定説を疑え~信長「らしくない」桶狭間の謎

歴史・戦史


これは143回目。かなりいい加減な読み物です。マニアックな話でどうかとは思いますが、歴史がお好きな人には、多少とも興味深く読んでいただけるかもしれません。なにごとも疑い深く、妄想癖のあるわたしですから、一般に言われている歴史的事実というものに、ことごとく「ほんとかいな?」と思ってしまいます。これもその一つです。

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織田信長の生涯は、多くの謎に満ちている。もちろんその最大のものは、本能寺の変だが、これはまた別の機会にしよう。

もう一つ、やはり大きな謎とされているのが、「桶狭間(田楽狭間)の合戦」である。永禄3年5月19日(旧暦)、1560年6月12日(新暦)に尾張は桶狭間で、織田信長と、今川義元との間で行われた合戦である。

大変有名な、大雨を好機として、5000人の織田勢が(このうち奇襲実行部隊は2000人)、今川は総軍で25000~45000人(うち、織田軍に直接対峙したのは5000-6000人)を急襲し、今川義元の首級を挙げて、直ちに撤退した電撃戦というのが定説になっている。(と、専門家が言えば言うほど、疑ってしまうのが、わたしの悪い癖だ)

この一戦で、信長は天下取りへの第一歩を踏み出す。一方今川は凋落の道を辿り、配下の松平元康(徳川家康)は今川領から独立の契機を得ることになる。問題になっているのは、そもそも寡兵を以って織田勢が、大兵の今川勢をかくも容易に突破できるか、という点だ。

学界で一級資料とされている「信長公記」を基にして、上記のような定説が出来上がってきた。公記は、一級資料と言われているが、織田信長に都合の良いことしか書いていないことは言うまでもない。わたしに言わせれば、どこが一級資料なのだということだ。太田牛一が書いたから一級資料だというなら、どうかしている。現場近くにいた名も無い僧侶などの書いたもののほうが、遥かに信憑性が高く一級資料だろう。

今川勢25000-45000人というが、当時の経済状況や石高から考えて、この動員兵力はおよそ信じがたいものがある。恐らく8000-1万数千というのが、動員可能限界数であったろうとも言われる。

今川は、武田(甲斐)・北条(相模)と三国同盟を結んでいたから、まったく背後に配慮することなく、全軍を投入できたことは間違いないだろうが、実力的にはこの程度であったろう。

今川が上洛を目的として軍を起こしたというのも、非現実的である。将来的にはそれを想定していたろうが、この段階では義元はまずは、尾張平定を企図していたはずである。したがって、信長にしてみれば、これに対して徹底抗戦をするか、それとも降伏・恭順して、今川勢の傘下に組み入れられ、所領安堵を保証されるか、どちらかしか選択肢がなかったわけである。

わたしは、個人的には織田信長の奇襲成功には疑義を感じている。今川の軍事力が、言われているほど大規模なものではなかったにせよ、当時の信長の動員兵力と比べれば、おそらく2倍から3倍と思われるので、依然として圧倒的に不利な状況だったことは間違いない。

実際、織田方の前線基地は、逐次陥落・壊滅状態に陥っていた。5月12日(旧暦)に駿府を出立した義元は、一路尾張を目指し西進。19日深夜3時頃、今川方による織田方の各砦への総攻撃が始まる。

信長は、この報を聞いて、明け方4時頃に清洲城を出発。小姓など5騎のみをつれていたという。そして8時頃、熱田神社で、軍勢を終結させ、10時頃、善照寺砦に入った。この間に、丸根砦が陥落。続いて、鷲津砦も陥落した。中嶋砦の前衛に張り出していた部隊も、信長出陣の報を受けて勇躍したものの、単独で今川前衛に攻撃を仕掛けて全滅している。

11時から12時頃、信長は善照寺砦に500の兵を残して、2000を率いて出撃。13時頃、視界を妨げるほどの豪雨が降る。織田勢はこれに乗じて兵を進め、雨が止んだ直後の14時頃、義元の本隊に奇襲をかける。こういった経緯なのだが、いかに豪雨だったとしても、義元の前衛から本隊にいたる一帯を、まったくノーチェックで織田勢がすり抜けるなどということは、ほぼ不可能に近い。

ちなみに、山の上から駆け降りて、今川の首を挙げたというのは、現在ほぼ否定されている。桶狭間がどこであるのか、という点については、未だに定説がはっきりしない。

いかに今川勢の規模が、言われていたよりは少なかったとはいえ、現地で直接対峙したのが、織田2000対今川5000とすれば、やはり大きな彼我の兵力差である。しかも、信長の奇襲は、一般に信じられているような大雨に乗じては行われていない。豪雨の直後、である。つまり、晴れていたのだ。信長軍2000が、義元本営に無傷で到達できる可能性は、ほとんどない。2000人の大部隊の行動は、丸見えである。前哨戦は絶対的に発生する。

戦後、とくに桶狭間の戦いというのは、実際にはどういうものであったのか、議論が定まらない。年月が経てば経つほど、定説は揺らいでいる。

わたしのような門外漢の野次馬が、そもそも大前提として大きな疑問を持つのは、この「奇襲」が本当だとしたら、あまりにも後の信長の合戦方法と比べて、奇異な感じがしてしかたがないのだ。信長らしい戦い方ではない。

まったく万に一つの天佑を信じた暴挙に近い戦術である。なにしろ、敵の大兵が縦深陣地の形状で布陣しているところを、(現在ほぼ定説となってきているように)真正面からの奇襲である。伝えられている移動地点・地名をつなぎ合わせていくと、まったく今川本営まで一直線だったことが長年の専門家たちの研究で確認されている。裏側の高地からの急襲ではない。このような無謀な作戦は、まず、信長の性格からいって考えられない。

信長というのは、みなさんはどういう印象を持たれているか知らないが、わたしが思うに非常に慎重な男である。鉄壁の構えでしか戦をしない。さもなければ対武田信玄のように、ひたすら土下座外交で切り抜ける。

生涯の信長の数々の合戦の中にあって、たった一回、唯一の暴挙さながらの奇襲はこの桶狭間だけである。とても考えられないのだ。信長の、本来のその慎重な性格というものを、考えてみよう。

ずっと後の彼の戦歴で有名なのが、長篠・ながしの(設楽ヶ原、したらがはら)合戦だが、信玄亡き後を受けた、武田勝頼との決戦である。天正3年5月21日、西暦1575年6月29日、このとき、勝頼は1万5000、織田・徳川連合軍は3万8000から4万5000という大兵だったとされている。ちょっと横道に反れて、この長篠合戦を先に見ておこう。これこそ信長「らしさ」が良く表れている合戦だからだ。

信長は、いささか武田恐怖症にかかっていて、かなり敵の実力を過大評価していたと思うが、それにしても、彼は甲州兵1人に対抗するには、尾張兵4人でようやく互角、と考えていたようだ。確かに事実は、それを物語っている。

武田勝頼が長篠城を囲むと、徳川・織田連合軍が駆けつけた。信長にしてみれば、攻城中の敵を、外から逆包囲攻撃をするという、「後詰必勝、ごづめひっしょう」のパターンである。しかも、2倍から3倍の総兵力であるから、躊躇する必要はない。

これまで、南尾張、遠江などでつねに信長との決戦を求めていた勝頼としてみれば、ようやくその機会を得たことになる。ずっと信長は、信玄後継者の勝頼を恐れ、決戦を回避してきたのである。

この長篠では、勝頼はいつものように、徳川勢だけが相手で、信長は出てこないと踏んでいた可能性もある。つまり、誤算である。逆に言えば、ようやく信長としても、互角の態勢で勝頼と戦えると読んだとも言える。では、なぜ、信長は、今回なら、勝てると算段したのだろうか。ここがポイントだ。

ところが、後詰必勝のパターンでありながら、信長は総攻撃をしない。長篠城救援にきたはずなのに、数キロ手前に陣取り、馬防柵を三段に構え、いわば要塞陣地を構築し、完全に防御体制に入ったのである。それだけ、信長が用心深いということだ。陣地の攻撃は、最低でも3倍の兵力が必要である。しかし、彼我双方の兵力差は逆で、防御に入った連合軍が、攻撃側の4倍である。後詰必勝のパターンにもかかわらず、援軍の信長の大軍が、防御陣地を構えたのである。

このとき、武田陣営では、信玄恩顧の宿老たちが撤退を進言、勝頼が決戦にこだわったため、議論が紛糾したということで、ことさら敗戦の責任を勝頼一人に押し付ける「正史」となっているが、おそらくこれは違う。

歴戦の山県、馬場、内藤、真田など宿老たちの反対を押し切れるわけもない。なにかと専門家は、勝頼が宿老たちの意見をないがしろにし、血気にはやって決戦を求めて大失敗した、という結論にしたいらしいが、おかしいだろう。

まず間違いなく、君臣ともに決戦の結論であったはずだ。信玄でさえ陥落させることが出来なかった遠江の高天神城を落とした勝頼である。武田の版図は、信玄時代よりむしろ大幅に拡大していた。信長の支配する南尾張もすでに武田の手に落ちていた。

この状況下で、数に勝る敵に決戦を挑んだことは、この後の甲軍による連合軍に対する波状的な猛攻に如実に現れているといっていい。うがった見方をすれば、勝頼は長篠城攻略に手間取ったのではなく、適当に包囲していただけ、とも言える。つまり、これまで決戦を回避してきた信長勢に、「後詰必勝」を期待させ、戦場に引っ張り出す算段だったとも言えるのだ。長篠城包囲は、信長に出陣させるための「餌(えさ)」だった可能性もあるのだ。

さて、連合軍が防御陣地を構えた設楽ヶ原では、朝6時からの開戦で、昼前後まで武田が猛攻を続けている。連合軍の三段構えの防御柵のうち、その右翼は、なんと徳川勢が馬防柵の外に出されており、まともに山県隊と激突している。何度か、徳川勢は押されて、柵内に退避しては、山県隊を押し返すという、激しい戦闘が行われた。

連合軍のうち、最強の三河兵が、この山県隊(赤備え)の猛戦に完全にひきつけられている間に、連合軍の左翼は、武田の馬場隊・真田隊・土屋隊によって、二段まで破られている。最終的には、正面中央の三段構えが、上州赤備え・小幡隊を始め、武田の主力・内藤隊によって一時は突破されている。あとは、朝からまったく戦線に参加していなかった、親衛隊である穴山隊が一気に中央突破すればいいだけの状態になっていたのだ。甲兵の誰もが、勝ったと思った瞬間だろう。

ところが、穴山は、裏切った。この決定的な勝機に、なんと撤退したのである。この謎だが、後に武田滅亡後の穴山と織田・徳川との異様な友好関係を見るにつけ、この時点ですでに両者は通じており、裏切った可能性が高いと考えられる。

穴山信君(梅雪)は、母親が信玄の姉、妻が信玄の娘である。まったく武田御一門といっていい。勝頼は、信玄の庶子である。従い、穴山としては、信玄の正当な後継者は自分であるという自負が強烈だったと推察される。事実、記録では勝頼と穴山の度重なる確執、穴山が勝頼をなめている事績が数多く残されている。

この穴山が裏切ったというのが正しければ、これまでことごとく勝頼との決戦を忌避してきた信長が、ようやく重い腰を上げた、つまり、初めて武田に勝てる可能性が高くなったと判断したことを裏付けている。その理由は、最後の瞬間に穴山が、戦線を離脱する裏切りがあらかじめ、示し合わされていたという事であろう。

穴山隊の取った突然の撤退行動は、「正史」ではこういう理由になっている。連合軍が到着したという知らせで、武田勢は、長篠城を背後に捨て置いていたのだが、城中の奥平勢(徳川方)が、突如打って出てきたため、これへの押さえに後退したということになっているが、まったくナンセンスである。

奥平勢はたかだか500。これに徳川別働隊の酒井隊1000-2000が、合流する動きとなった、とも言われるが、どちらにしても、決戦場は前面の2~3倍の敵主力である。奥平・酒井が背後を脅かし、退路を絶たれたというのであれば、なおさら正面突破以外にないことは、自明である。

そもそも、長篠城を力攻めせず、時間をかけて包囲することで、信長に「後詰必勝」を期待させ、これをとうとう戦場に引っ張り出したのである。はなから、腹背に敵を持つことは覚悟の上。今更、背後の小勢力の抑えに、虎の子の親衛隊を回すなど、100%考えられない。敵正面の三段構えを内藤隊が突破してみせたのだ。しゃにむに親衛隊の総攻撃をかけて当然のところだろう。

この穴山隊撤収が、武田全軍に与えた衝撃は想像に余りある。これを観た、前線の甲州兵は、「見捨てられた」と思ったに違いない。御親類衆(勝頼親衛隊)が撤退したということは、寄せ集めの農兵である自分たちが、戦線に置き去りにされたことを意味する。捨て石にされたと思っても不思議はない。

いわゆる「裏崩れ」である。長時間にわたって、限界線まで大兵の敵を押し捲っていた甲州兵の心が折れたわけだ。そこからは、事態が一変し、総崩れとなる。宿老たちが必死に戦線離脱を図ろうとする兵士を押しとどめようとするが、流れはすでに総退却になってしまっている。ここで信長が一斉反撃命令をだしたのは絶妙のタイミングであった。

信長・家康が穴山と最初から通じていたと考えれば、なんのことはない。本来、「後詰必勝」パターンで、長篠城を囲む武田勢を、さらに周囲から大兵で逆包囲するという作戦より、はるかに効率的かつ合理的な必勝パターン。つまり、穴山と通じることで、武田型に裏崩れを発生させるという、いかにも信長らしい戦ぶりといえる。

激闘6時間の被害状況は驚きの事実である。なんと前半で織田6000、後半に武田8000から1万超が失われたとなっている。しかし、現在、武田の損耗数が1万を越えるという事は、無いとされており、おそらく実際には、8000人ほどだったのではないか、と考えられらる。

兵力2-3倍にもかかわらず、損耗数では、両軍とも大きな隔たりが、実は無いのだ。これを見る限り、確かに動員数2~3対1でも、損耗数ではまさに互角。しかも、武田の兵力損耗のほとんどは、後半の総崩れ、撤退戦で後ろからやられている局面である。

前半の損耗は、一方的に織田・徳川連合軍に集中している。確かにこのことからすると、武田勢は1人で2~3人を押し捲っていたということになる。信長が、尾張兵4人で、やっと甲州兵1人と互角と考えたのは、いささか敵を過大評価しすぎているものの、信長の懸念は十分に理解できる事実だ。しかも、穴山の裏切りが無かったとしたら、つまり、穴山隊の中央突破が行われていたら、連合軍は四分五裂となって、潰走した可能性すらある。

ちなみに、長篠合戦では、信長方の鉄砲隊3000丁による三段撃ちが有名だが、これは無かった。実際、現場では過去、すべて発掘された銃弾が、数発から十数発しかない。3000丁の鉄砲が、交代で前半の6時間撃ちまくられていたら、この銃弾数しか残っていないということは、ありえない。しかも、6時間という戦いもありえない。ほぼ30分から1時間で武田の攻撃隊は瞬殺されていたはずだ。

そもそも、「信長公記」には、「千丁」となっており、後で何者かが「三」を書き加えていることが判明している。しかも、千丁のうち、五百丁は、徳川の別働隊が鳶ノ巣山攻略で持って行っているから、前線には五百丁しかなかったことになる。鉄砲隊で武田が壊滅したというのは、嘘だということになる。

さてこれだけ、彼我双方の兵力差のあった長篠戦でも、信長はきわめて慎重かつ保守的な戦術で応じている。しかも、この合戦で、武田の主力が壊滅し、信玄恩顧の重臣のほとんどが撤退戦の最中、勝頼を戦線から離脱させるために盾となって、みな討ち死にしたにもかかわらず、ずっと長期間にわたり武田総攻撃をしていない。信長による甲斐総攻撃は驚くべきことに、やはり武田の親族となっていた木曽氏の裏切りが確実となった段階、つまり7年後である。いかに、信長が、慎重な性格だったかがわかる。

ちなみに、唯一生き残った重臣・高坂弾正は、激しく穴山を非難し、勝頼に敵前逃亡の咎で、穴山成敗(処刑)を強く進言している。が、意気消沈し、重臣のほとんどが戦死し、残った頼れる者が少なくなっていただけに、勝頼は穴山成敗に踏み切れず、後の滅亡への最大の伏線を残してしまうことになる。

徳川家康のことを、「石橋を叩いて、しかも渡らない」と評することが多いが、これも間違っている。むしろ家康は、若年のころから、かなり暴挙と言わんばかりの戦をこなしてきている。かなりリスクを取る戦ぶりだ。それは、最後の大阪攻めを除けば、初陣から関が原合戦までずっとそうである。逆に信長は、生涯を見渡してみても、桶狭間のような合戦例は一回もないのだ。勝ちと決まった戦ですら、異様に慎重である。

話を桶狭間に戻そう。ビギナーズラックといえば、それまでだし、若気の至りといえば、それもそれで話は終わってしまうが、どうも腑に落ちない。

民間の研究で、異説ではあるが、それなりに有力なものとはいえ、かなりこの疑問を解消させてくれるようなものがある。説得力があるのだ。それは、桶狭間合戦の「だまし討ち」説である。

この説はこういうことだ。ハナから信長は、決戦の意図はなく、降伏に行ったのだという。そうであれば、真正面から堂々と今川の縦深陣地を進んだことも、そこでノーチェック、前哨戦すら行われなかったことも、また今川本営が過度の防御態勢は解いていたことも(なにしろ、どこもかしこも、今川兵だらけなのだ)、そして、清洲城を出発した信長が、当初5騎しか従えてなかったことも、出発までまったく家臣たちと作戦会議が行われていないという事実も、すべて説明がつく。

豪雨を経て、退却してくる自軍の敗残兵をつど収容しつつ、今川本営に到達した信長一行は、( 2000人もいなかったのではないか、と思っている。せいぜい、数百、多くて1000人もいたかどうかであろうと個人的には思っている。)型通り、今川義元と対面することになるが、直前の豪雨で、今川本営は、一段と兵がまばらになっていた可能性がある。前哨戦で圧倒している今川義元とすれば、多少気が緩んでいたとしても無理はない。

この様子を千載一遇のチャンスと判断した信長は、瞬間的に降伏という選択をかなぐり捨て、「殺(や)れ」と命じたのではないか、というのだ。そもそも、負けると分かった徹底抗戦など、信長の趣味に合わない。合理的、現実的な男である。そんな犬死にの発想などない。ここは降伏・恭順して、力を蓄えようとして当然であろう。

ところが、それこそ天佑だった。豪雨によって、おそらく義元周辺が、エアポケットのように護衛兵が散漫な配備になっていたのであろう。信長に天才と器量の凄みがあったとすれば、その状況を見てとって、「殺(や)れ」と命じた瞬時の判断一つであったろうと思う。

信長らしくない潔い一か八かの正面突破の奇襲などより、はるかにこのほうが信長らしいし、土壇場で命がけの機転を利かせた、天才の名を欲しいままにするだけの閃きに感じ入る。もちろんこの「だまし討ち」説は、アカデミズム、民間を通じても、少数派である。

いったい、桶狭間でなにがあったのか、誰もわからない。ただ、こうした仮説に近いものだったとすれば、要するに、勝てるチャンスで、機動的に判断ができるかどうか、という点では、信長くらいその機を読む天才はいなかったろうとは思う。なんでも少数派が好きなわたしは、この「だまし討ち」説に、どうしてもこだわってしまうし、そうした信長のほうが、無謀な突撃をした信長よりも、はるかに信長らしいし、好感が持てるが、どうだろうか。ただの妄想である。



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