セピア色の時代よ、原色で蘇れ。

歴史・戦史

これは59回目。もう来年(2020年)は東京オリンピックです。「成熟した先進国・日本」だからなのでしょうか、あまり盛り上がりを感じません。オリンピック自体のことを言っているのではありません。時代の空気のことです。

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日本で、それも東京でオリンピックが開催されるのはこれで二度目だ。人生のうちで、二度、オリンピックを自分の国で経験できるなど、有難いことだと思うと同時に、やはり感無量なのは、歳をとったせいだろうか。

大きく時代の流れが変わったかつての「昭和30年代」に、今をどうしても重ね合わせてしまう。同じような大きな時代の転換期に、私たちは再び立っているのかもしれない。敗北主義に打ちのめされた日本人に、ふたたび『ブルドック精神』が宿ると、そう思いたい。

それは、もしかしたら、前回の東京オリンピック前後の時代を知っている世代だけが感じるものなのかもしれない。あの「熱にうかされたような時代」を覚えている人間には、当時の記憶がまざまざと蘇り、わたしと同じように感無量の人も多いのではないだろうか。

1964年(昭和39年)の東京オリンピックによって、東京の風景は一変した。それで良かったことも、悪かったこともたくさんある。しかし、それが時代というものだ。そしてオリンピックを契機に、日本が成長軌道を驀進していくのだが、実はその前から助走段階があった。

その起点とされているのが、オリンピックから遡ること6年、つまり昭和33年(1958年)である。映画『Always 三丁目の夕日』を観た人なら、「昭和33年」という時代を懐かしく思い出すことだろう。知らない世代には、ある種独特の、異様にして不思議な時代に写るかもしれない。

そもそも日本の戦後復興の最初のきっかけとなったのは、言うまでもなく昭和25年(1950年)の朝鮮戦争だ。昭和30年(1955年)に休戦となるまで、戦後の復興の第一ステージがここで終わった。それでも、まだここかしこに焼け跡は残っており、足がかりをつかんだだけの状態だったといっていい。貧困は、圧倒的に蔓延していた。

しかし、そんな中で、政府は翌昭和31年(1956年)の経済白書において「もはや戦後ではない」という衝撃的な宣言を発し、持続的な成長軌道へ激しい執念を見せた。成長加速の「のろし」が上がったのだ。これが、すべての始まりだった。

ちょうど、東京オリンピックの前年(昭和38年・1963年)に『鉄腕アトム』と『鉄人28号』が、テレビ・アニメとして相次いで放映され始めている。『鉄腕アトム』は昭和26年(1951年)、『鉄人28号』は昭和31年( 1956年)に漫画本としてすでに誕生していたが、この偉大な二つのアニメ・キャラクターが、本から映像へと移っていく変化に、すべてが仮託されているといってもいい。ゼロからの再出発ではない。敗戦による、あらゆるマイナス状況からの再出発だった。その起点が昭和33年という年なのだ。

国民はこの年から、かつてない豊かさに向かうスピード感を、皮膚感覚で認識し始める。空前絶後の「岩戸景気」の幕開けだ。それが昭和33年という年だった。第18回オリンピックが東京に決定したのは、その翌年である。

昭和33年の物価を調べてみると、葉書が5円 、バスの乗車賃が15円、銭湯代は16円、 床屋の料金は150円、かけそば1杯 25円、牛乳 14円、生ビール1杯 80円、食パン1斤 30円 、たばこ1箱 40円、映画1本 150円。そして、大卒の初任給は、平均1万3467円だった。

その頃の平均寿命は男性65歳、女性69.6歳。厚生省が「栄養白書」の中で日本人の4人に1人が栄養不足であると発表している。テレビはまだまだ高嶺の花で、14インチのテレビは、今の物価にすれば、ゆうに100万円を超える。いかに高値の花であったか分かるというものだ。それがこの年、ようやく100万台を突破したものの、その普及率はわずかに10.4%。どこの家にもあるような代物ではなかった。

ランニングシャツと短パン姿の私は、駅前の電気屋に群がる大人たちに混じって、力道山の空手チョップに歓声を上げていたクチだ。小学校に入る1964年(昭和39年。東京オリンピック開催年)直前まで、このような状態だった。

確かに、岩戸景気の到来で、物価は昭和33年から39年にかけて、うなぎ登りとなっていった。かけそばは50円になり、ビール一杯が115円、映画は350円となっていった。しかし、渋谷の駅前にはまだ手足を失った傷痍軍人の姿があったし(救世軍の社会鍋)、都内は路面電車が網の目のように走っていた。ボンネットタイプのバスが普通で、エンストを起こしては、そこから降りて歩くなどということも日常茶飯事だった。

昭和33年の翌年には、『少年マガジン』が創刊されているが、私の記憶では1号当たりずっと30円だった。母親のガマ口から30円を盗んで買いにいっては、家に帰るや布団叩きでさんざん打ちのめされた覚えがある。

一方、家の外にも、あちらこちらに小うるさい目付け役のオヤジがいて、いたずら坊主は他人の子だろうと関係なく、こっぴどく叱られたものだ。子供の親のほうも、それに文句をつけたりしない。それが普通だった。昭和33年以降、東京オリンピックの昭和39年までというのは、まだそういう時代だった。

とくに起点となった昭和33年には、象徴的なさまざまな出来事があり、画期的なものが生まれている。長嶋茂雄が巨人軍に入団し、野球の神様・巨人軍の川上哲治が現役を引退した。ずっと後に、巨人軍監督になる原辰徳が生まれたのもこの年だ。

日清食品創業者の安藤百福が、「即席チキンラーメン」と銘打って、世界初のインスタントラーメンを世に出したのもこのときである。当初一袋35円だったが、すぐに30円に値下げし、10年間30円だった。

同じ年、売春防止法施行。 いわゆる「赤線」が廃止された。「赤線」などと言っても、今の人には、とんと分からないだろうが。そのほか、富士重工業が「スバル360(通称てんとうむし)」を発売し、本田技研工業が「スーパーカブ」を発売。トヨタが「クラウン」を発表し、空前のモータリゼーションのさきがけとなった。朝日麦酒が日本初の缶入りビールを発売。汽車に乗れば、トンネルの直前に窓を閉めないと、車内中が石炭の煙でえらいことになった。当時の汽車の窓は、上に持ち上げて開けるのではなく、下の戸袋に落として開けるのだった。そんな時代だ。

テレビでは、『月光仮面』『事件記者』『バス通り裏』『サンヨーテレビ劇場 / 私は貝になりたい』が放映された。

時代は音楽が飾るとすれば、この昭和33年をはさんで、『ここに幸あり』『港町十三番地』『見上げてごらん夜の星を』『いつでも夢を』『上を向いて歩こう』『恋のバカンス』とキラ星のような昭和歌謡が満開だった。

給食といったら、脱脂粉乳にコッペパンと相場が決まっていた。たまに出る鯨の竜田揚げだけが楽しみだった。ほとんど唯一に近い動物性蛋白源だったといっていい。脱脂粉乳は、小型のドラム缶のようなものから汲んで、アルマイトのお椀に注いでもらって飲むのだ。学校を病欠すると、帰りに友達が必ず我が家に寄ってくれた。かさかさに乾いたコッペパンも、新聞紙にくるんで持ってきてくれたものだ。

しかし、なんといっても、この年の記念碑的なシンボルは、東京タワーの完成だったろう。そして、この翌年(昭和34年)、今上天皇皇后両陛下の御成婚とあいなる。この御成婚の生中継を観るため、一気に高値の花だったテレビの普及に火がついた。もちろん、その5年後には、東京オリンピックが迫っていたことが大きい。冷蔵庫(当時3万円)、洗濯機(当時7万円)なども、同時に家庭の中に浸透し始めた頃だ。都内の要所では、オリンピックで外国人が入ってくるかもしれないといって、汲み取り式便所だったものが、強制的に水洗便所に切り替えられていったところもある。

代々木公園一帯は、終戦直後は米軍将校たちの住宅となっていたが(終戦までは、陸軍代々木連隊演習場)、オリンピック開催に向けて、米軍関係施設が郊外に移され、同公園はご存知オリンピック競技場へと生まれ変わった。都内をうねっていた数多くの運河は埋め立てられ、橋が消え、首都高速が張り巡らされていった。どこへいっても、取り壊しと建設現場の土ぼこりが舞っていた。東京都内でさえ、目抜き通りをちょっと入れば、未舗装の泥道だったものが、またたくまにアスファルトに変わっていった。

昭和33年という年は、敗戦(昭和20年)からわずか13年。ボクシングで言えば、最終ラウンド(14回戦)目にして、満身創痍の日本がついにリング上で、もう一度立ち上がった瞬間だ。そこから、猛烈な連打を繰り返して逆襲に転じる。そして、1964年(昭和39年)に、ついにクライマックスがやってくる。「夢の超特急」新幹線の開業と東京オリンピックの開催という、まさにヘビー級ストレートの炸裂だった。

同時に、猛烈なインフレがやってきた。日本中が、みなバンスキング(借金王)だった。それを、まさに自転車操業で駆け抜けた。借金した人間こそが勝ちだった。

我が家でも、母親が財布の中にわずか数十円しかないと言って、家族そろって夜まで息を潜めて居留守でしのいだという記憶が何度もある。

一方で、所得は倍増に倍増を重ね、寸暇を惜しんで馬車馬のように働いた。落伍者をかまう余裕すらない。当時、池田首相でさえ、「貧乏人は麦を食え」「中小企業の五人や六人、死んでしまえ」などと暴言を吐く始末だった(実は発言の趣旨と、全文・文脈が正しく理解されていないが)。走り続けることに必死で、国中にひずみや、ゆがみを省みる余裕すらなかったのだ。それでも日本人は、ひたすら走り続けた。

戦地から復員した男たち、空襲で九死に一生を得た人たち、特攻隊の生き残りが、後年のモ一レツ社員の先駆けとなった。なにしろ一度は死んだのだ。この世に怖いものなど何一つなかった。

それは、誰もが前だけを見つづけ、誰もが「明日はきっと今日よりもいい日になる」、と信じていたからだ。あの時代から、実に56年の時を経て、2020年に再びオリンピックが東京に戻ってくる。当時の日本人の多くが、それこそはちきれそうな野望を胸に、夢中で日々を走り抜けて行った感動は、長いことセピア色の記憶の中に忘れさられていた。

あの時代を知らない世代が、そうした躍動感のいくばくかでも抱くことができるようにと、心から願う。そして、日本は未だに日が昇る国なのだと信じられる日々を過ごしていきたい。「二度目の敗戦」といわれる90年代を経て、今、そのチャンスが来ようとしている。

岩戸景気がスタートした、昭和33年初頭の日経平均は470円前後だった。ここから、東京オリンピックが開催される昭和39年には1200円台となり、このブル(強気)相場は昭和41年の1400円台まで爆走した。当時の第18回東京オリンピック招致が決定したのは、昭和34年(1959年)5月26日のことだった。岩戸景気にとって、東京オリンピックはまさにターボチャージャーの役割を果たした。

そして、今は「90年暴落」(1990年)から29年、最初の金融恐慌(1997年)から26年。最後の銀行恐慌(2003年)から16年。もはや、とうに時間一杯だ。「もはや戦後ではない」から、合言葉は「もはやデフレではない」へと切り替わるなら、それは今しかない。第二の「昭和33年」を私たちが生きているのなら、私はあのセピア色となった夢を、もう一度原色のまま見てみたい。



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