昼行燈と呼ばれた男~借りは返した。

歴史・戦史

これは158回目。知られざる男の筋の通し方です。日本には、こんな人もいたのです。

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その男は1949(昭和21年)年6月、いつものように釣りに出かけたまま忽然と姿を消し、帰宅しなかった。そして1952(昭和24年)年6月、突如として羽田に降り立ったその男は、3年間一体何をしていたのか、ほとんど家族にも語らないまま、1966年(昭和41年)に逝った。根本博という。終戦時には駐蒙古(モンゴル)軍司令官で、陸軍中将だった。

戦前は、その茫洋とした風貌から、上官などには昼行灯(ひるあんどん)と揶揄(やゆ)されていた。死後、実はあの3年間に、中華民国・台湾軍(国民党)の軍事顧問として台湾に密航。国共内戦に参戦し、金門島で中国人民解放軍を撃破していたことが明らかになった。その話だ。謎は深い。だから事実だけを書き、評価は読者に委ねたい。

1945年8月、満州、南樺太、千島列島へ不可侵条約を破って越境侵攻をしてきたソ連軍は、根本が管掌していた蒙古(モンゴル)にも襲来した。その数4万2000人。戦車・装甲車400両。迫撃砲など600門。これに八路軍(中国共産軍)が共同戦線を取った。

満州ではすでに悲惨な状況が繰り広げられていた。大本営の停戦命令をまともに遵守した関東軍は(一部には、徹底抗戦を主張する者もいたが)、事実上、邦人居留民を見捨てる結果になり、多くの悲劇を生み出した。その惨状はすでに駐蒙古軍の根本にも知らされていた。

根本は、張家口を中心に居留する4万人の日本人を前に、停戦命令を無視した。南樺太や千島で、樋口季一郎第五方面軍司令官と同様、「徹底抗戦」を下したのだ。指揮下の動員可能兵力はわずか5000人。

「理由ノ如何ヲ問ハズ、陣地ニ侵入スルソ連軍ハ断乎之ヲ撃滅スベシ。コレニ対スル責任ハ一切司令官ガ負フ。」

南樺太や千島(占守島)と同様、ここでも「8月15日からの戦争」が繰り広げられることになった。

根本は、戦犯に問われれば、自分一人が腹を切ればよい、という覚悟だったようだ。この覚悟は、「徹底抗戦命令」によって前線にも伝わった。はるかに劣勢にもかかわらず、士気が猛然と湧き上がったという。満州の二の舞にはさせない、ということだろう。

昼行灯と呼ばれながらも、この根本の判断は見事だった。しかし、最前線の丸一陣地を守った独立混成第二旅団(響兵団、辻田新太郎参謀の直接指揮)の死闘は想像を絶する。

19日から始まった戦闘は、三方から突撃してくる敵に対して、銃剣や日本刀を振るう、まったくの白兵戦だったと言われている。20日未明から邦人4万人を北京・天津に脱出させるため、鉄路防衛に兵員が割かれていた。直接ソ連軍や八路軍を食い止めるのは、響兵団の2500人に託されていたのだ。兵団は敵味方入り乱れての乱戦を三日三晩持ちこたえ、すべての攻撃を押し返した。

あまりの抵抗のすさまじさに、ソ連の機甲師団は戦意喪失して進軍を停止。前線には厭戦(えんせん)気分が蔓延した。日露戦争当時の対日本軍アレルギーがよみがえったかのようだったらしい。

その間隙を縫って兵団は逐次撤退し、27日にようやく万里の長城を越えて帰還。長城まで出迎えた後詰めの部隊は、生還した旅団の姿をみて涙にくれたという。邦人居留民は、すでに24日に天津に全員無事脱出していた。

これには裏があった。国民党政府総統の蒋介石に、根本は後方支援を要請していたのだ。蒋介石は援護を約束した。なにしろ、16倍もの敵を三方から一手に引き受けるのである。たった三日間といっても、ほとんど勝算がない。ましてや、後ろから中国・国民党軍に匕首(あいくち)で刺されたのでは、万事休すだ。

蒋介石にも思案があったろう。ソ連が満州や内蒙古などに居座り、既得権を主張されたのではたまらない。日露戦争前の状態に戻ってしまうことになりかねない。日本軍という敵から、もっとタチのわるい、しかも強大な敵になりかわるだけだ。しかも日本軍は降伏しており、おまけに骨肉の争いをしている中国共産党軍がソ連軍に便乗している。

見事、居留民脱出に成功した根本は全軍を撤収、正式に国民党軍に降伏した。同時に謝意を表し、その後は復員作業を担当。北支在住の居留民と、軍属36万人を復員させ、自身は最後の引き上げ船で1946年8月に帰国した。もちろん、ソ連に不法抑留された軍民は別の話である(ちなみに私の祖父は4年、叔父は2年、シベリア抑留された)。

蒋介石は、歴史的評価がいまだに定まらない人物の一人だ。中国はもちろん、台湾でも高齢の本省人の間では怨嗟を以って語られるくらいだ。しかし、根本にとっては居留民を早期に脱出、復員させることができたのは、蒋介石の支援があってのことだと理解していた。その意味では、蒋介石本人がいかなる人物であるにせよ、「大きな借りがある」と認識していたことは間違いない。

戦後、故郷の福島に戻り、ブラブラしていた昼行灯は、毎日のように釣りに出かけていた。そこに、思いがけず、「借りを返す」機会がやってきた。

中国では、蒋介石の国民党軍と毛沢東の共産軍が全土で内戦に突入していた。蒋介石は敗退につぐ敗退で、台湾に脱出する寸前だった。蒋介石、絶体絶命のピンチだ。

一説には、根本自身が直談判して軍事顧問に赴いたとも言われているが、はっきりしたことはよく分からない。ただ、1949年6月のある日、釣りに出かけたまま、根本が密航したという事実だけがある。

根本は、貿易商・明石元長の奔走で、通訳の吉村是ニとともに、漁船で九州から密航した。10月、苦難の末、台湾に上陸。ちょうど、蒋介石が大陸から追い落とされて、台湾に脱出したころだ。最前線は、福建省の沖合い数キロメートルのところにある、金門島の防衛戦に移行していた。

蒋介石が、この金門島を失陥すれば、台湾本島は丸裸になる。国民党政権も、風前の灯というところだった。当時誰もが、「これで蒋介石も終わりだ」と思った瞬間である。根本は、ただちに湯恩伯将軍の第五軍管区司令官顧問となり、中国名「林保源」を称した。

同じく10月には、北京で中華人民共和国が誕生し、その勢いを駆って、共産軍は金門島経由で、台湾侵攻に打って出た。当初、国民党軍は、敵を上陸地点の水際で撃退する作戦をたてたが、これでは負けると判断した根本が作戦を引っくり返した。

根本案はこうだ。あらかじめ住民をまず市街地から避難させ、共産軍に上陸を許し、市街地奥まで引っ張り込む。一方で、海軍の支援を得て、別働隊に海岸線を回りこませ、上陸船を破壊。補給を断つ。市街地に突入した共産軍には、四方八方から十字砲火を浴びせる。

要するに包囲戦を進言し、これが採択された。共産軍は2万人で押し寄せたが、25日の上陸後、おおむね事態は根本の作戦通りに進行し、27日にはほぼ人民解放軍は全滅した。台湾側は、陸海空三軍の合計では4万人だったが、実動部隊は8000人から1万人だったようだ。

古寧頭の戦いというこの一戦は、敗戦につぐ敗戦だった国民党軍にとっては、実質的に初の完全勝利だった。人民解放軍としては恥辱的な惨敗だった。

翌年には朝鮮戦争が勃発。中国は台湾どころではなくなり、この間に台湾は自主独立路線に道を開いた。中国の台湾への武力侵攻の機会は、ほぼ消えうせた。

実は、台湾はこの後も長きにわたり、金門島を巡り中国と砲撃戦を繰り返している。根本以外にも83名に及ぶ旧日本軍人が、1949年から1969年まで顧問として台湾にいた。これを「白団」と呼ぶ。ただ、根本は古寧頭の一戦後、事態の沈静化を見て、居座ることなくさっさと52年には帰国する。

当時、吉田茂首相は、国会で「旧軍人が台湾に密航して、戦争に参加している疑い」について問い詰められたが、「そんなことがあるかもしれない」として、言葉を濁した。どうやら、日本政府が一枚噛んでいたらしい。

その真相は不明である。ただ、この昼行灯、少なくとも「借りは返した」という思いはあったろう。羽田に降り立った根本は、3年前、家を出たときと同じ格好で、釣竿一本を持ってタラップを降りてきた。あたかも「ちょっと、釣りにいってきたよ」といわんばかりだったという。

根本は、一体台湾で何をしてきたのか、死ぬまでほとんど語ることはなかった。台湾政府も、長年、旧日本軍人が対中共軍との戦争に参加していたことは、全面否定していた。

が、2009年に行なわれた古寧頭戦役戦没者慰霊祭で、根本、明石、吉村の遺族らは招請され、式典の最前列に席を与えられた。馬英九総統(当時)は、この場で公式には初めて根本ら旧軍人の存在を認め、栄誉を称えた。

蒋介石は、よほど助っ人の根本に感謝していたのだろう。景徳鎮の一対の花瓶がある。エリザベス女王の成婚( 1947年)に際して、蒋介石が用意し、英国に贈ったものだ。一対だから、二つで1セットなのだが、実は3セットつくらせていた。もう1セットは日本の皇室へ。残った1セットは蒋介石が自分の書斎に置いていた。その片方を、根本に持たせたのだ。

「これは、私だ。あなたを決して忘れない」と、蒋介石は言ったという。その後、遺族の要望で景徳鎮の花瓶は近年台湾に戻ったそうだが、「借りは返したい」根本としては、草葉の陰で「それでいい」とうなずいていることだろう。



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