聖パトリック大隊の悲劇 ~国家とはなにか

歴史・戦史

これは192回目。日本人は、いまだかつて「日本とはなにか」「日本人とはなにか」を明確に問いただすことをしてきませんでした。・・・

:::

どこの国も、祖国とはなにか、われわれは何者なのかを建国(あるいは近代国家に変遷する過程)において、はっきりとした定義や認識を得ている。しかし、日本はそうではない。

その曖昧さが、リベラルと称するただの無責任な左翼思想や近隣諸国の回し者としか思えない朝日新聞や、多くの学界、論壇、メディアによってつけいられる隙(すき)をつくっている。

逆に考えてみればよい。「なにを失ったら、日本ではなくなるのか」あるいは、「なにを失ったら、わたしたちは日本人ではなくなるのか」である。

それに賛成するかしないかはともかくとして、大多数の日本人がふと思い浮かぶ、一つの「それ」とは、天皇制くらいのものであろう。国民の過半が、外国語を話す人間になったとしても、極端な話、誰も日本語を使わなくなっていたとしても、この国に天皇制が存在している限りは、日本であるという、かろうじて、わずかなコンセンサスを維持できる。

では、そうした制度や装置以外に、もっと本質的な意味を日本と日本人の定義に与えるものは果たしてあるのだろうか。それをわたしたちはもっとつきつめなければならない。その努力が少なすぎるのだ。国境のなかった時代はよい。しかし、あの醜い赤い国境線というものが引かれてしまっている以上は、その大前提がはっきりしていなければ、すべての情熱は徒労に終わる。

どの民族であっても、どんな宗教を奉じていても、どのような母国語を話すにしても、この国土に一つの共同体として国民国家を形成することの、絶対必要十分条件とはいったいなんなのか。わたしたちは、その答えをはっきり出していないのである。

その答えの前には、日本人と称するわたしたちも、在日外国人問題、被差別問題も、イスラム教徒問題も、どうでもよい問題なのである。それらを問題にすること自体が、吐き捨てるほど下らないことなのだ。なにが違っていても、その答え一つが明確であれば、わたしたちはみな「日本人」のはずなのだ。

19世紀前半、アメリカとメキシコとの間で行われた米墨戦争というのがあった。アメリカが帝国主義に突入していった最初の戦いといってよい。1846年から48年の戦争である。有名な、「アラモ砦の戦い」は、その9年前に行われた、言わばアメリカによるメキシコ侵略の前哨戦である。

この米墨戦争のさなか、アメリカ軍から脱走し、メキシコ軍として戦い、果ては敗北して、80人の一斉絞首刑に晒された兵士たちがいる。聖パトリック大隊(サン・パトリシオス)である。

なぜ、彼らはアメリカ軍から逃走して、敵軍に合流したのか。彼らにとって、祖国とは何だったのか。最大800人まで膨れ上がった聖パトリック大隊の兵士たちの4割はアイルランド人であった。移民である。

移民こそ、たどり着いた国でそれこそ「おれは一体、この国でなにをするのか。しなければならないのか。どんな夢を抱き、その国民として生き、死んでいくべきなのか。」をその国土を踏んだ瞬間から、一生問われ続ける人たちだ。彼らにとって「国家とはなにか」は、自身の生き死にを賭ける切実な問題なのである。わたしたち一般の日本人には、彼らの切実さに、とてもではないが思いが及ばない。

この問いかけは、戦争という究極の事態にあって、民族や国家の覚悟のほどを試すことになる。

米墨戦争は、テキサスの領有を巡るアメリカとメキシコの戦争だ。というより、そもそもテキサスはメキシコ領だった。カリフォルニアもそうである。それが、この戦争でアメリカに簒奪されたというのが正しい。メキシコは敗戦によって、国土面積のなんと半分を失ったのだ。

-テキサスに不法移民を潜入させ、事実上、人口でアメリカ人がメキシコ人を凌駕するまでに浸食し、挙句の果てに武力で制圧するというやり方は、今中国がチベット、インド国境、内モンゴル、南シナ海で行っていることと、なんら変わらない。

そのうち、世界各国に「飛び地」の中国領が成立することだろう。スリランカなどは、大規模プロジェクトを中国の支援で実施し、支払いが困難になった時点で、ハンバントータ港の99年間の租借権を与える羽目に陥った。

おそらく似たような手口で、アフリカ・アラビアの内海である紅海の要衝ジブチも中国は「手に入れる」ことになるだろう。「99年間の租借」とは、そのためにこそ革命をしたはずの、帝国主義国家の侮辱的国際関係そのものであるはずだ。中国は、きれいごとを並べている割には、やっていることはかつて欧米列強が植民地争奪戦に狂奔していたころと、同じことをしているのだ。しかも国内制度は、かつてのナチス(国家社会主義)と違いを見つけるのが難しいほと酷似した、「国家資本主義」である。

さて、後に聖パトリック大隊を構成するアイルランド人、ドイツ人、フランス人、スイス人、ポーランド人、英国人、スコットランド人、そしてカナダ人たちは、共通項を持っていた。全員がカトリック教徒だったのだ。

アメリカは建国以来、プロテスタントの国だ。カトリックが、異端である。彼らは、戦争前、ちょうどアイルランドを中心に欧州全体に広がっていた「ジャガイモ飢饉」で露頭に迷い、アメリカに新天地を夢見て移民してきた青年たちだ。

ところが、アメリカではカトリック教徒は迫害されていた。まともな職にありつけなかったのだ。その迫害の度合いは、彼らの手紙などによると、本国にいたときに受けたものより酷薄なものだったようだ。

実際、アメリカ大統領の資格は、現実にプロテスタントと相場が決まっている。歴史上初のカトリック教徒の大統領は、建国以来、ケネディ大統領誕生まで待たなければならなかったのだ。

ようやくメキシコとの度重なる戦争のための募兵に応じて得た軍務も、日曜日のミサ礼拝への参加を阻止されたり、露骨な差別待遇を受けたりと散々だった。

メキシコ軍との戦闘に勝った後、占領地においてアメリカ軍兵士たちは、カトリック教会に逃げ込んだメキシコ人たちを殺戮するは、武力攻撃するは、同じカトリック教徒である彼らの心を痛めた。

彼らは知ったのだ。メキシコ人は、自分たちと同じカトリック教徒だということを。彼らが、最終的にアメリカ軍から脱走するに至ったのには、様々な要因がある。

メキシコの独裁者サンタ・アナ将軍(大統領)は、積極的にアメリカ兵のメキシコ軍への組み入れを推奨し、招聘していたから、高額な給与と土地所有を約束するなど好条件もあった。

が、第一義的には、カトリックであるということがなんといっても最大の動機だったのである。

彼らは、移民する国を間違えたと思ったのだ。カナダ人移民でアメリカ軍将校として軍歴のあったジョン・ライリー少佐を中心に、脱走米兵が終結し、聖パトリック大隊としてメキシコ軍に正式に組み込まれ、米墨戦争ではその優秀な砲術を核として、幾多の戦線に参加した。

しかし、メキシコ軍は弱かった。そもそも使用するマスケット銃は、一世代前のナポレオン戦争当時の代物だった。(当時を遡ること30年前の武器だ)これに対して、アメリカ軍はライフルを装備していた。

いずれの戦いでも、攻めるアメリカ軍のほうが数的には劣勢だったが、いつも敗北するのはメキシコ軍だったのだ。陣地防衛に参加した聖パトリック大隊は、すぐに白旗を掲げて降伏しようとするメキシコ軍将兵が続出するたびに、これを射殺しては徹底抗戦を試みる始末だった。

結局、メキシコは敗北し、聖パトリック大隊も多くの死傷者を出した末、降伏した。が、むしろこの後のほうが、彼らを待ち構えていた運命は残酷なものだった。

アメリカ軍によって脱走の罪で告発されたのは、このうち72名である。二か所の軍事法廷で裁かれたが、兵士は弁護士も許されなかった。

中には、兵士の数名は酒気によって脱走に至ったことを主張したり、メキシコ軍に強制的に参加させられたと説明した。しかし大隊の圧倒的多数はなんの主張もせず、彼らの主張は記録されていない。

最終的に80名が死刑となった。この論拠は、彼らはメキシコの宣戦布告の後にメキシコ軍の任務についたという点にあった。実際、米墨戦争中には9000名以上の兵士が米軍から脱走したのだが、聖パトリック大隊だけがこのような極刑に処せられた。

一方で、メキシコによる公式な宣戦布告以前に兵役を去ったライリーは、「裸の背中に50回の鞭打ち、脱走兵(deserter)を示すDの文字を焼き付け、戦争が続いている間は首の周りに鉄のくびきをつける」という判決が下された。

反逆罪による集団絞首刑は1847年9月10日にサンアンヘル、9月13日にチャプルテペク(メキシコ・シティ)で行われた。ウィンフィールド・スコット将軍の命令により、30名の兵士たちは、チャプルテペクの戦い(米墨戦争最後の戦い、メキシコ・シティの戦いのこと)を戦っている両軍から見える、要塞の上でアメリカ国旗がメキシコ国旗に替わる正確な瞬間に処刑された。見せしめである。

この処刑には、捕虜となったメキシコ軍の准将が、涙ながらに撤回を要求している。そして「あなたがたは文明の国だと自称しているが、その名誉はこの処刑によって、著しい汚点として、歴史に永遠に刻まれることになるだろう。」と糾弾した。

処刑はウィリアム・ハーニー大佐が実行した。処刑を監督している間、ハーニーは、前日に両足を切断していたフランシス・オコーナーも絞首刑にするよう命令した。軍医が大佐に、戦闘で両足を無くした兵士は欠席していることを伝えた時、ハーニーは「今すぐそいつを連れてこい! 私の命令は神にかけても30名を絞首刑にすることだ」と返答した。

4時間半後の午前9時30分、ハーニーの命令で、横に張り渡された長い長い処刑台に、輪縄をかけられて結ばれた兵士の足元を支えていたカートが一斉に外され、延々と横並びに、兵士たちの体が宙に浮いた。

このチャプルテペクの戦い(メキシコ・シティの戦い)には、アメリカ軍側に、ピケットやロングストリートが参加している。いずれも、20年後の南北戦争で、南軍の将軍となった人たちだ。後の南軍総司令官のリーも、北軍総司令官のグラント将軍も、この戦いには参加していた。

その後ライリーは、メキシコ軍の将校として軍務に復帰したが、2年で退いている。黄熱病で死んだという説、欧州に渡ったという説。いずれにしろ、その後の生死は不明である。

聖パトリック大隊の研究者ロバート・ミラーが用いた1847年の隊員名簿によると、126人の隊員の氏名が記載されている。同名簿から、126人中50人が1847年9月時点で絞首刑ならびに銃殺刑に処されたことが判明している。

捕虜となった半数が処刑され、半数が免れた。ライリーはその後者の中にいた。その後も人目を避けて生き続けたであろうライリーの人生は、おそらく屈辱的なものだったろう。

死を天命として受け入れた部下たちの方が英霊としてメキシコで賞賛される一方、生に甘んじている自分の愚かさと恥辱に苦悩し続けたことだろう。

しかし歴史上、私たちの記憶に残っているのは聖パトリック大隊とジョン・ライリーという個人名だけである。無念にも犠牲となった20代の若者たちの個々の名前が、たとえわずかでも具体的に、人々の心の中に記憶されることは、まず無い。しかし、まぎれもなく、その一人一人の青年たちは、彼らが命を託するに足ると信じた国家に殉じたのである。

アメリカでは、いまだに、聖パトリック大隊は、裏切り者、反逆者として、最低の評価である。逆にメキシコでは、悲劇の英雄である。

ちなみに、このメキシコ・シティの最終決戦では、メキシコ陸軍士官学校の幹部候補生(メキシコ人)たちが、最後まで徹底抗戦している。米墨戦争を通じてだらしなかったメキシコ軍だが、その中にあっても、最後の土壇場で英雄的な行為を見せたのは、たった6人のメキシコ人青年たちだけである。このことは、メキシコの名誉のために書いておかなければならない。

6人の士官候補生は、降伏しようとする将軍たちにも従うことを拒否し、優勢なアメリカ軍と戦って戦死した。6人の名前は、フアン・デ・ラ・バレラ中尉、士官候補生のアグスティン・メルガー、フアン・エスクティア、ビセント・スアレス、フランシスコ・マルケスおよびフェルナンド・モンテス・デ・オカだった。銃撃戦の中で、一人ずつ倒れていった。

フアン・エスクティア1人が残され、アメリカ軍がまさに彼を殺そうとした時、エスクティアはメキシコ国旗を掴み、それで体を包んで城壁から宙に舞った。

奇しくも、聖パトリック大隊の処刑とフアン・エクスティアの死は同じ日に起こった出来事だ。米墨戦争の最終決戦で、悲劇的な死を迎えた最後の兵士たちは、移民脱走兵と学生たちだったのである。

国家とはなにか。国民とはいったいなんなのか。愚かさを通り越して亡国の民と化した日本人は、戦後70年以上経過して、なおその答えを明確に答えることができていない。



歴史・戦史