「ホームラン性の大ファウル」~北一輝という男

歴史・戦史

これは166回目。参院選です。憲法改正も大きな一つの論点、すくなくとも安倍政権はそれを視野に入れた選挙と考えているようです。この日本国憲法というのは、もとをただすと、一人の人物の著作に行き着く、といった説があります。そのことです。

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平和憲法と言われる日本国憲法の原型が、俗にいう極右派の思想家の書いた一冊の本だったといったら、どう思うだろうか。その思想家というのは、非常に評価が分かれたまま、いまだに定説というものがない、国家社会主義者・北一輝という男だ。人間、あまりに思想が右へ極端に走ると、ほとんど極左と何も変わらなくなる。かつて三島由紀夫が、全学連と1対100の討論会をやったことがあるが、「君たちが天皇という一言を認めてくれれば、ぼくは君たちと行動をともにしても良い」と言い切ったが、これも同じだろう。

昭和という激動の62年と14日間は、数々の怪物を生み出した。怪物と言われるだけのことあって、みな権威とは無縁、無冠の帝王だ。あまりに個性的な言動は、触れば火傷をしかねない危うさに満ちていた。今回はそのうちの1人、北一輝のことを書いてみる。

一般に北一輝は極右思想家であり、2.26事件(陸軍青年将校たちによるクーデター事件)の黒幕として、青年将校たちとともに銃殺刑に処された男として知られる。実際には青年将校たちは、クーデター計画の露呈を避けるため、北には話すらしていなかったから、北は冤罪(えんざい)で処刑されたことになる。

新潟県佐渡島出身のこの男は、青年時代からアジア民族の、西欧列強からの解放を夢見ていた。清朝末期の中国大陸に渡り、孫文や宋教仁らの革命運動に参加。『支那革命外史』を表す。熱狂的な日蓮宗徒で、神がかり的ですらあった。いったい、右なのか左なのか。混沌としすぎているため、左右両派から絶賛されたり毛嫌いされたり、その歴史的評価は分かれすぎている男だ。

この男が、一世一代の本を書いた。それが『日本改造法案大綱(大正12年、1923年)』である。この本は、その内容の過激さから発禁処分を受けた。戦前、右翼なのにこうした弾圧を受けるというのも不思議だが、それゆえ北が2.26事件の青年将校たちから熱狂的に支持されていたのであろう。現在、教科書でも2.26事件は、その後の軍事独裁政治、中国との戦争、太平洋戦争への道を開いた事件だという通り一遍の解釈がまかり通っている。

発禁処分となったため、ガリ版刷りで青年将校たちが読み漁ったこの禁断の革命書は、その第一章から、驚くべき主張を訴えている。それは「国民の天皇」という概念だ。天皇の神格化と天皇主権を定めた大日本帝国憲法を、徹底的に否定・批判した内容となっている。この第一章は、国民主権を大前提としている点で画期的な内容だった。これが戦後、この本を含めてすべての右翼的な文書がGHQによって処分される一方、日本国憲法を作成する作業の「密かな雛形」になった。いわば、新憲法の、「幻の原案」でもある。

何も、「国民の天皇(国民主権)」にとどまらない。「日本改造法案大綱」は、言論の自由、基本的人権尊重、華族制・貴族院の廃止、農地改革、普通選挙、男女平等・男女政治参画社会の実現、私有財産への一定の制限(累進課税の強化)、財閥解体、皇室財産削減など、およそ、戦後連合国による日本の戦後改革をことごとく先取りする内容が列挙されている。

すでに天皇機関説を唱えていた美濃部達吉や吉野作造と比べても、北一輝のほうがずっと人民主義であるとされる所以だ。その実行には、天皇の名によって指導された国民によるクーデターが必要であり、三年間明治憲法を停止し両院を解散して全国に戒厳令を敷く。普通選挙によって、国家改造を行なうための議会と内閣を設置する。なぜ、ファシストと呼ばれた青年将校たちは、この北一輝の思想を実現しようとしたのか。

当時、青年将校たちの部下である兵隊たちには、農家の次男坊や三男坊が多く、実家はあまりの極貧で姉や妹が身売りをする者もいた。このような状況下、泥沼状態の日中戦争に駆り出されていくことに心を痛めていた。戦争どころではない。この間違った社会を立て直すのには、まず日本に革命を起こさなければならない、と彼らはまじめに考えていた。将校たちの多くが、自分の給料をはたいて部下たちに分け与え、故郷に仕送りさせていたくらいだ。

そして彼らは、北一輝の禁断の革命書を読み漁り、思想的な支柱を得て、実際に反乱を実行していく。彼らは、北一輝の国家改造を実現し、それによって馬鹿馬鹿しい中国大陸での戦争に終止符を打ち、最終的には米国におけるような議会制民主主義を確立して、むしろ対ソ戦に備えることを目標としていた。

ただ、彼らはそれまでの教育によって天皇を神と頼んでいた部分が強く、政治を壟断(ろうだん)しているのは、軍部の統帥者たち、財閥、腐敗した政府と政党・官僚だと信じていた。ところが北一輝は生粋の明治人らしく、天皇を心底神だとは信じてはいない。あくまで国家の象徴的権威であり、機関でしかないと考えていた。それで決起した将校たちが、2.26事件で重臣たちを暗殺した後、山王ホテルに立てこもってしまったことに、思想の未熟さを感じ取ったようだ。北一輝であれば宮城に突入して、天皇の身柄を確保するという強硬手段にまで訴えてもおかしくはない。

1937年(昭和12年)8月14日、北一輝は民間人にもかかわらず、特設軍法会議(一審制)にかけられた。そして、非公開・弁護人なし・上告不可のもと、理論的指導者の内の一人として死刑判決を受け、5日後に銃殺された。青年将校たちは銃口を向けられると、「天皇陛下万歳」と叫んで死んでいった。その声は、北一輝の房にも聞こえていた。やがて、一緒に処刑された西田税(みつぎ)が、銃殺隊を前にして、「先生、私たちも天皇陛下万歳と唱えましょう」と言うと、北は冷ややかに答えたそうだ。「私は、死ぬ前にそういう冗談は言わないことにしています」。

北一輝は、『日本改造法案大綱』のほとんどの項目が、戦後GHQによって実現されていくことを、何一つ見ることなく死んでいった。花田清輝などは、こうした北一輝を日本の歴史上、「ホームラン性の大ファウル」と評したが、言い得て妙である。

東京の代々木公園から、オリンピック・プール、NHK、渋谷区役所までの一帯は、かつての陸軍代々木連隊の演習場だった。北一輝たちはそこで処刑された。現在、渋谷区役所とNHKの間に渋谷税務署がある。慰霊碑が建っているので、すぐ分かる。そこで、彼らはちょうどNHKの建物に背を向ける格好で縛られ、銃殺された。“昭和の怪物”の1人、北一輝はいまだにその思想の解釈を巡って議論が分かれたままである。ただ、はっきりしていることがある。極右と言われ、怪物と恐れられた北の思想の延長線上に、日中戦争の拡大や太平洋戦争の可能性はなかった、ということだ。



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