キラ星のアウトローたち

歴史・戦史


これは155回目。上は、確認されている限り、唯一とされていたビリー・ザ・キッド、生前の写真です。今回は時代を駆け抜けたアウトローたちの話です。ここではアメリカの西部開拓時代に限っています。要するに、ただの犯罪者です。ヒーローでも何でもありません。が、大衆からは圧倒的な人気を保ち続けるのはなぜでしょう?

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南北戦争後、アメリカ西部一体は白人の入植が旺盛となり、インディアンを駆逐していった。1890年暮れ、サウス・ダコタのウーンデットニー(傷ついた膝の意味)で、スー族300人近くが軍によって殺害され雪原に横たわった。

軍は「戦闘」と呼び、インディアンの側からは「虐殺」と呼ばれている事件だが、この時点でインディアンの組織的抵抗のすべてが終わった。有無をいわせぬ征服というのが実状であったろう。

この1890年の国勢調査の結果、西へ西へと進んでいった開拓ムーブメントも行き場を失った。「フロンティアの消滅」である。

南北戦争が終わったのが1865年であるから、そこから90年まで35年間がいわゆるアウトローの時代と重なる。多くが、開拓に邪魔なインディアンを討伐する時代の流れに沿って登場しては、消えていった者たちだ。

ざっと有名な西部開拓時代(フロンティア時代)のアウトローたちの巻き起こした事件を、列挙してみよう。

( 1865年 南北戦争終結、リンカーン大統領暗殺される。)
1866年 ジェシー・ジェームズら、世界初の銀行強盗。
( 1868年 明治維新)
( 1869年 スエズ運河開通)
( 1870-71年 普仏戦争、ドイツ帝国誕生)
1876年 ワイルド・ビル・ヒコックが射殺される。
1877年 ビリー・ザ・キッドのリンカーン群戦争。(同年、第七騎兵隊全滅事件)
(同年、西南戦争、英領インド帝国誕生。)
( 1880年 渋沢栄一の第一国立銀行設立、東京株式取引所開設)
1881年 ワイアット・アープらがOK牧場の決闘。ビリー・ザ・キッド射殺される。
1882年 ジェシー・ジェームズが射殺される。
( 1886年 フランスからNYに「自由の女神」像届く)
( 1889年 明治憲法発布、東海道本線全通)
1890年 フロンティアの消滅宣言。
( 1894年 日清戦争)

こうしてみると、ちょうど日本では幕末から、日清戦争前夜までの期間が、アメリカのアウトローの時代と重なっていることがわかる。

ワイルド・ビル・ヒコック(バッファロー・ビル)は、この西部開拓時代初期における、バッファロー狩りで大いに西漸運動(西を目指す人口移動)で名前を馳せたガンマンである。

ヒコックは、とくにならず者という人物ではなかったようで、北軍に従って活動していたものの、そのガンマンとしての腕の良さから、バッファロー狩りや駅馬車の御者、保安官など、転々と仕事を変えていたようだ。

ただ、西部開拓時代初期にあって、生前から大変有名になっていたため、後に伝説化されたようだ。

あまりに武勇伝が知られたことで、彼自身西部劇ショー(ワイルド・ウェスト・ショー)を主催して各地を巡業。サウスダコタ州デッドウッドの酒場で、ポーカーに興じているところを、無宿ものに背後から打たれ、後頭部を撃ち抜かれて死んだ。

ビルが手に持っていた手は、黒のAと8のツーペアだったことから、現在に至るまでプレイヤーが忌み嫌う「デッドマンズ・ハンド(死者の手)」と呼ばれているそうだ。最後の一枚は長いこと不明だったが、一つの答えが出されている。

西部開拓の歴史家カールWブレイハンの研究によると、ビルが持っていた最後のカードは、ネイル・クリスティという人物が床から拾い集め、彼の息子に引き継がれた。ブレイハンに、その息子に語ったところでは、「デッドマンズ・ハンド」は、伝説とは微妙に違い、次のようなものだったらしい。

クラブと足跡のついたダイヤのA、クラブとスペードの8。そして、ビル・ヒコックの小さな血痕がついたハートのQだ。

さて、西部劇時代のほぼ全時代を通じて、「活躍」していたのは、ジェシー・ジェームズ兄弟だ。世界史上初の銀行強盗に成功し、以来銀行強盗や鉄道襲撃で暴れまわった。

4歳上の兄フランクとともに、牧師の家に生まれた。奴隷を使うタバコ農園を経営していたのだが、南北戦争がはじまると二人とも南軍ゲリラ部隊に参加し、そこで殺人や強盗を覚えた。たいていこの時代、南北戦争従軍経験者が多く(戦争参加の7割が10代だったという統計もある)、戦後始まったインディアン支配地域を侵食していく過程で、職にあぶれた彼らは、こぞって用心棒やひいては強盗稼業になだれ込んでいったわけだ。

兄弟が所属していたクァントレル・レイダーズ(クァントレルが率いた南部ゲリラ部隊)は、カンザス州の北部支持が強かったローレンス市を襲撃し、いわゆる「ローレンスの戦い」を引き起こしている。

戦いといっても、隙をねらった奇襲であり、実際には大量処刑に近いものだった。165人の女子供を含めて殺害されている。兄のフランクはこのとき、クァントレル・レイダーズにいたようだが、弟のジェシーはいなかったかもしれない。

彼らの犯罪は、アメリカでは「義賊」としてのイメージで飾られている。ジェシー・ジェイムスが収奪の対象を実業家らに限定した、ある程度の「義」と呼ばれるものをもっていたのは確かだが、現実には逃走時に銀行員の喉をナイフで?き切ったりするなど、結局は極悪非道の無法者となにも変わらない。

たとえば、ジェシーが逃走中、ある農家に立ち寄り、食事を所望したところ、婦人が出てきて対応してくれたことがある。婦人によれば、「あなたたちはラッキーよ。1400ドルの借金が返せないので、明日は人手に渡るところなの。」

ジェシーたちは、奪ってきた金から1400ドルを婦人に渡し、食事の礼を言って立ち去った。ところが、翌日借金取りが婦人を訪れ、1400ドルを受け取ると、ジェシーたちはそれをアンブッシュ(待ち伏せ)して皆殺しにし、金を取り戻したという。

この話の真偽はともかくとして、ジェームズ兄弟の行った「義賊的行為」というものも、しょせん裏側はこういうからくりだろう。

ジェシーは、ミズーリ州で生死にかかわらず1万ドル(Dead or Alive, $10,000 Reward)という賞金がかけられた。これによって、仲間うちのフォード兄弟に背後から打たれて殺された。

兄のフランクは、州知事に自首し、以降は平穏な生活を送り、なんと1915年(第一大戦中)まで生きて、72歳で死んでいる。西部開拓時代のアウトローたちの中では、ワイアット・アープ(OK牧場の決闘)とならんで、非常に珍しく長生きした人物である。

ちなみに、正義の保安官としてのイメージが強いワイアット・アープは、さらに後年まで生きている。死んだのが1929年。享年80歳であるから、おそらくアウトローの中では最高齢であったろう。1929年といえば、言わずとしれた、昭和4年、つまり大恐慌の年である。

ワイアット・アープは、若いころからバッファロー狩りで生計をたて、ガンマンになった。早くからカンザス州で、保安官事務所に勤めるが、やり方が荒っぽすぎるため、追放されている。

農業もやり、その傍ら、賭博場の胴元、そして売春宿の経営者もやっている。1979年、兄のバージルがアリゾナ州トゥームストーン(墓石の意味)で、保安官になった。

そこで、OK牧場の決闘になる。牛泥棒をしていたクラントン一家は町で評判が悪く、住民から彼らの武装解除をせよ、と保安官事務所は要請された。

バージル・アープは、弟のモーガンとワイアット、その友人のドク・ホリデー(もともと歯科医である)、この4人で武装解除に向かい、名高いが、たった30秒30発のガンファイトが演じられることになった。

路上でのほとんど至近距離での銃撃戦であり、アープたちは全員殺人罪で起訴されたが、無罪。クラントン側は、その後バージルとモーガンを闇討ちし、モーガンが死亡。アープら自警団は、モーガン殺害の実行犯とみられたフランク・スティルウェルをツーソン駅構内で殺害。やってはやり返すという血みどろの殺し合いになっていく。

後、ロサンジェルスに逃亡したアープは、映画勃興期、いわゆる西部劇映画の決闘の演技を指導する仕事に就く。ちなみに、OK牧場の決闘という名前だが、1957年にジョン・スタージェス監督の西部劇「OK牧場の決闘」以来、定着している。

しかし、実際にCorralは、家畜の囲いを意味しており、牧場の畜舎を指すこともあるが、現実には当時のトゥームストーンの現場には、牧場は存在しなかった。ただの牛や馬を、通りすがりの小休止用に確保しておくための囲い場があった。それに面した路上での銃撃戦だったのだ。

さて、最後はビリー・ザ・キッドである。おそらく西部開拓史上最も有名で、ヒーローにふさわしいイメージの人物だが、これこそまったくの悪党である。

ジェームズ兄弟のような、「義賊」の振りすら微塵も見られない。NY生まれのビリーは、本名を、ウィリアム・ヘンリー・マカーティ・ジュニアである。母親が再婚したので、ヘンリー・アントリムに変わった。

が、本人は後のアウトロー時代には、ウィリアム・ボニーと名乗っていた。通常知られているのは、12歳のときに、母親を侮辱した男を殺してアウロトーになり、21歳で死ぬまでに21人を殺害した、というものだが、実際に家を出たのは15歳のときであり、最初の殺人は17歳のときだそうだ。

確実と目される殺害人数の実数はおそらく9人(自分単独で4人殺害。共謀で5人殺害。)ただ、これには、インディアンの殺害人数は含まれていない。

アリゾナ、テキサス、メキシコ国境で牛泥棒、強盗、殺人となんでもやった。ニューメキシコのリンカーン群で、ジョン・タンストールの用心棒となった。タンストールは、牧場、雑貨商、銀行を経営していたが、先行業者に妬まれ確執が高まっていたのだ。縄張り争いから、タンストールが殺害された。ビリーら用心棒らから視認できる距離で起こった事件である。

残った用心棒たちが、商売敵らと2年にわたる「リンカーン群戦争」を引き起こしたのだ。

ビリーは、翌年12月に、友人でもあった保安官パット・ギャレットによって逮捕される。しかし、翌1881年4月18日に脱走。これが、NYタイムズで報道され、有名になった。

7月14日、ニューメキシコ州のフォートサムナーで、ギャレットに射殺されている。ビリーはこのとき丸腰だったようだ。寝室から食べ物(か、飲み物)を取りに部屋を出たところを闇討ちされた、とされている。「OK牧場の決闘」は、この3か月あまり後である。

射殺される寸前に発した最期の言葉は、スペイン語の「Quien es?(キエネス? 誰だ?)」だという。ただ、この状況はギャレットによって残されたもので、不自然な点が非常に多く、真実はよくわかっていない。ただ、生前、ビリーはアメリカ人より、メキシコ人たちと一緒の時のほうが、気が楽だといつも言っていたそうだ。

ビリーは、学校を出ていないが、逮捕されていたとき、州知事のウォーレスに恩赦願いの手紙を出している。直筆の手紙が今に残っているのだが、それはかなりの達筆である。かなり母親による家庭での教育が行き届いていたと推察される。

また、160cmという小男で、冗談をいい、非常に当たりの良い、優男だったことは多数の証言ではっきりしている。いわゆる西部開拓時代の無頼のアウトローのイメージからは、かけ離れていたようだ。

左利きだったという点は、唯一残っている写真が、銀板写真による左右反転だ、といった議論から、さまざまこれまで論争が行われていたが、いまだに決着がついていない。

射撃の腕は相当のものだったようで、酒場でジョー・グランドという流れ者を殺害したときの逸話が有名である。

多くの目撃者がいたこの事件は(フォートサムナーに潜伏していたときの事件だ)、ビリーは持ち前の人当たりの良さをはっきして、ジョーに真珠のグリップのついた自慢の拳銃を見せてくれ、と頼んだ。

ビリーはそこで弾数をたしかめて、初弾が空(から)のシリンダーに当たるように回しておいた。やがて、口論になり、ビリーが酒場を出ようとすると、ジョーはビリーの背中に向けて引き金をひいた。

撃鉄が空のシリンダーを叩く音で、すかさずビリーは振り返りざまに抜き打ちをし、ジョーの眉間を三発撃ちぬいている。ビリーは鼻歌を歌いながら、去っていった。

大勢が死体を確かめると、ほぼ同じ場所に打ちぬいた弾痕は、コイン1枚分の中に納まっていたという。

ロデオなど、馬乗りも見事なもので、この目撃者も多い。ビリーは、前歯の二本が「反っ歯」であるか、非常に大きく、ウサギのような感じだったらしい。残された唯一の写真でもそれは確認できる。

ところが、である。最近、西部劇ファンを熱狂させる「事件」が起こった。唯一とされていたビリー・ザ・キッドの写真が、もう一枚発見されたというのである。

カリフォルニアの中古品店で2ドル(約240円)で販売されていた写真が、ビリー・ザ・キッドを写した非常に貴重な写真であることが判明したのだ。その価値はなんと、500万ドル(約6億円)に上るという。

過去、ビリー・ザ・キッド本人を写したものと認められた写真は、1枚しか存在しないとされていた。西部開拓時代の骨董品や希少硬貨を専門に扱う企業ケイガンズ(Kagin’s)によると、大きさ10×13センチのこのスズ板写真は、1878年に現在のニューメキシコ州で撮影されたもので、ギャング仲間らとクロッケー(ゲートボールのようなもの)のゲームの合間にポーズを取るビリー・ザ・キッドが写っている。

ビリー(左の人物)は地面を突いたクロッケーのマレットにもたれかかり、にやりと笑っているようにも見える。頭にかぶった暗い色の帽子は、これまで唯一とされていたビリーのかぶっていたものに、よく似ている。

ビリーは小さな木造の建物の前に立ち、その左側には赤ん坊を抱いた、地面に届く長さのスカートをはいた女性が写っている。さらにその左には子どもたちがいる。タンストールのランチ(牧場)で取られたものらしい。

ケイガンズによると、2010年にカリフォルニア州フレズノの中古品店で西部開拓時代の収集家が購入したもので、写真が本物であることを証明する調査は1年を要した。ニューメキシコ州で撮影現場の検証も行われた。写真の専売権は同社が有しているという。

これまで、ビリー・ザ・キッドのものと認められた最初の、ライフルを持った写真は、1880年に撮影された肖像写真。これは、本人であることがすでに確認されているが、2010年に230万ドル(約2億7000万円)で落札されている。

今回、ケイガンズ社は、コンピュータによる顔認証などあらゆるアプローチで、すでに確認されていたビリーの写真と、今回の写真を比較し、間違いないという結論に達したという。

こうなると、大変だ。おそらくアメリカ人は雑であるから、古い写真など、地下室や倉庫に、うなるほど放置されていることだろう。今回「発見」されたもののみならず、とんでもないお宝が、眠っているかもしれない。

なにしろ、古道具屋で2ドルで売られていたものだ。これからアメリカに行く機会がある人は、ナイアガラ瀑布や、グランドキャニオンどころではない。NY五番街のティファニー本店や、ヤンキース・スタジアムどころではないのだ。とにかく、余った時間はすべて、骨董屋巡りに充てたほうがよさそうだ。やっぱり、アメリカには、夢がある。



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