人斬り~最強伝説

歴史・戦史

これは112回目。コラムやエセーというより、読み物です。幕末でその名を馳せた二人の人斬りの話です。かたや新選組、かたや尊王攘夷派。対照的な立場の二人を比較してみます。予想を覆す運命が、この二人には待ち構えていたようです。歴史のいたずらか、一体どちらが勝者で、どちらが敗者だったのでしょうか。死に臨んで、彼らの胸に去来したものとは何だったのでしょうか。

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時は大正のはじめの頃、齢(よわい)70という一人の老人が、孫をつれて縁日の芝居小屋(映画館という説もある。実際この老人、映画が大好きだった。)に来ていた。故(ゆえ)あって杉村義衛(すぎむらよしえ)と、名乗っていたが、もともとの本名は違う。

その杉村老人は、出入り口の辺りで、三下やくざの5、6人にからまれてしまった。老人はさんざん小突かれた。

ところが、やくざの一人が孫にちょっかいを出した瞬間に、老人は持っていた杖で、やにわに男の喉を突いた。男はたちまち悶絶。老人は振り返り、もの凄い眼力で残りの連中を睨みつけた。ちんぴらたちはドスに手をかけていたが、老人の凄みに気押され、慌てて退散していった。

この老人、本名を永倉新八(ながくらしんぱち)という。かつて幕末の新撰組二番隊組長にして、撃剣師範を努めたほど、屈指の剣の使い手だった。

新撰組で、一体だれが一番強かったのかということについては、諸説ある。が同時代に、彼らと寝食をともにした人間の証言が一番信ずるに足るとすれば、隊士・阿部十郎のそれがおそらく信憑性が高い。

阿部十郎は、途中、近藤勇(新撰組局長)らの路線と袂を分かち、伊東甲子太郎らとともに新撰組を離れた経緯がある。伊東が油小路事件で土方歳三(新撰組副長)らに惨殺されたため、後日同志とともに復讐を企て、近藤襲撃をし、負傷させている。その後は、討幕軍側に参加して、明治には北海道庁に出仕、退官後は札幌でリンゴ園を経営(現在の北海道果樹協会)し、明治40年1907年(日露戦争の終戦直後)、71歳で亡くなっている。

つまり阿部は、新撰組隊士として働き(伍長、砲術師範)、後日、逆に敵である官軍に回っている。そういう阿部十郎であるから、おそらく客観的に剣の腕を評価できただろう。その阿部によれば、「一に永倉、二に沖田(総司)、三に斉藤(一、はじめ)」と言うことだ。永倉の腕は、新撰組でも突出していたようだ。


永倉は、松前藩士だったが、江戸の上屋敷(現在の台東区小島2丁目)で生まれている。江戸では神道無念流を学び、安政3年1856年、18歳で本目録。剣術好きが昂じて、あろうことか脱藩(尊皇攘夷のような思想的な理由ではない)。本当は「長倉」なのだが、「永倉」と称して、武者修行の旅に出る。回り巡って江戸に戻り、近藤勇の道場・天然理心流「試衛館」の食客となった。現在の市ヶ谷にあったようで、市谷柳町25番地に碑が立っているが、25番地の中のどこに道場があったかは、まだ確定されていないようだ。

この頃、近藤勇のほか、門弟に土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山波敬助がいた。食客には、永倉のほか、原田左之助、藤堂平助がいた。

斉藤一もいたという説もあるが、近年の研究では、斉藤は試衛館時代にはおらず、後に近藤らが京都で新撰組の徴募があった際に、初めて加入したということになっている。記録に残る斉藤一の存在が、京都における徴募の初日からしか出てこないのだ。

しかし、後年、永倉が書き残したものによると、斉藤一は江戸の試衛館に出入りしていた、とはっきり書いていることから、わたしは永倉のほうを信じよう。試衛館のメンツは、九人ということになる。(おそらく、斉藤は、事情があってほかの八人とは別行動で江戸を発ち、上洛したのであろうと推察する。)

試衛館時代は、ずいぶん楽しかったようだ。いつも九人は道場に通うものたちの稽古をつけた後は、みなで酒盛りをしたようだ。近藤のおどけぶりなども、度を越しており、みな腹を抱えて笑い転げたそうだ。なにしろ若かった。毎晩のように天下国家を論じては、大騒ぎをしていたようだ。

しかし、試衛館を後にして、八人(斉藤は、先述通り別行動で上洛)は浪士組の徴募を受けて京都へ。幕府方の治安部隊員として、それこそ粉骨砕身の働きをした。しかし、歴史は常に勝者の立場で書かれる。明治維新以後、彼らの事跡は一様に「人斬り」の汚名を着なければならなかった。

試衛館一派九人のうち、五年後の明治維新を超えて生きたのは、三人。土方、永倉、斉藤である。近藤は明治元年(慶応4年)4月に斬首されており、土方は翌明治2年に函館で戦死しているので、この二人は、維新前後という点では微妙である。

生き残った永倉は、近藤・土方の供養碑を、荒れ野原となっていた板橋に立てた(現在、板橋駅前)。近藤は現在のJR板橋駅滝野川口(東口)で斬首された後、京都に送られたが、胴体は近辺に埋葬されていた。遺族らが掘り起こして菩提寺などに改葬した。永倉は、処刑現場、ないしは胴体が埋葬されていた近辺に供養碑を立てたのだろうが、恐らく正確な現場跡に立てたわけではなかろう。当然、その近辺で「すわりの良い」場所を見定めてこの供養碑を立てたはずだ。

明治九年のことであるから(西南戦争の前年)、まだ元新撰組という素性を知られること自体が危険な当時のことである。が、永倉は敢えてこれを行った。

供養碑の側面には、新撰組隊士百十名ほども刻まれている(新撰組隊士の総数は、累計で486人とされている)。新撰組の末期、永倉は近藤・土方らと別れたが、晩年はずっと新撰組の事跡を、覚えている限り書き残す日々を送った。脱退したもの、乱戦で死んだもの、永倉自身が斬った者も、およそ新撰組の隊員はすべて思い出して、その事実を記録に残した。墓碑の右側面には、戦死者四十名。左側面には、病死者、切腹、変死、隊規違反による処刑など六十四名、およそ永倉の記憶に残るすべての隊士の名が刻まれている。

ちなみに、近藤が斬首されたのは、上記のようにJR板橋駅近くだが、これはほぼ特定できる。永倉が建てた供養碑から100mほど北に行ったところに馬頭観音がある。これが決め手だ。近藤の養子が斬首を目撃しており、その証言によれば、馬捨て場のすぐそばに穴が掘られていたという(首を落とす穴)。処刑後は、馬捨て場に畜生と同じように胴体を捨てたも同然の埋葬をしたのであろう。間違いなく、そこに馬頭観音の祠があったはずなのだ。

証言では、近くに小川が流れていたともいう。この近辺の小川というと、「千川上水跡」がちょうど、当時の馬捨て場と供養碑の間に流れていたことが確認できる。小川が近く、馬捨て場に近い、そして現在も当時のままに馬の供養のために立っている馬頭観音のすぐそばで、近藤は斬られたことは間違いないだろう。

さて、ここでもう一人の登場人物を紹介しておこう。永倉が幕府側の「人斬り」なら、討幕側の「人斬り」である。普通、この時代の「人斬り」といえば、討幕側のテロのことだ。新撰組は、正規の治安部隊だったのだから、本来「人斬り」の汚名を着ること自体がおかしい。

討幕側の人斬りは、土佐の岡田以蔵、薩摩の中村半次郎・田中新兵衛、そして肥後(熊本)の河上彦斎(かわかみげんさい)が、四大人斬りとよく言われる。このうち、河上彦斎に登場願い、永倉との「対比例伝」としよう。「プルターク英雄伝」の向こうを張っているわけではない。

河上彦斎は、人斬りと言われながらも、意外な風貌をしている。なにしろ身長が150cmの小男で、肌が真っ白。どうみても女にしか見えなかったという。これが理由なのか、近年アニメでヒットし、ドラマ化・映画化されている「るろうに剣心」の主人公・緋村剣心は、この河上玄斎がモデルとなっている。


礼儀正しく、温和な人柄だったようだが、平気で人を殺す冷酷な面もあったらしい。たとえば、仲間たちと酒を飲んでいるときに、「どこの奉行所のあの役人は、ひどいやつだ。」などと話題が出ると、彦斎は黙って席を立ち、出かけてしまったという。しばらくして帰ってくるなり、どんと血だらけの袖に抱えてきた生首を置いて、またさっきと同じように飲みなおしたというのである。くだんの役人の首だった。そういう逸話の絶えない人物だ。

この挙動というものは、幕臣・勝海舟も述べている。訪ねてきた彦斎とずいぶんいろいろ話をしたらしいが、なにしろ、集まった人たちの間で悪い噂のある人間の話題が出ると、その後、彦斎がすぐに殺してしまう、ほとほと困った男だと海舟は述懐している。「あんた、俺を殺(や)るときには、事前にそう言っておくれよ。尋常に勝負しようや。」と海舟が言うと、彦斎は大笑いして「御冗談(ごじょうだん)どり」と言ったそうだ。

家族にも友人にも、優しく、人情溢れた言動であった一方で、いったん人を殺すとなると、まるで平然とやってのける二面性は、周囲も当惑していたようだ。

しかし、彦斎が斬った相手というのは、実はほとんどわかっていない。彦斎は、狂信的あるいは偏執的なほど異人嫌いで、徹頭徹尾、攘夷論者であった。彼が暗殺した人物ではっきりしているのは、佐久間象山暗殺だけである。おそらく、歴史にでてくることのないような人物を、あまた殺している可能性は高い。

玄斎の剣術には特徴がある。右足を前に出してやや膝を曲げ、左足を膝が地面につくほど後ろに伸ばし、右手で「逆袈裟斬り(下から上へ)」にする方法を取っていた。恐らく、背が低いことから生まれた、現実的な技(わざ)であったろう。

玄斎が殺した佐久間象山は松代藩(真田である)の学者だが、当代きっての開国論者であり、かつて吉田松陰も教えを請うている。その才能はおそらく50年くらい先を走っていたと思われる。

たとえば、吉田松陰が象山を訪ねたのは、もっぱら兵学が目的だったが、象山は嘉永2年1849年(明治維新の19年前、黒船の4年前)に、日本初の電信を行っており、ガラスの製造、地震予知器の開発に成功し、種痘の導入も計画していたくらいの男である。

派手な洋装で、馬に乗って京都の三条木屋町を通っていたところ、たまたますれ違いさまに、虫の居所が悪かった彦斎が「この西洋かぶれめ」ということで、斬殺したのである(現在、象山の遭難碑=木屋町御池上ガル、居宅碑=木屋町御池下ガルが立っている)。

後日、佐久間象山という人物がどれほど有為な人材だったかということを知るにおよび愕然とし、以来、いわゆる「人斬り」を止めてしまった、という説もある。

このとき、玄斎は池田屋事件で、長州・肥後ほか討幕攘夷派多数の同志が、新撰組によって斬殺されたその復讐のため、京都に来ていたのだ。ところが、たまたま象山に出くわして、「神聖な京の都を、西洋の鞍に乗って闊歩している」のを見て、衝動的に斬ったという説と、斬奸状を用意し彦斎含め4人で計画的に暗殺したという説と両方ある。

歴史にも残らない、無意味な人斬りを数知れず行ってきた彦斎だったが、その後は、討幕の急先鋒となっていった長州軍・奇兵隊などと行動を共にすることが多く、いわゆるローンウルフ(孤独な暗殺者)ではなくなっていったようだ。ひょっとすると、「人斬り」は、言われているほどしてはいない可能性もあるのではないか、とわたしなどは思ってしまう。

さて、新撰組の永倉新八に話を戻そう。浪士組に参加した近藤ら九人の試衛館一派は、いろいろと紆余曲折を経て、新撰組として独立する。会津藩お抱えの京都治安部隊である。

その新撰組が一躍天下にその名をとどろかせたのは、言うまでもなく、元治元年1864年7月8日(現在の6月5日)の、池田屋事件である。池田屋は、やはり三条木屋町の三条子橋にあった。長らくパチンコ屋だったが、現在は「池田屋」という居酒屋になっている。

討幕派のテロリストたちが「烈風の日に、大挙して京都を焼け野原にし、一橋慶喜(後の最後の幕府将軍)や松平容保(かたもり、会津藩主)を殺害し、帝(天皇)を奪取して、長州に拉致する」といったような計画があった。その謀議が行われるという情報をつかんだ新撰組が動いた。永倉は二番隊組長である。(一番隊組長は沖田。三番・斉藤。六番・井上。八番・藤堂。十番・原田とそれぞれ隊を率いていた。)

ところが、長州側の密偵を拷問して得たこの情報でも、謀議の場所が特定できなかった。四国屋か、池田屋か。しかもテロリストたちは20人をくだらないという。

そこで、土方副長が本隊を率いて四国屋へ向かい、池田屋には、近藤、沖田、永倉、藤堂の4人だけで屋内に斬り込んだ。沖田は奮戦したものの、持病の結核が再発、いきなり血を吐いて戦闘不能に陥った。藤堂も、額を割られ、重症。血が目に入って難儀をし、これも戦闘離脱。

残る近藤と永倉は、もとより屋内戦闘を想定していたので、短めの刀身で突きまくった。当時、浪士たちの間では長刀が流行っていたらしい。テロリストたちも同じで、それが仇となり、振りかぶれば鴨居や天井に刃が当たってしまうし、かといって多数が密集しているから、味方をかばってなかなか刀を思い切って振れない。

当初から、そういう状況を想定した新撰組の作戦勝ちであった。少数で斬りこめばこそ、近藤も永倉も、分散すればお互いのことを気遣う必要もなく、当たるを幸い、存分に刀を突きまくれる。なにしろ当時、屋内の明りといったら、油の灯心(行灯)だけであるから、ほとんど暗闇といってもいいような状態だ。「がむしゃらな新八」ということで、「がむしん」と隊員たちから呼ばれていたが、この日はその真骨頂が発揮されただろう。

途中、土方隊も到着し、池田屋の周囲を固めるにおよび、近藤・永倉の二人は、斬り捨てから、捕縛に方針を変更。結果、テロリストを9名殺害、4名捕縛という結果となった。永倉もこのとき、左親指に深手を負っている。老年まで、古傷は後遺症を残したようだ。

この犠牲者の中に、肥後の宮部鼎蔵(みやべていぞう)がいた。宮部は、かつて吉田松陰と同志であったし、実際兵法を学ぶ全国修行に一時同道していたこともある。この宮部から兵学を学んだのが、例の河上彦斎だった。彦斎は当然、復讐を誓うわけで、その挙句の果てが、先述の佐久間象山暗殺である。

歴史というのは、不思議なもので、この新撰組の「池田屋事件」がなければ、薩長の時代は永遠に来なかったろう(司馬遼太郎)とも言われる。なぜなら、この事件によって、長州藩の攘夷派が激昂し、強硬派によって引きずられるように、自滅的な長州軍の京都乱入(禁門の変)が引き起こされたからだ。

そういう意味では、近藤や永倉ら4人の斬り込みは、単なるテロリスト鎮圧行動にとどまらず、革命への道を開く効果を持っていたということになる。このとき永倉、25歳。

新撰組は、この池田屋事件で有頂天になった。法外な慰労金などが会津藩から下賜され、身分も保証された。とくに近藤はわがままな振る舞いが多くなり、永倉ら古参の隊員は眉をひそめることが多くなった。新撰組に志願するものがひきもきらない状態となり、その統制のために、土方は常軌を逸した鉄の規律で隊内を締め付けた。

もともと、試衛館で、いわば仲間同士だった永倉、藤堂、原田、斉藤などは面白くない。近藤、土方、沖田と、彼らの間に見えない溝が生まれていった。この状況を遺憾とした、永倉、原田、斉藤らは、脱退覚悟で会津藩に「非行五箇条」の訴え起こし、近藤らを非難する挙に出た。

結局これは松平容保のとりなしで、内部分裂にはいたらなかったようだ。近藤らの不行跡については、推察するに、永倉ら同じ試衛館出身者まで、家来扱いし始めた近藤・土方のやり方に、不満が爆発したということなのであろう。永倉らは、近藤を局長としては認めるが、自分たちは家来ではなく同志だ、という主張を込めていた。

永倉と近藤とは、この一件で仲が冷え込んだようだが、どういうわけか永倉と土方は、あいも変わらず仲が良かったようだ。

近藤の女遊びも確かに野放図で、あちこちに遊郭の芸妓に馴染みをつくっては囲うというものだったが、そうした有頂天も人間らしいといえば人間らしい。永倉にしても、島原の芸妓・小常を妻としている。娘・磯子を産んだが死別。磯子は小常の姉に預けられ、明治になってから関西の女役者になっている。

肩で風を切って歩いていた新撰組にも暗雲が垂れ込める。永倉らが近藤・土方を訴えた後に、大きな事件が襲う。試衛館以来の同志で、一時は土方と並んで、副長だった山波敬助が、脱走。とくに沖田が兄と慕っていたことから、土方は敢えて沖田を追っ手として差し向けた。

思惑通り、沖田に追いつかれた山波は抵抗せずに、捕縛された。原因は、幕府側の治安部隊として、どんどん過激化していく新撰組の行動原理(テロリスト狩り)に、もともと尊皇攘夷派である山波は、ついていけなくなったらしい。とくに近藤が新撰組のインテリ化を図るために招き入れた伊東甲子太郎一派が入ってきてからは、とくにいけなかった。

近藤は、近藤局長、土方副長、そして山波総長という順位を変更。土方と山波の間に、伊東を参謀として招き入れたのである。ますます、山波の居場所はなくなっていった。

山波は、沖田に介錯を頼んで切腹。見事な死に様だったと言う。享年32。しかし、これで、試衛館以来の九人は、八人になった。

ところが、伊東一派が新撰組に入ってきたことは、山波事件にとどまらず、もっと大きな激震を引き起こした。まず、いきなりこの伊東一派が脱党したのである。しかももともとの新撰組の隊員たちにも賛同者が現れ、伊東一派とともに脱退していったのだ。なんとその脱退者に、試衛館以来の同志・藤堂平助までが含まれていた。

そこで斉藤一が、密偵となって伊東一派に潜入(斉藤が近藤を見限ったと、伊東一派に思い込ませた)。これによって、伊東一派が薩摩藩と共謀して、近藤暗殺を計画していることが発覚。逆に近藤らは、討幕派と気脈を通じた伊東一派の暗殺を計画。実行部隊には、永倉・原田がいた。しかし、近藤は永倉に、「平助は斬るな。逃がしてやれ。」とよくよく言い含められていたらしい。

慶応3年1867年11月18日(現在の12月13日)、油小路七条の辻に、伊東甲子太郎を討ち、遺骸を放置。周囲に待ち伏せて、遺体引取りにきた一派をまとめて7名粛清。永倉は原田とともに、藤堂を逃がそうと試みたものの、こうした心情を忖度(そんたく)できなかったほかの隊士たちに討たれてしまった。藤堂は沖田と同年で、九人のうち一番若かった。立ち姿は白梅と評されながら、いつも先陣を切って斬り込んだ青年の享年は23だった。

これで、試衛館以来の九人のうち二人死んで、七人となった。ちょうど時代のタイミングと合ったのだろうか、伊東甲子太郎一派が新撰組に招かれて入隊したころから、かつての試衛館一派の九人は、分裂気味になっていった経緯がよくわかる。山波が死に、続いて藤堂が死んだ。いずれも脱党の末である。

時代はこのへんから、どんどん新撰組を置き去りにしていく。翌年にはもう鳥羽伏見の戦いである。永倉は、繁忙を極める土方から、留守の間の隊の切り盛りを託されているから、信頼はことほかだったのだろう。

永倉の剣術というのは、下段の構えから上へ敵の剣を擦り上げながら下へ切り落とすというのが得意だったようだ。いわゆる正攻法に近いが、それだけに、突出した腕でなければ、差がつかない。

鳥羽伏見戦では、永倉自身も決死隊を募って、抜刀突撃をするという豪胆さをみせている。が、しょせん敗退。ここで、井上源三郎が戦死している。腹部銃弾貫通であった。井上はけして武がたつほうではなかった。無口だが、人がよく、「わかったよ。俺がやればいいんだろ。」と、隊内の汚れ役をいつも引き受けていた男だ。享年39。これで、試衛館以来の九人のうち、三人が死に、六人となった。

この鳥羽伏見戦にあって、永倉が一度だけ肝を冷やしたという局面があったらしい。後半戦、橋本宿に陣取った土方歳三の本隊と連絡が切れてしまい、斉藤一と共に孤立する中、八幡山からの敵中突破したときだと言う。

新撰組残党は、江戸に退却。名前を改め、甲陽鎮撫隊として、今度は中山道で迎え撃つ。これは、幕臣・勝海舟の勧めで行われた遠征であった。中山道を攻め下ってくる官軍を、甲府で食い止めろ、というのだ。しかし、近藤・土方は、郷里の多摩で大盤振る舞いをして、無為な日柄を費やし、甲府に向かったのは遅すぎた。準備万端整えていた官軍と、甲州勝沼で一戦し、微塵に敗退。

江戸で、永倉は近藤・土方と袂を分かつ。近藤は、流山で再起を図るが包囲され、近藤は降伏。土方は逃亡して、江戸に入り、勝海舟に近藤の助命を嘆願するがかなわなかった。慶応4年1868年4月25日、近藤は板橋で斬首された。これで試衛館以来の九人のうち、四人が死に、残り五人になった。

慶応4年というのは、同時に明治元年である。改元したのは、9月8日だが、慶応4年は明治元年とするということになったため、正月から明治ということになる。その意味では近藤は、微妙だがぎりぎり明治まで生きたということもいえるが、正確にはやはり明治を見ずに死んだというべきだろう。享年34。

そもそも、勝海舟にしてみれば、西郷ら討幕軍と江戸無血開城を交渉しようとしていたわけであり、強硬派の新撰組残党が暴れまわっていられたのでは、困るのだ。いわば、「厄介払い」のために、甲府に遠征をさせたというのが、実情だろう。ハナから、海舟には近藤を助命嘆願する意思などない。「官軍に殺(や)られておしまい。」ぐらいにしか思っていなかったろう。

永倉と一番仲がよかった原田左之助も、翌月の5月17日、討幕軍との上野戦争(寛永寺)で負傷、その傷がもとになって、本所で手当受けたが回復せず、死亡。原田左之助は、なかなかの美男だったらしい。愛妻家でよく京都・壬生の屯所にも子供を抱いて現れ、自慢していたそうだ。

さらに30日、江戸で潜伏、結核の療養をしていた沖田総司が吐血して絶命。千駄ヶ谷の植木屋・平五郎宅の離れであった。この場所は、現在のJR千駄ヶ谷駅の近くだ。外苑西通りが、千駄ヶ谷駅のすぐ東を、南北にくぐっている。JRの高架の下を抜けて100mほどいった、新宿区大京町29(富士見ビル)が、当時の柴田平五郎宅だそうだ。

沖田は、その離れ(納屋とも)で死んだが、ちょうど外苑西通りの中央分離帯当たりにあったらしい。享年27。これで、試衛館以来の九人のうち、六人が死に、残りは三人となった。近藤、原田、沖田と、三人は明治目前で逝ったことになる。

斉藤一は、会津で戦っていた。会津が落ち、松平容保が降伏しても、なお戦っていた。とうとう松平容保が派遣した使者の説得でようやく降伏。その後、しばらくは謹慎状態で、会津藩士らと移封などの行動をともにしていたが、藤田五郎と名前を変え、明治7年に警視庁に出仕。もっとも、近年発見された警察の古資料の中から、斉藤一という本名で登録されていた事実が判明しているので、出仕する頃には、元新撰組に対する摘発のようなものは、ほぼ終息していたかもしれない。

明治10年・1878年の西南戦争(西郷隆盛の反乱)では斉藤は官軍として参戦し、斬り込みで敵弾負傷しながら、大砲二門を奪取するという活躍で、勲章を授与されている。斉藤にしてみれば、薩摩軍(旧官軍)に対して、怨念の10年をかけた復讐戦で一矢報いた、というところなのだろう。後年、斉藤は永倉と共に、元試衛館出身の九人のたった二人の生き残りということで、永倉と再会したという説もあれば、会っていないとも言われ、よくわからない。

ただ、永倉が二番隊組長をしていた頃、その下で伍長をしていた島田魁(しまだかい)と、永倉が京都で再会をしたことがある。島田は、会津戦、函館戦とずっと土方とともに最後まで戦った隊士の一人だが、五稜郭陥落で捕虜となり、後許されて、京都西本願寺の警備の仕事に就いていた。そこにひょっこり永倉が来たというのだ。

東京で、近藤らの供養碑を立てた後のことらしいが、京都に来ていたのは近藤の首を捜していると語っていたようだ。ちなみに、近藤の首の行方だが、板橋の刑場で斬首された後、首は京都三条大橋西に晒されたが、同志が三晩目に奪い、近藤勇ゆかりの京都誓願寺に持ち込んだ。

生前、近藤勇と縁のあった京都誓願寺の住職が、後、現在の名鉄本線本宿駅徒歩10分のところ、旧東海道沿いの法蔵寺の住職になったため、土方歳三ら新選組の同志達とこの寺に埋めたと言われている。法蔵寺は、愛知県岡崎市本宿町字寺山1番地である。徳川家康が手習いを受けていた寺とされている。松平家の墓も残っている。徳川に殉じた近藤の首塚としては、ふさわしい場所だったかもしれない。

逆賊という事でわからぬ様に埋めていたらしいが、昭和33年に京都誓願寺で記録が見つかり、また他にも文献が見つかったことから、これらを照合した結果、法蔵寺を掘り返し、台座や遺品なども出土したそうだ。近年この塚は近藤勇の親族関係者の努力で整備され胸像も建てられている。

さて会津が落ちたあとも、北海道にまで落ちていき、まだ闘っていたのは土方だけだったが、これも五稜郭が降伏を決めたため、自殺さながらの突貫で銃弾を浴びて戦死。明治2年のことである。享年33。これで、試衛館以来の九人の同志のうち、七人が死に、残りは斉藤と永倉の二人になった。

さて、池田屋事件をピークに、あとはひたすら坂道を転がり落ちるようになっていった新撰組だが、この間、討幕側の「人斬り」河上彦斎はどうしていただろうか。

ほとんど長州勢と行動をともにしていることが多く、都を追われた討幕派公家・三条実美の警護を、彦斎は担当している。とくに慶応2年1866年の第二次長州征伐では、奇兵隊とともに参戦。幕府軍に勝利。後、このこともあって、奇兵隊の総帥に推挙されたり、脱退騒動に関与したり、と内紛に巻き込まれたりもしている。

慶応3年1867年、自分の熊本藩に戻り、討幕の説得をしようとするが、ちょうど佐幕派が実権を握っていたために逆に投獄されてしまった。このため、この直後の、大政奉還、王政復古、鳥羽伏見の戦いには、完全に「不在の人」となっている。獄舎にずっとつながれていたのだ。慶応4年2月に出獄している。

明治元年1868年、明治新政府の参与となった熊本藩主の弟・長岡護美に従って上京。2年にわたり不在の人だった河上彦斎は、新しい時代になってもまだ開国論に絶対反対、攘夷を主張し続ける頑迷さのままだった。空白の2年が、彼を時代錯誤にさせてしまったのか、どうあっても変わることはなかったのか、不明だ。

ただ、口を開けば、攘夷を要求し、木戸孝允(桂小五郎)や三条実美などは、彦斎にその変節ぶりをなじられている。従って、要人たちは、だれも彼にもはや会おうとはしなくなってしまった。三条実美などは、「彦斎が生きているうちは、枕を高くして寝られない」とこぼしていたようだ。ずっと人斬りはしていなかったが、人斬りのレッテルは決して剥がれることが無かったのだ。

明治2年、左遷の末、追い討ちされるように突然免職通知を突きつけられており、新政府による彦斎の厄介払いが始まった。そこに、大村益次郎(兵部大輔)暗殺事件に関与した大楽源太郎が逃亡してきたので、これを彦斎が匿った。これが命取りとなったようだ。

明治になってから数年というものは、討幕のために動員された武士たちも、安定の時代に入ると無用の長物となる。どころか、不穏要素に早変わりしてしまう危険性が出て来る。実際、恩賞も無く、「解雇」されてしまい、「話が違う」と憤激する不平武士たちは、要人暗殺を始めていた。

そのいくつかに彦斎が関与した、という濡れ衣を着せられたのだ。江戸送りとなり、明治4年12月4日、日本橋小伝馬町で斬首された。今後、諸外国の力を得て、富国強兵に踏み切ろうとしていた新政府の方針に従わない危険な攘夷論者、反乱分子として、処刑されたのである。

裁判とは名ばかりで、何の取調べも行われていない。判事はかつて彦斎の同志であった、玉乃世履だ。玉乃は、「新政府の方針に従い、ともにはたらいてくれまいか。」と何度も説得を試みたが、彦斎はかたくなだった。「この志は神国に誓ったものだ。なぜ、これを時勢によって曲げられようか。」と断固拒否。

結局、「容易ならざる陰謀を企てた」ということで、斬刑が言い渡される。彦斎は、この当時、多く見捨てられた討幕に参加した志士たちの声無き声を代弁している典型的な例であろう。敗退した佐幕側の武士たちに待ち構えていた運命より、考えようによっては遥かに酷薄な結末だったと言えるかもしれない。一体、勝者はどちらだったのか、深く考えさせられるのが、この河上彦斎の最期である。享年38。

ちなみにこの彦斎には、妻子があったが(大変大事にしていたようだ)、妻は長薙刀の名手でもあり、相当気丈な人柄であったようだ。夫が犯罪者として斬首されて肩身も狭かったろうし、困窮をきわめた生活が待っていたらしい。

彦斎がかつて、長州にとっては最悪の逆境時代に運命を共にしたためだろうか、後年、山縣有朋(陸軍の元老となっていった)が、彦斎の未亡人に支援金を送っていたようだ。

さて、再び永倉新八である。彦斎が斬刑に処された明治4年末というと、永倉は、松前藩に帰参が認められており、家老のとりなしで藩医・杉村介庵の娘と結婚、婿養子として松前に渡っている。ここで、杉村姓に改名しているわけだ。ちょうどこの頃、彦斎が斬首されている。明治6年には小樽へ移った。

小樽に移る直前、東京の街中で偶然、伊東甲子太郎の弟(鈴木三樹三郎)に遭遇する一件があった。油小路での伊東一派斬殺では、三樹三郎は難を逃れていた。三樹三郎は、以来、執拗に新撰組残党をつけねらっていたとも言う。

それは両国橋の上だった。お互い、すぐに誰かを認識した。さすがに永倉も「やばい」と思ったそうだ。丸腰である。しかも向こうは帯刀した官軍である。すれ違いざまに、三樹三郎は「永倉さんじゃないですか。今どうしておられる?」と聞いたらしいが、永倉は適当に答えてすれ違ったという。

ふと振り向くと、三樹三郎も立ち止まってじっとこちらを見ていた。大変な形相であったらしい。日中、人通りの多い両国橋の上だったから良いものの、夜、人通りもなければ斬りかかってきたかもしれない。この一件があったため、永倉ほどの男も、危険を感じて、小樽へ飛んだようだ。

実際、そのころ元同士が斬首されて、晒されているようなこともあったため、追われる身となっていた永倉も、かなり精神的に参っていたのだろう。「がむしん」もさすがに形無しである。

永倉がこの明治初期の危機をかいくぐることができたのには、理由があるかもしれない。もとはと言えば確かに新撰組だが、すでにいまや正式な松前藩士である。廃藩置県が行われる直前のことだ。官軍といえどもれっきとした藩士を、勝手に粛清することはできなかったのだろう。元新撰組の人間が粛清されるとしたら、浪人であった場合か、闇討ちにするよりほかなかったとも考えられる。実際、三樹三郎との遭遇以来、日常的に付けねらわれている気配を感じていたそうだ。

小樽では警察官僚になっていた知人の招きで、明治15年1882年から4年間、樺戸集治監(刑務所)の剣術師範をつとめ、看守たちを指導していた。そこを辞した後は、東京牛込で剣術道場を開いている。これは明治32年1899年まで続いていたようだ。

面白い話が残っている。永倉と西郷隆盛とは面識があったらしい。かつて、池田屋事件の後、激昂した長州軍が暴走して京都に乱入した禁門の変のときだ。会津・薩摩は共同で、長州軍を迎え撃っており、このとき同じ陣営に新撰組もいたわけで、そこで西郷を見知っていたのだろう。

明治31年・1896年、上野に建立された西郷隆盛像を目にして「本人像とは異なる」と永倉は語っている。隆盛夫人の糸子も同様の発言をしているのが興味深い。

この間、日清戦争が明治27年1894年に勃発しており、このとき、55歳の永倉は抜刀隊に志願している。ところが、政府からは「お気持ちだけ」と丁重に断られている。これに対し永倉は「元新撰組の手を借りたとあっては、薩長の連中も面目丸つぶれというわけかい」と自嘲していたという。

永倉は、まだ生きた。明治32年1899年、妻子が小樽市内で薬局を開いていたので、再び小樽に戻っている。現在の、小樽市緑1丁目、旧小樽少年科学館付近らしい。東北帝国大学農科大学(現在の北海道大学)の剣道部も指導している。

翌年には、新撰組時代の妻だった芸妓・小常が産んだ磯子が来訪し、再会している。磯子(当時31-2歳か)は実の父に会いたい一心で、なんの恨み言も言わなかったという。世情は、日露戦争目前で、騒然としてくる時分だ。

永倉は、日露戦争も経て、さらに生き続けた。それは若くして逝った隊士たちの分まで生きようとしていたのか、自分が斬った隊士たちの分まで生きなければならない、と思っていたのか。いずれにしろ、執念のように生き続けた。

かつての血しぶきを上げて斬り合いをしていた当時のことを聞かれて、永倉は興味深い答えをしている。

「イザ、真剣をぬき払って、さあ、どっこい互いに向かい合った。三尺の間合い、そんなもの、実際に正確な間隔なぞ取れっこないさ。両人ともスッカリ逆上(あがっ)ているからな。三尺の間合いを取ったつもりでも、外目(よそめ)からみれば実は六尺以上も離れてにらみ合ったまま……なに、偉そうなことを申したって、実際はみんなビクビクしているんだ、命のヤリトリだからな……」

ちなみに、坂本龍馬暗殺に関して、長いこと新撰組の仕業だという説が一般的だったが、現在では京都見廻組の犯行だという説が有力になっている。永倉はとうの昔に、このことを「顛末期」で指摘している。

「・・・佐々木只三郎(京都見廻組)は、後に坂本龍馬を斬った男で・・・・」

裏に誰がいたかはともかくとして、実行犯が佐々木たちであったことは、永倉の言うことでほぼ確実だろう。

晩年は、ことのほか映画を好み、孫を連れてよく映画館に通ったようだ。それで、冒頭に書いた有名な逸話が生まれた次第らしい。

「近藤・土方は若くして死んでしまったが、自分は命を永らえたおかげで、このような文明の不思議を見ることができた」と感慨ひとしおだったようだ。

河上彦斎は思想に殉じ、討幕攘夷の志士でありながら、時勢の変化の中で使い捨てどころか、邪魔者扱いされ、挙句の果てには粛清の憂き目にあった。一方の永倉新八は、終生、逆賊・殺人集団の汚名を着せられ、ほそぼそと日陰で生き続けた。

時代は、明治も終わり、大正に入った。永倉はまだ生き続けていた。そして、あらゆる記憶の限りを振り絞り、若き日に燃え尽きた一生のほとんどを、その記録にとどめた。それは、自身のためというよりも、激動の中で斃れて逝った隊士たちの名誉のためであったといっていい。

晩年というものが無かった彦斎と、長い永倉新八の晩年は、あまりにも対象的である。立場こそ違え、どちらも結果においては、敗者としての人生を終えたという点では同じかもしれない。しかし、本人たちに果たして悔悟の思いはあったのだろうか。恐らく、そんなものは微塵も無かっただろう。一体、敗者とはなんなのか。だれが敗者だったのだろうか。

新撰組二番隊組長、永倉新八。大正4年1915年1月5日、遥か遠く欧州に響き渡る、第一次世界大戦の砲音を聴きながら、「がむしん」は小樽にて死去。虫歯から敗血症を生じたのが原因だった。享年77。奇しくも、斉藤一も同年の9月28日に亡くなっている。享年71。

これで、試衛館以来の九人、全員が鬼籍に入ったことになる。近藤が死してこのかた、47年の長きに及んだ永倉や斉藤の晩年がようやく終わった。永倉は東京都北区滝野川4丁目にある寿徳寺に分骨されている。そこは、近藤勇の菩提寺の一つでもある。



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