匠の技
これは132回目。日本の産業の底力がどこにあるかというお話です。
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日本の産業の強さとは、実は「匠(たくみ)の技」が圧倒的なのだ、という。たとえば、日本、韓国、台湾の三つの国の産業構造を比較したとき、日本・台湾と、韓国とで明確に別れるのだ。
日本は、大企業ではなく、その下におびただしく広がる中小企業の実力が半端ではない。この層が非常に厚く、得てして新技術などは、大企業が自前で開発するもののみならず、むしろ中小企業から上がってくることが多いというのだ。
また、不況のときに、大企業はこの厚い中小企業にしわよせを押し付けるのだが、そうした緩衝材の役目も日本の中小企業は、見事に耐え切ってきた。
台湾は、日本の遺産が生きているからなのか、この中小企業の層が実に厚いのである。中国系特有の、とにかく社長になりたいという上昇志向、独立志向の強さも手伝っているとも言われる。
これが、韓国になると、まったく風景が違う。大企業しかないのである。そのため、動きは機動的なのだが、いったん左前になったら、途端に国全体が傾くというきわどさがある。
どちらが合理的なのか、経済学的にはいろいろと議論があるのだろう。日本における問題は、中小企業が、あくまで中小企業の立場を強いられ続け、米国のように起業、大飛躍をするという社会的・経済的環境が整っていないということだろう。おそらく、台湾はその点では、日本より先を行っている。むしろ、日本は台湾のケースを学んでいかなければならないだろう。
さて、日本の「匠の技」というのは、熟練工の世界にはいると、さらに凄まじいものがあるらしい。わたしの友人の一人だが、父親(もうすでに物故しているが)は、「しがない」板金工場、それも三ちゃん経営をしていたオヤジにすぎない。
ところが、数年に一回、防衛庁(現在の防衛省)から多くの注文を受けていた。それは、ミサイルの弾頭部分に、1mmの何分の1とかいう「穴」を開けるという、それだけの仕事だ。
つまり、ミサイルが着弾したときに、起爆する信管や配線を通す穴だ。当時、機械ではとてもできなかったという。目視で、弾頭のど真ん中に、超小型ドリルなどで穴を開けるのだ。それができるのは、日本でそのオヤジ一人だったという。もう二十年以上も昔の話だから、今は違うのだろうが、そういうオヤジが、そのへんの長屋然とした町工場に、平気な顔をしていたのだ。これが日本の底力だといっていい。
今はどうだろうか。ネットニュースを読んでいたら、面白い記事があったので、紹介しよう。中国人が舌を巻くという日本の匠の技である。
ご存知のように、日本より遥かに先を行く宇宙ロケットや戦闘機製造のように見えるが、どういうわけか一眼レフカメラが一向につくれないのだそうだ。
中国メディアの分析によると、「デジタル一眼レフカメラの製造は中国にとって想像を超えるほど難度が高い」と断じている。
記事は「デジタル一眼レフカメラを製造できる国の数は、人工衛星を製造できる国家の数よりも少ない」としている。
デジタル一眼レフカメラの製造のどこが難しいのだろうか。記事によれば、ロケットにしろ、ミサイルにしろ、あるいは戦闘機にしろ、要するにすべて「使い捨て品」だという。
しかし、エンジンのような何度も繰り返して使用され、耐久性が求められる精密機械の製造は、とても中国人は苦手だと指摘している。つまり耐久性や中長期的な故障発生率を低く抑えるという部分に、中国にとっての技術的な高いハードルがあるということだ。
どの分野においても「故障率を低く抑える」ためには非常に高度な技術が必要とされるが、特にデジタル一眼レフカメラは精密電子機械だけに、とくに重要なノウハウなのだそうだ。
わずかに、日本やドイツといった限られた国の企業だけがこうした問題を克服し、ブランドを輩出している。その記事は「20年後も中国はデジタル一眼レフカメラを製造できないだろう」としている。
この「匠の技」は、蕎麦屋の「蕎麦打ち」から、和筆、化粧筆にいたるまで、あるいは皮革製品の作り込みや、宮大工の木造建築技術など、世界標準からみれば、驚愕すべきものが、実は日本に夥しくある。
もう一つ、目に見えないのでなかなか注目されないが日本人の強みとして、「練度」というものがある。
太平洋戦争中、フィリピン海域での戦闘で、戦艦大和の46 サンチ砲の放った第一弾が、32km遠方の米機動部隊を正確にとらえた。しかも、それは驚くべき至近弾であった。
当時の米海軍戦闘詳報では「砲術士官が望みうる最高の着弾であった」と率直に絶賛されている。劣勢にあった日本軍が、それでも米軍と死闘を繰り広げることができた一つの大きな要因に、当時の帝国軍隊の練度が、遥かに米軍のそれを上回っていたということを示している。
錬度とは、練成・錬精の度合いのことである。ベテラン度、熟練度といってもよい。これは、積み重ねによって得られる。日本の匠の技も、こつこつと歴史的に積み上げられた結果のものであることは疑いない。
21世紀に入って、日米の空戦演習が行われたことがあった。そのときには米国側が次期戦闘機、日本は米軍譲りの在来機種で行われたものだった。
しょせん、演習であるから、いろいろと条件や制約があったろうとは思うが、それにしても結果は日本の航空自衛隊の圧勝。米軍側が肝を冷やしたという事実がある。
戦後ずっと、米国は太平洋戦争中の零戦をはじめとする日本の航空機動部隊に対する、曰く言いがたいトラウマがずっとつきまとっていた。その呪縛が、70年経ってようやく解けてきているようだ。もちろん、日本の「力」を使うほうが得だという算段があるからに違いないが。いずれにしろ、70年間、アメリカが聖域として日本の参入を禁じてきた「空」という世界に、日本を迎え入れ始めている。
たとえば、このところ三菱重工や本田技研の民間航空機産業、あるいはステルス戦闘爆撃機製造への参入が実際に行われている。あろうことか、とくにボーイングに対しては、日本企業が従来の下請けの地位から脱却するべく、共同開発へと立場が大きく変わろうとしている。
実際ボーイングの部品の多くは日本製であるから、エンジンや航空機のボディ本体も含めて、総合的に共同開発していくにはなにも問題はない。技術の錬度というものは、ただ金をかければ成果が出るというものでもない。基礎研究の積み重ねが、火を吹くときがくるのだ。
昨年、九州鹿屋基地で、往年の実物の零戦が飛んだ。戦後ずっと豪州人が所有していた一機を日本人が買い取り、米国人の協力のもと、長年修理を行い、政府や官庁にかけあって許認可を得、日本上空でのデモンストレーション飛行の実現にこぎつけたのだ。
戦後初めて、本物の零戦が日本の空を飛んだのである。なにか象徴的な出来事ではないだろうか。宮崎駿監督のアニメ作品「風立ちぬ」のモデルとなった堀越技師が設計した名戦闘機だが、設計力といい、熟練工による製造力といい、70年以上も前の伝説のファイターが日本の空を再び飛んだのだ。先述の中国誌が嘆いていたように、彼らがどうしても真似できない、時代を超えた耐久性能を実現できる、まさに日本の「匠の技」の証(あかし)とも言える。