死んでも死なない。

歴史・戦史

これは179回目。何があっても死なない人というのがいます。歴史が、あるいは運命が、どうしてもその人を必要とするそのときまで、なにがなんでも生かし続けようとする意志を持っているかのようです。そんなお話です。

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鈴木貫太郎。第42代総理大臣。大日本帝国最後の内閣だ(正確には、この後最後の帝国内閣としては、東久邇宮内閣があるが、形式的なものであり、実質的には鈴木内閣が、帝国に引導を渡したことは間違いない)。一億玉砕を主張する陸軍を抑え、ポツダム宣言を受諾し、無条件降伏を決定させた、いわゆる終戦内閣である。

この人物は、幼少期から、何度となく死ぬ目に遭ってきた。3歳のときに暴走馬に蹴られ、少年期には魚釣りの最中川に落ち、海軍に入ってからは、夜の航海中に海に落下。ところが、ことごとくに九死に一生を得るという、数奇な運命をたどっている。それはあたかも、鈴木貫太郎に大日本帝国の最後の葬式を出させるために、運命の女神が導いていたようにすら思える。

1868年慶応3年、和泉国は現在の堺市中区伏尾の代官の長男として生まれた。翌慶応4年9月から、時代は明治に改元されている。江戸時代の晩年でこの世に生を受けたのだ。まさに貫太郎は、近代日本、大日本帝国の産声を聞いたことになる。

明治5年には、一家が千葉県は現在の野田市に居を移している。西南戦争の年( 10歳のとき)に、群馬県前橋市に転居し、小中学校を卒業。1884年明治17年、海軍兵学校に入っている。1888年、20歳のとき、旧会津藩士の娘・とよと結婚。

1894年、26歳のとき、日清戦争に従軍。海軍大尉だったが、50トンの、トイレも無い小さな水雷艇の艇長として実戦配備された。要するに魚雷艇である。当時の水雷艇というのは、モーターボートに魚雷発射装置をつけたような代物だと思えばよい。これで、清国艦船に肉迫攻撃をして撃沈するという戦果を挙げている。同僚たちからは、「鬼貫」と呼ばれたそうだ。

実は次の日露戦争前に、ドイツに駐在したことがあり、そこで海軍を辞めようとしたこともあったらしい。海軍の薩摩閥優位ということなのか、筆者は詳細を知らないが、海軍内部の差別体質を非常に嫌っていたことは間違いない。たまたま、日露開戦が時間の問題となってきていて、国元から父親の手紙が届き、『お国にご奉公するときが近そうだ。がんばれ。』と激励され、翻意したと言われている。

36歳のとき、日露戦争では、駆逐隊司令として参戦。持論だった高速近距離射法を有効にするために、猛訓練を実施している。このときにも「鬼の貫太郎」「鬼の艇長」と呼ばれたらしい。戦争中、自身の率いる駆逐隊でロシア海軍旗艦のスワロフに、魚雷を命中させる大戦果を挙げている。このときの戦果は、合計三隻撃沈。秋山真之参謀から、「手柄をほかの隊に、分けてやってくれないか」と頼まれたほどだ。

近代日本最初の二大戦争を、戦場で経験したこの貫太郎は、大正元年1912年に妻・とよと死別。第一次大戦勃発の1914年には、46歳で海軍次官となっている。翌年、後妻にタカを迎える。この足立タカは昭和天皇の幼少期に、御養育掛を務めていた女性である。

このタカ夫人が、後に重要な役回りを演じることになる。足立タカは、数え五歳の(後の)昭和天皇の御養育掛となり、10年間勤めあげた。昭和天皇は、タカを母親のように慕っていたという。

タカは、この役目を終えたのち、大正四年、やもめぐらしをしていた鈴木貫太郎海軍少将に嫁いだわけだ。 この経緯があって、昭和天皇は、侍従長・総理時代の貫太郎に、「タカは、どうしておる」、「タカのことは、母のように思っている」と、いつも尋ねていたという。

第一次大戦後、1923年に、貫太郎は55歳で海軍大将。翌1924年には、連合艦隊司令長官にまで栄進している。幸か不幸か、任期中には連合艦隊が出動するような戦争が起こっていない。その後、海軍軍令次長を歴任。

1929年には、昭和天皇・貞明皇后の希望で、予備役となり、侍従長に就任している。侍従長というのは、天皇陛下に側近奉仕する文官である。直前の職歴であった、海軍軍令部長からは、30ランクほどの降格人事でもある。

大日本帝国海軍黎明期から、生え抜きの日本海軍軍人であった貫太郎が、この侍従長職を断らなかったのだ。しかし、このことが昭和天皇の信任が非常に厚かった一方で、国家主義者やその思想の影響下にあった青年将校たちからは、「君側の奸」と目され、二度にわたって命を狙われる事態につながっていく。

そして、有名なニ・二六事件である。1936年、68歳のとき。当夜、貫太郎はタカ夫人とともに、駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーと会食をして侍従長邸に帰宅。そして安藤輝三大尉率いる反乱軍の一隊が突入してきたのだ。

貫太郎は、額、心臓横、腹、肩を撃たれたが、九死に一生を得ている。このとき、タカ夫人が、戦後近所の人から当時のことを聞かれて語った内容が録音されている。それによると、226事件の話をするとき、タカ夫人は手が震えて、顔も紅潮していた、という。

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十何人ぐらいの兵隊さんが入ってきて、『閣下でありますか』って聞いているのです。
『ああ、そうだ。わたしは鈴木だ。』と言って、『何事が起こって、こんな騒ぎをしているのか。話したらいいじゃないか』と尋ねました。
これには兵士たちは返事をしないんですね。
私(タカ)のところには、二人の兵士が剣付き鉄砲で、座っているんですからね、どうすることも、動くこともできないけど。
(兵士の一人が)『ヒマ(時間)がありませんから撃ちます』と言って、鈴木に銃弾4発が撃ち込まれました。
兵隊さんたちの方はね、「とどめ、とどめ」と大きな声で言ったんです。
私が見ていると、まだ主人が息をしていました。別れでも、ひと言生きているうちに言いたいと思って、兵隊さんたちに言いました。
『老人です。とどめだけは、どうか待ってください』
安藤大尉がそれを聞いて、『とどめだけは残酷だからよせ』 と言いました。
安藤さんが私の側に来てね、『奥さんですか』って言うから、「そうです。何ごとですか。』って、聞いたのです。
『陛下の考えていることと、我々躍進日本を志す若い者との意見の相違です』って。

(註)但し、このとき実際に、八畳間に端座した(タカ夫人は一間ほど隣に座っていた)貫太郎に銃弾を撃ち込ませたのが、安藤大尉の直接の命令であったかどうかは、実は不確実なのである。
というのも、銃撃の瞬間には、安藤大尉はその場におらず、『とどめを刺す』かどうかでもめたところで、女中部屋に入っていた安藤大尉が呼ばれたという証言があるからだ。つまり、貫太郎と対峙するのを避けていたということになる。実際、貫太郎は、安藤大尉だと認識していなかったのだ。(それ以前、自宅に来た安藤と長時間にわたって時局について議論を戦わせたことがあったにもかかわらず、である)
とすると安藤大尉が、部下に貫太郎の射殺を任せたのか、そうだとするとその理由は何なのか。一つの理由が、考えられるのだが、後述する。

この後、安藤は、倒れて血の海にいる貫太郎に敬礼(兵卒たちは、捧げ銃=ささげつつ)をして去っていった。額に入った銃弾は、耳のほうに貫通していた。ここでも偶然が幸いしている。この額の一発もそうだが、心臓もわずかに反れて、貫通している。

また、安藤隊がはじめ表門に来たとき、護衛番をしていた警視庁の私服たちが、拳銃を撃つ暇もなく、反乱軍に包囲されてしまったのだ。もし撃ち合いになっていれば、斎藤内大臣や高橋是清のように、軽機関銃でとっくに蜂の巣になっていたはずだ。

さらに言えば、表の騒ぎを聞いて、貫太郎は納戸の日本刀を取りに入ったのだが、すぐに見つからなかった。もし日本刀を抜いて立ち向かっていたら、同じ結末になっていたはずだ。この日本刀は、タカ夫人が事件のほんの数日前に、『泥棒でも入ったときに物騒です』と、風呂敷に包んで別の場所に移してあったのだ。

いくつもの歯車が、貫太郎を生かそう、生かそうとしているようにしか見えない。たとえば、襲撃が安藤隊であったということも、幸いしている。実は、先述通り、安藤大尉は、以前、鈴木貫太郎と面識があったのである。

事件の2年前に、安藤大尉は民間人2人と、鈴木貫太郎邸を訪問し時局について烈々と議論している。2時間にわたる長談義だったそうだ。このとき貫太郎は、歴史観・国家観を切々と説き諭したらしいが、いずれにしろ、安藤大尉は非常に大きな感銘を受けたもようだ。面会後、安藤大尉は貫太郎について、二人にこう述べている。

「噂を聞いているのと、実際に会ってみるのとでは、まったく違った。あの人は、西郷さんのような人で、懐が深い大人物だ。」と語っている。

しかも、後のことだが、安藤大尉は貫太郎に、座右の銘を望んでおり、これに対して貫太郎が書を送っている。二人が、事件当夜、お互いに顔を見て認識しないはずはないので、やはり貫太郎が撃たれたときに、安藤を認識していなかったという事実から、発砲の時点では安藤はその場にいなかったと考えるべきだろう。

「とどめを」という段階で、初めて安藤が部下たちから呼ばれたのだ。(別の証言では女中部屋のほうにいたという。)ここで安藤が軍刀を抜いたという説と、部下がすでに拳銃を貫太郎の喉に押し付けていたという説があり、はっきりしない。いずれにしろ、安藤大尉だけが「とどめ」を刺す命令の権限を持っていたということだ。

結果的に、安藤は「とどめ」を制止したことは、これまた貫太郎が九死に一生を得た最大のポイントになる。ここでも大きな歯車が、作用していたようだ。蹶起前の将校たちの打ち合わせで、「必ずとどめを刺す」ことが約束されていたからだ。安藤はこれを破ったのである。

おそらく、安藤大尉は二・二六事件首謀者である青年将校の中で、もっとも人望の高い一人だったろうと推察される。安藤が動かねば、蹶起(けっき)は起きなかったとさえ言われる。実際、彼は計画段階では、蹶起は時期尚早だと強く反対し、あくまで合法的闘争の道を主張していた。(従って、首謀者の一人磯部浅一は、獄中日記で、処刑されるまで、『君側の奸』とともに、安藤を罵倒し続けている。)

しかし、最終的に、この蹶起には成功の見込みが薄いと知りながら、同志を見殺しにできず、直前の23日になった参加を決断した経緯がある。しかも、叛乱軍中、彼が同志の兵卒を集めた数は、最大勢力となった。

貫太郎を生かそうとする歴史の歯車は、さらに動く。輸血が間に合ったのである。医師は、赤坂見附の歩哨線で足止めを食ったのだが、その歩哨が、なんとその医師のかつての患者だったのだ。これで、医師はバリケードを車ごと通してもらったのだ。

(余談だが、この同じ時間に、わたしの父は雪の中を千駄ヶ谷の下宿に戻り、そこで大家のおばさんから顔色を言われ、急遽、医者に診てもらった結果、結核だと判明した。同じ夜である。)

いくつもの歯車が、予定と違う動き方をして、なにがなんでも貫太郎を冥府に送ろうとしない。死神は、貫太郎が3歳のときに暴走馬に蹴られて瀕死の状態に陥って以来、何度も何度も訪れては連れ去ろうとするが、そのたびごとに、運命の女神は死神を追い払っている。このときも、重傷を負いながら、貫太郎は蘇生する(一時は心臓が止まっていた)。

戦争中は、枢密院議長をしていた。1943年昭和18年、会議の席で、嶋田海軍大臣が、山本五十六連合艦隊司令長官の戦死(国民には秘匿されていた)を簡単に報告した。びっくりした貫太郎は、「それは一体いつのことだ?」と尋ねた。嶋田は、「海軍の機密事項ですのでお答えできません」と官僚的な答弁をしたのだ。すると、このころには年齢的にも( 75歳)温厚で寡黙、好々爺然としていた貫太郎が、突然「おれは帝国の海軍大将だ! きさまの今のその答弁は何だ!」と大声で一喝、叱責したそうだ。周囲にいたものは、いまだに「鬼貫」健在なりと思い知らされ、驚愕したという。

ちょうど同じ頃(日本の敗色が濃くなってきたころである)、貫太郎は以前、校長を務めていたこともある海軍兵学校を訪ね、当時校長だった井上成美に、『井上君、兵学校の教育の効果が表れるのは20年後だよ。20年後!』と大声で言い、井上も、「我が意を得たり」とばかりに大きく何度もうなずいていたという。

井上は、開戦前から、終始戦争反対派であった。校長に就任してからは、兵学校の因習を改正し、名校長と後に讃えられるようになる。この一幕を、かたわらで聞いていた兵学校長付副官は、『井上さんが、実はあのときすでに、戦後のために生徒を教育しているという真意を見透かして、鈴木さんはこの言葉だけを言いに、わざわざ江田島まで来たんだと思う。』と述べている。

どちらかというと、引退して閑職ばかりについていた貫太郎に、青天の霹靂が下る。終戦を模索する重臣たちによって、貫太郎が担ぎ出されたのだ。貫太郎は驚いて「とんでもない話だ。お断りする。」と拒否。

貫太郎は、軍人が政治に口出しするのを最も嫌っていた。日ごろ、こんなことをよく言っていたそうだ。

『戦争はね、始めるのはたやすいんだ。しかし、止めるのはほんとうに難儀だよ。』

そんな貫太郎である。当時、軍は新たな内閣は、一億玉砕まで戦争遂行するための内閣でなければならないという機運が強かった。だから東条陸相は、元老たちに「鈴木内閣では、軍がそっぽを向くでしょう。」と反対した。元老たちは、静かに諭したそうだ。

『陛下が、鈴木にやらせたいと仰せられている。陛下の軍が、それにそっぽを向くとは、どういう意味かね。』

東条陸相は、黙った。

昭和天皇は貫太郎を呼んで、組閣の大命を下した。そのときの侍従長の証言では、貫太郎が「軍人は政治に関与せざるべし」という信念で、あくまで辞退の言葉を繰り返したそうだ。ところが、昭和天皇は、『鈴木の心境はよくわかる。しかし、この重大なときにあたって、もうほかに人はいない。頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい。』と言い渡したそうである。

満77歳2か月での就任は、日本の総理大臣の就任年齢では最高齢記録である。江戸時代生まれ、非国会議員という二つの点で総理大臣を務めた最後の人物となる。

貫太郎の事績では、言うまでもなく、本土決戦を主張する陸軍を抑えて、ポツダム宣言受諾に持ち込んだ偉業だが、その前に、海外ではもっと貫太郎の名が知られている一件がある。貫太郎の首相就任後間もなくの話だ。ルーズベルトが急死したのだ。その訃報を知ると、同盟通信社の短波放送で、声明を発表している。

『今日(こんにち)、アメリカがわが国に対し優勢な戦いを展開しているのは、亡き大統領の優れた指導があったからです。私は深い哀悼の意をアメリカ国民の悲しみに送るものです。しかし、ルーズベルト氏の死によって、アメリカの日本に対する戦争継続の努力が変わるとは考えておりません。我々もまた、あなた方アメリカ国民の覇権主義に対し、今まで以上に強く戦います。』

1945年4月23日のTIME誌の記事では、上記の前段部分を以下のように引用している。

I must admit that Roosevelt’s leadership has been very effective and has been responsible for the Americans’ advantageous position today. For that reason I can easily understand the great loss his passing means to the American people and my profound sympathy goes to them.

同じ頃、ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーも声明を発信しているが、貫太郎とは実に対照的に、ルーズベルトを悪魔として口汚く罵った。アメリカに亡命していたドイツ人作家トーマス・マン(ノーベル賞作家)は、貫太郎のこの放送に深く感動した。そして、英国BBC放送からドイツ国民に向けて訴えた。

『ドイツ国民よ、東洋の国・日本にはなお騎士道精神があり、人間の死への深い敬意と品位が確固として存する。鈴木首相の高らかな精神に比べ、あなたたちドイツ人は恥ずかしくないのか』

貫太郎の声明に対するこの種の賞賛の例は、スイスその他の国でも見られ、枚挙にいとまがない。貫太郎の言葉が戦時下の世界に感銘を与えたことは事実である。

昭和20年8月14日正午に、御前会議が終わり、日本の降伏が決まった。15日正午には、玉音放送が行われる予定だった。15日の早朝、佐々木武雄陸軍大尉らを中心とする国粋主義者たちが、総理官邸及び小石川の貫太郎私邸を襲撃しているが、貫太郎は警護官によって間一髪で救い出されている。

同日、貫太郎は天皇に辞表を提出。鈴木内閣は総辞職しているが、東久邇宮内閣が成立する17日まで職務を執行している。

貫太郎は、以前、海軍の命令で学習院に軍事教練担当の教師として派遣されたことがある。このときの教え子に後の総理大臣、吉田茂がいた。

吉田も貫太郎の人柄に強く惹かれ、以後も二人の交友は続き、昭和21年5月の吉田の総理就任後も、吉田は貫太郎に総理としての心構えを尋ねたと言われている。例えば、『吉田君、俎板(まないた)の鯉のようにどっしり構えること、つまりな、負けっぷりをよくすることだよ』などと言ったと、吉田は回想している。

貫太郎は、終戦で実質彼の生涯の役目を終えた。彼が大日本帝国の誕生を迎え、その後ずっと一緒に栄光と悲惨を歩んだ。そして、大日本帝国の断末魔に、葬式を取り仕切り、職を辞したのである。敗戦の3年後、昭和23年1948年4月17日、貫太郎が死んだ。直接的な死因は、膵臓癌だったようだ。享年81。遺灰の中に、ニ・二六事件の時に受けた、弾丸が混ざっていたという。

歴史というのは、不思議なもので、どうしてもこの瞬間に、この人物がいなければならない、という采配を振るようだ。鈴木貫太郎だけではないが、そうとしか考えられない例は結構多い。

その大事な瞬間まで、歴史が執拗にその人物を常に危機には「不在の人」にして、難を逃れさせ続けるか、難に遭遇しても急死に一生を得させるのだ。ただ、いくら歴史の女神がお手盛りで采配をしても、大事な瞬間にきちんと応えられるかどうかは、やはりその人間の器量一つにかかっている。鈴木貫太郎は、その任を見事に果たした。

昭和20年4月7日のあの当日、宮城に参内した就任式において、彼が控室で待っていたとき、『戦艦大和、撃沈さる』の急報を受けている。その心中いかばかりであったろうか。

かつて、ナポレオンが皇帝になったとき、周囲がみな彼の成功に賛辞を贈った。反ナポレオン派は、「帝位を簒奪した」と罵倒した。しかし、ナポレオンはこう答えたそうだ。

『みんな違うよ。帝冠はそこに落ちて、ただ転がっていたんだ。みんな、そこを通り過ぎたり、立ち止まったりしていたけれど、結局なにもしなかった。俺もたまたま道を通りかかったんだ。そしてサーベルの先で、ひょいとただ拾い上げただけなんだよ。』

運命の女神の采配と、それに応えるたった一人の人間。この邂逅(かいこう)は、微妙にして究極の精度を持っているようだ。



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