通常、殉死者の後継者は、一人ですべてを継承する。19人の殉死者のうち、18人はそうだったが、安倍一族の場合には、兄弟で分割して継承するようにとの沙汰がでて、これに反発したらしい。(ちなみに弥一右衛門が、前藩主から殉死を禁じられていたのを妬んで、誹謗中傷された挙句、結局殉死に追い込まれたということも無かったようだ。弥一右衛門の殉死は、他の18人と同日であることが確認されている。)
跡取りの権兵衛は、てっきり自分にすべて与えられると思っていたので、面白くない。そこで、忠利の追善供養の席上で、相続の石高・役高に不公平があったとし、焼香の際に髷を切って、忠利宛ての書状(訴状)といっしょに墓前に供えるという事件を起こしたようである。この藩主への抵抗、批判、面当てともいうべき不祥事によって、権兵衛は捕らえられ、拘禁された。
権兵衛の弟たちは、忠利の法要のために熊本に来ていた京都大徳寺の僧・天佑上人に、光尚に命乞いをしてほしいと頼むが、天佑上人は光尚に会えないまま帰京。弟たちは自分たちも処分されると覚悟し、権兵衛の屋敷に集まり、討手が来たら斬り死覚悟で迎え撃とう決めた。
このとき妻子は皆斬り殺し、埋葬したと記録があるようだ。そして、運命の日、乗り込んできた藩士たちと朝6時頃から戦い、午後3時ごろに、阿部一族は徹底抗戦の末、ついに全員皆殺しとなった。権兵衛が、罪人として縛り首の刑を受けたのは、藩の記録によると一年後である。
新参の阿部一族が、貢献度に応じて前藩主に重用されていた事実、代替わりになってから、リストラが強化されて、藩内の憎悪を浴びていた事実、そして阿部一族は時代の流れに逆らい全滅した事実、と要点を並べていくと、単純に武士の名誉の問題とは論点が違うようだ。
もともと武士というのは、「一所懸命(一生懸命ではない、一所懸命が正しい)」といって、食い扶持となる生産性のある土地を、支配者に安堵してもらい、反対に武士のほうでは支配者に忠勤を尽くすという、いわば「雇用契約」である。「一所」が損なわれるのであれば、謀反を起こして当然。
しかもその「一所」とは、武士の能力や功績に応じて与えられる。戦国時代、それはもっと鮮明で、自分を上手に使ってくれない領主のところは、さっさとお暇(いとま)して、別の領主のところへ再就職していくのが普通だった。実際、「主君を7度変えて一人前(藤堂高虎)」とすら言われていた。いまのアメリカみたいな労働力の流動性があったとも言える。
一人の主君に、一生忠勤を尽くすような倫理が求められたのは、幕藩体制が固まって、武士の一藩への定着性を促進するための方便にすぎない。
いずれにしろ、「阿部一族」に見られるような、物事に生き死にを賭けていた武士たちの、食い扶持のために命を捨てる有様を、果たして笑って読み飛ばせるものだろうか。やはり雇用というのは、それほど重大なことなのだろう。